第49回NHK障害福祉賞 最優秀作品
「ほほえみだけが、未来を語る」 〜第2部門〜

著者:福峯 静香(ふくみね しずか) 沖縄県

 平成十六年五月二十四日、重度の障がいをもつ息子・宙(そら)が、生を閉じました。一歳十一か月の人生でした。

 宙が息を引き取る数時間前、私は、二日前に入院してきた同じ病室のお子さんを抱いていました。

 入院時から発熱による不穏状態が続き、泣き叫んで暴れるその子を、お母さんは付きっきりで抱っこしてあやしていました。病棟のスタッフは、生死をさまよっていた私の息子に手がかかり、お母さんに代わる余裕はありません。朝からずっとその子を抱き続けているお母さんの顔は、疲労に満ちていました。

「うちの子は看護師さんがついていてくれるし、私には今、宙に何もできることがないから、抱っこを代わるので、お母さん、少し休んで息抜きをしてきて」
 そう言って、私はその子を抱きました。

 遠慮していたお母さんですが、
「すいません、電話をかけてくる間、少しだけお願いします」
 と部屋を出ていかれました。そうして、ほんの少しの間ですが、私はその子を抱っこして、あやしました。

 准看護師の仕事をしていた私には、わが子の命があと数時間ほどであることは、よく分かっていました。普通なら、他の家族のことなど目にも入らない状況かもしれません。でも、病室内では闘病仲間同士、助け合うのはとても当たりまえのことでした。

 重度の障がいをもつ息子を生んでからの闘病の日々は、人の世話にならない日など一日もありませんでした。人に支えられ、助けられて、ようやく一日を終える、それは治療を受けている宙だけではなく、母親である私自身にも全く同様の日々でした。

 だから、私は生死をさまよっている宙の横で、他の子を抱っこしてあやしていたわけですが、抱っこしているその子のぬくもりや抱き心地を、呼吸器につながれて、次々と治療を受けているために、抱くことさえできない宙の代わりに、抱かせてもらっているかのように感じ、思わず強く抱きしめて、愛しく感じていました。

 その時、私は宙亡き後の自分の生き方を見つけたのです。宙亡き後は、こんなふうに誰かの役にたつ生き方を選択しよう。そうすれば、宙がこの世からいなくなっても、私はきっと生きていけるはず。

 それは、絶望の先に見えた微かな希望の光でした。そうして、宙を亡くした後、障がいをもつ子どもとその家族を支援する団体「療育ファミリーサポートほほえみ」を立ち上げたのが、平成十六年九月のことでした。

 宙を亡くしてわずか四か月後の立ち上げは、戸惑いもありましたが、何かせずにはいられない、そんな気持から、生き急ぐかのように全速力で駆け抜けるような日々が始まりました。

 障がいをもつお子さんとその家族を、「療育ファミリー」と称して、一時間六百円の、有償ボランティアという形で、お子さんの見守り・預かり・移動支援・病院での付き添い等を行いました。特に看護師の資格を活かして、医療的ケアのあるお子さんへのケアの提供というサポートは、他に同様のサービスが無いため、驚くほど利用の申し込みがありました。

 初めのうちは、支援者からの紹介、そして徐々にお母さん同士の口コミで、毎日のように利用希望の電話が入り、重度の障がいから、軽度障がい、病院や自宅、時には保育園や学校などで様々なサポート依頼が舞い込んできました。

「あなたにもできるサポートがある」という呼びかけに、サポーター希望者も、どんどん集まりました。

 看護師の資格のある方には、優先して医療的ケアのあるお子さんの支援をお願いしますが、医療的ケアがあっても、病院の中での見守りであれば、資格がなくても遊び相手ができます。学校から学童への送り迎えなどでも多くのサポーターさんが活躍してくれました。

 月に数回の利用者もいれば、週に五回利用される方もいて、サポーターも五十人弱が登録して活動して下さり、サポートの延べ回数は年間五百回を超えていきました。

 でも、私は「ほほえみ」が継続的に支援を行うことが、必ずしも良いことではないと考えていました。丁度、障害者自立支援法ができ、自立支援制度のサービス提供が始まったこともあり、有償ボランティアという不確実なサービス提供よりも、制度上のサービス利用につなげていくことが必用だと、考えていたからです。

 そこで、「ほほえみ」の最終目標を、「ほほえみがなくなること」として、「ほほえみ」が無くても療育ファミリーが困らない社会を作ることにしました。

 具体的には、利用の依頼があった際、他に利用できるサービスや支援はないかということを、家族と一緒に考えて、臨時的には「ほほえみ」で対応しながら、一緒に事業所を回ったり、行政の窓口へ出かけたりしました。

 初めの頃は、そうやって出かけても、なかなかサービスの利用に至らないことの方が多かったのですが、サービス提供の必要性をいろんな場所で訴えていくうちに、サービス提供事業所が、サービスの拡充や新規立ち上げを行ったり、行政の窓口でも、担当者が支援ニーズに耳を傾けてくれるようになり、制度の活用方法を一緒に考えてくれたりするようになってきました。

