第49回NHK障害福祉賞 優秀作品
「高次脳機能障害と共に生きる」 〜第1部門〜

著者:貝野 光男(かいの みつお) 東京都

  講談界のはぐれ鳥
 私の職業は、講談師です。
 落語は笑わせるもので、浪曲は音楽にのって語るもの、までは、みなさんご存知かもしれませんが、講談となると、よく分からない、ましてや聞いたことがない、というのが正直なところではないでしょうか。
 講談というのは、言葉で客席に宇宙を描いてみせるような語りの芸です。釈台(しゃくだい)という小型の机を膝前におき、張(は)り扇(おうぎ)で、その釈台を「ぱんぱん」と叩きながら、時代とともに生きた人物とその歴史的背景を、独特のリズムに乗せて語っていきます。
 私は演芸界の史上最年少にて芸術祭優秀賞を受賞、入門から十四年目に真打に昇進し、三十五歳の時、二代目悟道軒圓玉(ごどうけんえんぎょく)を襲名いたしました。
 私は師事した師匠が二人おりましたが、高齢だったためもあり、相次いでご縁を失いました。師匠を失った後、私は落語、狂言、新劇、義太夫など、講談以外の先達に教えを請い、芸を磨くことに専念してきました。師匠を失った私は「講談界のはぐれ鳥」と言われました。
 昭和の終わり、講談はすでに人気は下降気味でしたが、私は節談説教(ふしだんせっきょう)の研究に余念がなく、六百冊に及ぶ文献資料の読み込みや現地調査の取材旅行に出かけるなど、多忙な毎日を送っておりました。
 はぐれ鳥ながら、高く飛ぼうと羽ばたいておりました私は、ある日、無残にも撃ち落とされてしまいました。──交通事故に遭った私は、真っ逆さまに人生の奈落へと堕ちていきました。

  生死の淵をさまよう
 それは、平成になったばかりの一九八九年一月二十七日の深夜に起こりました。
 自転車で帰宅しようとメイン道路を走っていた私は、少し狭い道から飛び出してきた乗用車にぶつかられたのです。
 私は空中に跳ね上げられ、半回転してボンネットの上に落ち、フロントガラスに頭の左側をぶつけて、地面にたたきつけられました。しかし外傷というか出血はなかったのです。以上のことは、記憶しているわけではなく、後から弁護士に、事故調書や現場写真を見せてもらいながら説明を受けました。
 救急車で運ばれた市内の病院に入院した私に付き添っていた母が
「もうお母さんは帰っても心配ないですよ」
 と言われたのですが、やはりそこは親、心配で病室に残ってくれました。すると、意識がない私が吐き、その始末をしているうちに、いままで無意識に点滴を払いのけようとしていた私が、その仕草をしなくなったことに、母は気付きました。慌てて手を握ってみると、私の手は冷たくなっていました。
 母の知らせを受け、駆けつけた当直医の判断で、医科大学病院に移された私は、CT(コンピューター断層撮影)の結果、大量の硬膜下出血を起こしていることが判明しました。既にこのとき、私は脳死状態に近づいていたのです。
 あと一時間で死ぬか、それとも手術するか──手術をしても、頭を開けて脳の出血を抜くとき、血管が全部収縮して血流が止まってしまう危険がある──どちらに転んでも死がぽっかりと口を開けているような状況の中、すぐに手術が行われました。
 頭蓋骨開頭しての血腫除去手術は、長い時間をかけて慎重に行われました。幸いにして手術は成功しました。私は、まさに死の淵から呼び戻されたのです。

  言葉を失うということ
「……手術後五十一日経ちましたが、字が書けません。電話もかけられません。……このままでわ社会に出られなくなるのでわと心配になりましたので、八方手をつくしてリハビリの病院の名前をしらべましたが此(こ)の内で先生の良いと思われる病院がございましたらお知らせ下さいませんでせうか。親としてこのままでわ死にきれません」
 これは母が主治医に宛てて書いた手紙の抜粋です。見舞いに来てくれた知人の元看護師さんから「脳障害のリハビリは半年以内に始めないと手遅れになる」とアドバイスをもらい、焦った母はありとあらゆる手づるを求めてくれたのでした。
 私についた最初の病名は「失語症」。「失語症」というのは、しゃべれないことだと誤解されますが、聞くことも、考えることもすべて「言葉」でするわけで、その「言葉」を失った意識がすべて崩壊するのです。
 また「失語症」にもいろんなタイプがあります。私の場合は、漢字に関する脳の部分は破壊されてなかったのですが、平仮名に関する部分がやられていました。
 どういうことかというと、漢字は読めるが、平仮名が読めないという、普通の人から見れば、なんとも珍妙な現象が私の脳内では起こっていたのです。
 その頃、入院を知った友達が、お見舞いに花の写真集を持ってきてくれました。写真の下に説明が書いてあります。その説明の漢字は読めたのですが、平仮名がひとつも読めません。まだ、ぼーっとしている時期なので、悲しくはないのですが、(なんだかへんだな)と、読めない平仮名を指でなでていた記憶があります。
 脳の損傷が激しかった私は「脱落神経症状」といって、神経細胞が死んで血液の中に吸収されてしまいました。その結果、「運動性失語症」「失計算」「失書」「失読」「記銘力障害(いわゆる記憶喪失)」「両視野狭窄(半盲)」「歩行障害」「全身打撲」「症候性てんかん(のちに治った)」など、なんと五十七種の傷病名がつきました。
 余談ですが、講談には「修羅場読み」というものがあります。それは戦場に赴くときの様子をリズミカルに読み上げるのです。その時に、軍(いくさ)に参加した武将の名前を羅列したり、戦地に赴く大将の鎧甲冑(よろいかっちゅう)の種類や様子を事細かに描写します。今思い返すに「傷病名読み」と称して、創作講談が書けたなと。当時はそんな余裕はもちろんありませんでした。なんせ、時計が読めないんですから。そんな人間が講談を再び読めるようになるとは思いもよりません。

  増えていく症状
 普通、病状というものは、身体が回復するにしたがって改善していくものです。ところが、私の場合、身体が回復するにつれ、症状(病名)がどんどん増えていくのです。
「失語症」だけでも充分な打撃と混乱をもたらされているのにかかわらず、次に私を襲ってきたのは「失行症」でした。
 病院のトイレで、ここだと思って背伸びしながら排泄していたら、後から用足しに来た人から「それは違うよ」と便器に連れていかれたという記憶があります。私はなんと手洗い場で用を足していたのでした。どうりで背伸びが必要なはずです。
 行動を失う──水道の蛇口、水が出るということは理解できますが、どうすれば水が出るか分かりません。電気カミソリは事故前から使っていて、電源が必要なことは分かりますが、どうしたら、電源につなげるのかがわかりません。服は上下がわからず、逆さに着ようとしたりしていました。

  絶望のリハビリ
 それでも、ちゃんとリハビリをすれば元通り普通の生活に戻れる、講談師としてまた高座にたてる、私はそう思っていました。ですから、リハビリには一生懸命取り組みました。
 頭は左がやられてますから、身体は、右半身全部が「片麻痺」となっていて、目も右の視野が半分欠けてますし、手足もだらんとしていました。肉体の訓練は、自転車漕ぎのような機械などを使い、負荷をかけてやったおかげで、どんどん回復してきました。しかし、問題は脳のほうでした。
 なんせ、足し算、引き算、掛け算、割り算が出来ない。認知症と間違われるのですが、認知症とは違うのです。
 あるとき、リハビリ室で簡単な問題が出されました。
  三+三=
  三×三=
 私はそれぞれのイコールの後に、「六」と書き込みました。担当の先生に
「『三×三=六』では違います」
 と言われても、最初は意味が分かりませんでした。何度も何度も説明を受けて、やっと「三×三」が掛け算だったことに気付きました。
 普通の脳の動きでは、「三+三」は足し算、「三×三」は掛け算と、思考を切り替えることが出来ます。しかし、私の場合、「三+三」が足し算と認識するとそのまま思考を切り替えることが出来ず「三×三」も足し算と認識してしまうのです。これは思考の「保続」といわれるもので、思考が続いて残ってしまうことをいいます。
 掛け算と足し算の区別が頭の中で崩壊していることが分かったとき、不意に涙がぼろぼろとこぼれてきました。問題用紙の上にぼたぼたと涙が落ちました。
 一生懸命リハビリをすれば普通に元に戻れると思っていたものが、これじゃあ駄目だ、もう普通には戻れないんだ、という絶望が、私を襲ってきました。涙がこぼれるだけだったのが、しゃくり上げ、最後は文字通り号泣してしまったのです。足し算・掛け算の区別が出来なくなっていたことに気付いたショックは、どうしようもなく大きなものでした。
 私よりずっと若い二十代の先生は、そんな私にティッシュペーパーの箱を黙って一箱渡して下さり、その日のリハビリは、そこまでで中止になりました。