 その頃、お母さんたちが良くおっしゃっていたのが、「私一人で行った時には、断られたのに、福峯さんが一緒に行ってくれて話が進んで良かった」という言葉でした。役にたてた嬉しさはありましたが、これではいけない、と強く思いました。

 当事者というのは、遠慮がちになってしまい、必要な事を必要だと訴える力が弱くなってしまいがちですが、そのような小さな声に、きちんと耳を傾けられる人材が、どんな場所でも欠かせないのだと思います。

 そんな地道な活動を続けていくうちに、気が付くと、「ほほえみ」の設立当時、二つしかなかった市町村運営のファミリーサポートは県内の全市町村に設置され、一つしかなかった小児に対応可能な訪問看護事業所は、五事業所を超え、三事業所のみであった児童デイサービスは、百を超えて開設されました。

 そして、「ほほえみ」の利用者は年間延べ回数が数十件と激減しました。そろそろ「ほほえみ」を無くしても大丈夫な時期になったのではないかと考え始めた頃、沖縄県において、重症児(者)の生活実態調査が行われることになりました。

 これは、私たちが重症児の生活の実態を広く知ってもらいたいと、「ほほえみ」を含む関連団体で開催したシンポジウムを受けて、県が実施した事業でしたので、私も事務局として調査事業に直接関わることになりました。

 そうして、県内の重症児(者)の家族の声を集めて、集計し、まとめた後、こんなことを考えました。

「『ほほえみ』が立ち上がった頃に比べて、福祉サービスは格段に充実してきたのに、お母さんたちの負担感は、全く変わっていない、それどころか、増しているようにさえ感じる。なぜなのだろう」

 医療的ケアの重症度が増していることや、在宅への移行率があがっていること、更に周産期医療の発達により、重度障害をもっているために以前であれば死亡していた子どもたちの生存率が上がっていて、重い障害をもっていても生きられる子どもたちが増えていますが、その子どもたちを支援する病院の体制がどんどん厳しくなっていること……いくつかの原因は考えられました。

「いったいどうしたら、お母さんたちの負担感は減るのだろう、私には、いったい何ができるのだろう」

 そのような事を考えて、模索するうちに、お母さんたちに足りていないのは、情報ではないかと、気が付きました。

 情報があれば、お母さんたちは自分で考えて自分で選択をして、自分で動くことができる。動けなくても助けを求めることができる。でも今は、どこに助けを求めてよいのかさえ、わからず困っている人たちがいる。

 福祉サービスに関する情報も、医療の情報も、とても複雑で膨大です。更に、それらの情報を活用するための知識や知恵も必要です。そんな情報を収集し、整理して、選択し、わかりやすく、受け取りやすく、そして、何よりも、必要な人に、必要な情報を、必要な時に、的確に届けることが必要なのではないか。

 どうしたら、そんなことができるのだろう。夜昼となく考えた私は、ある方法を思いつきました。雑誌という形で継続的に情報を届けてみよう。

 そうして、スタートさせたのが、「療育ファミリー応援雑誌『Family』」という雑誌の発刊事業です。

『Family』は、B5サイズ二十四ページの冊子で、平成二十四年度の十月から年四回、千部ずつ発刊しています。一冊の価格は二百円で県内の一般書店で販売していますが、第五号からは一部、無償配布もスタートさせ、県内の主な病院への無償提供、特別支援学校への身体障害をもつ生徒さんへの全数配布と、毎回八百冊が確実に療育ファミリーの手に届くような工夫もしています。

 冊子の売り上げ収益は、ほとんど見込めないので、県の補助金と広告料で経費を賄っています。運営は厳しいですが、継続することが、この事業の一番の意義であると考えていて、十年継続していきたいという覚悟でスタートさせました。

 又、ホームページでいつでもだれでも、無料で雑誌『Family』の内容を閲覧できるようにもしています。

 雑誌『Family』の効果は、徐々に上がってきていて、これまで「ほほえみ」のサポート対象外であった、遠方の地域や離島に住む方々とのつながりもできました。いかに、皆さんが「良質な」情報を求めていたかということを、実感しています。

「良質な」というのは、いかに受け手のことを考えて提供された情報か、ということだと考えています。その思いが伝わることが、何よりも療育ファミリーの支えになると信じています。そして、『Family』では毎回、体験談と支援者のコーナーを設けていて、毎号一家族と一人の支援者を紹介しています。同じような状況にいる家族の経験や、支援者の純粋な思いを知ることが、孤立しがちなご家族に、希望と励ましを与えています。

 このような活動に対して、私自身はほとんど対価を得ていないので、正直、どこまでこのような活動を続けていけるのだろうか、という不安はあります。今は家族が全員健康だから、私に収入がなくても、なんとかやっていけていますが、貯えがないので、誰かが寝込んでしまったら、たちまち立ちいかなくなるような状況です。

 でも、そんな不安に陥った時、私は初心にかえります。その初心とは、宙を火葬する日の朝に決断した「私は社会の底辺に居続ける」という誓いです。底辺に居続けるということは、決して貧乏であり続けるということではありません。