  再起不能の駄目押し
「記憶障害」とともに、私は講談の持ちネタをすべて失っていました。持ちネタというのは、講談台本というものがあって、それを諳(そら)んじて皆様の前で芸として披露できることを言います。長いもので一時間ほどのお話をすらすらとリズミカルによどみなく「読んで」おきかせするわけです。ちなみに講談は暗記してようが台本を前に置いていようが、皆様の前で高座に上がってお話しすることを「読む」といいます。その持ちネタは三百近くありました。事故前は、高座に上がる前にさっとおさらいすれば、すぐに口演できたものが、地震の後の本棚のように、すっぽりとそこにあったものが抜け落ちてしまいました。しかも、何がその本棚に入っていたかすら思い出せないのです。
 講談師として、再出発はありえないなと、まず覚悟しました。開頭手術をした医師からは、大量の頭蓋内出血で脳が潰(つぶ)れている写真を見せられて、
「命があっただけでよかったと思って下さい。後遺症は仕方がないのです。リハビリをしてもたぶん効果はないと思います」
 と言われていました。
 事故から一年一か月後に「労働能力喪失百%」という診断が下りました。国立身体障害者リハビリテーションセンター(現・国立障害者リハビリテーションセンター)の相談室では「記銘障害があると、どんな職種でも職業訓練は難しい」「まして就職はまず無理です」と宣告を受けました。当時は老母以外に頼る家族もなく、特別な財産もないので、何としてでも職業的自立をはからなければ、という気持が強かった私は、新聞配達ぐらい出来るかと密かに思っていたのですが、到底無理だと分かりました。
 実は、私は事故になる半年前に離婚していて、老いた母親と二人きりの生活をしていました。母親は、戦死した夫(私の父)の恩給と老齢年金で、年間二百万ぐらいの収入があるから、私がこのまま回復が見込めなくても、なんとかやっていけるだろう。親戚も哀れんで手助けをしてくれるだろう。むしろ、私が生きていると母の足手まといになってしまうから、死んだ方がいいのだろうな、とも思いました。
 交通事故の裁判は、私の九割過失と言われていました。自転車に乗っていた私は、酔っ払って信号無視で、無灯火で、と、私が意識を失っている間に加害者は警察に報告していました。実は私は酒が一滴も飲めない体質なのですが。最終的には私の非はないことが明らかになるのですが、当時はこの世の最悪を寄せ集めたような状況でした。あらゆることが私に生きている意味がないと言っているようでした。
 その頃から、私は、もらった睡眠薬を密かにためていました。ところが、ためていた睡眠薬を看護師さんに見つかってしまいました。
「この薬は便利なので私たちもよく使っているものなのよ。いくら飲んでも死ねないのよ」
 と優しく諭されました。
 ああ、私は死ぬことすら出来ないのか──そんな絶望の追い打ちを受けている最中、ある方から励ましのはがきをいただいたのです。

  あなたがこの世にいるならば
「あなたがこの世にずっといるなら、私もこの世にずっといたい」──それは永六輔さんからのはがきでした。前座のころから私の高座を聞いてくれていた永さんからのはがきは、絶望に閉じ込められていた私の心にさした一条の光でした。
 それから、半月ほどして、かかりつけの歯医者さんが見舞いにきてくれました。私が
「こういう状態なので、たぶん社会復帰は出来ないと思います」
 といったら、
「そうですか。せっかくの新境地を開いたのになあ」
 と言って、脇を向いて涙をそっとぬぐったのです。
 その時、ああ、この人は、私のために泣いてくれてるんだ。おれは一人じゃないんだ、という実感が私を包みました。
 絶望に閉じ込められたと思っていた私でしたが、友人知人の温かい光を感じることが出来、ようやく絶望から出ていくことを、考えられるようになりました。

  「高次脳機能障害者」のリハビリの現状
 日本に脳外科の医師は四千人ほどいるそうですが、その中で、私のような「高次脳機能障害者」のリハビリのことを考えているお医者さんは何人いるのでしょうか。大学病院を片っ端から回った結果、真剣に取り組んでくださる二人の先生に出会うことができました。
 一人は、多摩老人医療センター(現・多摩北部医療センター)で出会った言語療法士さん。
「リハビリはもうたくさん! というまで、やってあげます」
 と約束いただいたときは、本当に励まされました。
 そして後に、私の主治医となって下さった布谷芳久東京専売病院リハビリテーション部長(当時)が出した検査結果は「注意障害、高次記憶活動障害型記憶障害、純粋記憶障害型記憶障害、半盲」で「今後も残存すると予想される」という厳しいものでした。
「一生付きあいましょう」
 とおっしゃって神経心理学的リハビリテーションが始まりました。
 いくつかの光明をいただいた私は、再び、講談で食べていくことを考えるようになっていました。

  芸は身を助ける
 事故前は、最初に申し上げたように、私は講談師として生計を立ててきました。しかし、「記憶障害」「失語症」という病名に講談なんてもう無理だと思っていました。
 何より障害者職業センターで
「障害者職業適性検査をするまでもありません。障害者職業訓練校を卒業しても、中高年の障害者は就職先がない。今までの仕事の周辺で仕事を探す以外に道はないでしょう」
 と結論を出されたのです。でもそんな道は見つかりませんでした。
 布谷先生が
「貝野さんは、脳に大きな障害を負っても、講談に関する脳内ネットワークは崩れなかった。事故前にはあらゆることが講談中心にインプットされていたのです」
 と後に語ってくれましたが、当時は、他に生き延びる術がありませんでしたし、思いつかなかったのでした。
 ときどき「孫は子よりいでて……」「それでは大石殿、拙者は……」などの短い講談の断片が口を突いて出ることはありましたが、筋が蘇るようなことはありませんでした。そこで、心理療法士のところで記憶訓練を始めました。最初は堀口大学の『小学生』というこの四行の詩を覚えるのに四か月かかりました。
 「先生
  植物学はうそですね
  樹木もやはり笑ふもの
  梅が一輪咲きました」
「次は、講談をやってみましょう」
 という心理の先生の発案で次に、三十分の講談をどう覚えるかに取り組みました。かつて自分の発売したLPレコードから「大石内蔵之介、東下り」をテープに録音し直し、一分ずつ覚えていくことにしたのです。何をするときもテープを回しっぱなしで、「短期記憶」を「長期記憶」へ移行させる作業に根をつめていました。
 ある朝、起きたら激しい頭痛、めまい、嘔吐に襲われたのです。くも膜下出血かもしれないと、救急車で大学病院の救命医療センターへ担ぎ込まれたのですが、血圧、CTにも異常なく、筋弛緩(しかん)剤を打って症状は治まりました。
 どうやら、あまりに集中し過ぎたために緊張の極みに達していたようです。それからは、就寝中にテープを聴くのは止めにしました。

  奇跡の高座復活
 そんなこんなの努力が実を結び、その年の十一月十四日、友人宅で「大石、東下り」を読み(語り)きりました。一分ずつ覚えた話が、よどみなく読みきれたときの達成感は、なんとも言えないものでした。
 あれから十一年、この会は終わりました。私の高座を聞いてくださった布谷先生は
「覚えて演ずるシステムはしっかりと定着しました。アドリブから本筋にもどる『注意の転換』も確実に進歩しています。高座だけみれば、どこが障害者? と思うでしょうね。芸があったから社会復帰できた」
 と言って、芸には太鼓判を押して下さいました。
 それからは、リハビリ講談と称して、闘病体験を講談にしたてたり、時々高座の依頼に、覚え直した十数本の演し物で応じたりしています。近頃プロデューサーの方からもお声をかけていただくようになりました。
 しかし、日常生活の困難さは相変わらずです。高座で失敗したら「やっぱり障害者」と切り捨てられるから、一回一回が息の詰まる真剣勝負です。
 事故から二十五年という月日が経ち、あれからも何度も絶望に襲われました。
 でも、絶望と交錯するように、いろんな出会い、蘇る記憶が再び希望という光明となって、私を励ましてくれます。
 有名な彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は、「六十・七十は洟(はな)垂れ小僧。男ざかりは百から」と満百歳の誕生日を前に、三十年分の木材を買い込んだと聞きます。
 私の二番目の師・服部伸は、九十二歳まで高座を勤めました。
 私は、七十一歳。まだ二十年は頑張れる。今日はなぜか、そんなふうに思えます。

 樹木も笑えば、梅も咲くのです。

 私もまた咲こう。

貝野 光男 プロフィール

昭和十九年生まれ 講談師 東京都世田谷区在住

受賞の言葉

拙文に対し身に余る賞を頂きまして誠にありがとうございます。変な表現ですが、これで「一人前の障害者」になれたのかなァと……。「講談師」の道を諦めてはいけない、とリハビリをして下さった故・布谷ドクター、私を連れて大学病院のハシゴをしてくれた亡き母、芸界で育ててくれた恩師の霊前に受賞の報告をしました。この機会に、全ての「高次脳機能障害者」に対する更なるご理解とご支援を心よりお願い申し上げます。

選評(柳田 邦男)

交通事故で重傷を負い、失語症、失計算症、記憶喪失等々、五十七種もの傷病診断名がつけられ、医師からは、「職業訓練は無理、まして社会復帰は無理」と言われ、死を考えたという貝野さん。しかし、身近な人からかけられた思いのこもった言葉から、「おれは一人じゃない」という意識が湧き上がり、苛酷なリハビリに歳月をかけて励んだ結果、ついに本職の講談を滔々と演じることができるまでに回復したのですね。このような高次脳機能障害に陥った人の手記が寄せられたのは、まだ少なく、極めて貴重な記録です。この手記からは、人間の再生への道を拓くものとして、心底から寄り添ってくれる人の存在と、生きる目標をゆるぎなく抱いてどんなに時間をかけてでも脳機能、身体機能を再獲得していこうとする意思の強さとがいかに重要かが伝わってきます。苛酷な障害を乗り越えようとしている人々に大きな勇気をもたらす手記と言えるでしょう。