 宙を生み育てる前は、自分と自分の家族の幸せと、未来への不安とその不安を解消するための保障だけが、私にとっての重要な関心事でした。まだ何も起きてはいないのに、「何かあったらどうしよう」と、根拠のない不安に襲われては、その不安に対処することばかり考えて生きているような人間でした。

 そんな私が、膨大な医療費を必要とする宙の闘病生活を経験した時、多くの医師や看護師が私を支えてくれたと共に、経済的には、国の様々な保障制度が私たち家族を支えてくれました。人間とは支えあって生きているのだという事実を、初めて実感したのです。

 それまで、ふわふわとした不安定な地面に立って、いつも不安ばかりを抱え込んで生きていた私が、これ以上落ちようのない、生活の最底辺に立った時に初めて、周囲の人々に支えられて、手を握り合い、支えあって立っていけているのだと実感したのです。

 宙亡き後、その場所を離れて、自分と自分の家族だけの世界へ戻ることもできたのでしょう。蓄えを作り、保険をかけて、安心を得る生き方だってあるのでしょう。でも、そのような生き方は、世間の不況や、自然の災害などで、もろく崩れてしまう、実は意外と不安定な土台でしかないと思えました。

 人と人が心から支えあい、分かち合い、生きられる社会こそが、本当の意味で、安定した地盤の上で、安心して生きることができる社会なのだと思えたのです。

 だからこそ「私は、この社会の底辺に生き続けよう、居続けよう」と心に誓ったのです。

 そしてもうひとつ、宙が私に教えてくれたことがあります。

 絶え間ない痙攣(けいれん)発作に苦しみ続けた宙は、その苦しさに何時間も耐え続け、遂には呼吸が止まってしまい、呼吸器に繋がれてしまうことが、何度もありました。

 ある時、夕方から始まった発作が夜中まで続き、明け方にとうとう呼吸が止まってしまい、呼吸器に繋がれた時がありました。

 呼吸器に繋がれたことで、数時間ぶりに、ようやく落ち着いた様子で眠り込んだ宙を確認して、ベッドの側の椅子に座り込み、私自身も、一晩中立ちっぱなしの疲れを身体中に感じながら「いったい宙は、何のためにこんなに苦しい思いをしながら、生きているのだろう」

 そんなことを思ってしまった私が、宙に視線を戻すと、眠っていると思っていた宙が、じっと私のことを見つめていました。

 宙は後に視力はほとんどないと、診断されるのですが、その時ははっきりと私のことを見つめていると感じました。そして、宙の心の声が聞こえたのです。

「お母さん、これが生きるっていうことなんだよ」と。

 生きるということは、何のためとか、何かを得るためではなく、生かされている今、命がある限り、精一杯生き続ける。それが、「生きる」ということなのだと。

 何かを得るためにしか、何もしてこなかった。そんな私のそれまでの生き方を根底からひっくり返されました。「生きる」というただそれだけに、これほどの意味があり、それは何と素晴らしい生き方なのかと。

 わが子でありながら、宙の偉大さを感じずにはいられませんでした。

 宙がまだ状態が安定していて、死ぬことなど予測もできなかったある時期のことです。生まれてからずっと、いつ急変してもおかしくないことは覚悟しておいてくださいと言われている宙と、宙を失うことを何よりも怖がっている自分のために、その恐怖と向かい合い、後悔のないその時の迎え方について考えておきたいと、主治医に申し出ました。

 主治医は「なぜ、今なのか?」と驚きつつも、「大切なことですね」と私の気持に応え、対応してくれました。

 実際にその時が来た時には、私自身の気持が、想定していたのとは全く違うほうに動いたことで、その時の話し合いがそのまま反映されたわけではなかったのですが、そのような事について、話し合えたということが、何よりもその後の私の支えになりました。

 ともすると、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔の念に苛(さいな)まれそうになる気持を、できる限りの事はやったのだからと納得するのに、充分な経験でした。

 でも冷静になるほど、宙にとって、より豊かな人生、より幸福な生き方、そして満足な死に方は、いく通りもいくらでも作れたのだと考えます。それは、私自身が「ほほえみ」の活動を通して、多くの家族に学ばせていただいているからこそだと思います。

 私には夢があります。「沖縄に小児ホスピスを作りたい」という夢です。ホスピスと言うと、余命いくばくもない方の過ごす施設という意味合いに取られますが、海外においての小児ホスピスとは、難病や長期療養を余儀なくされている子どもとその家族の休息や、リフレッシュ、癒しを目的とした施設をさします。

 そんな小児ホスピスを沖縄に作ることで、限りなく命を大切にしながら、人としての生にも死にも、目をそらすことなく向き合うことで、限りある生命の輝きを支える、その基盤になるような施設を確立できたらと思っています。果てしのない夢ですが。

「誰もが安全に、安心して、生きられる社会を作りたい」。これは、私たちが「ほほえみ」を立ち上げた当初の思いです。その思いは変わることなく、今も同じです。「ほほえみ」を立ち上げた当初、私にはこんな迷いもありました。「どこまで福祉の充実を訴えれば良いのだろう」

 その迷いは、今でもあります。「困っているのはみんな一緒だ」「自分たちだけ助けてくれって、それはわがままではないか」そんな指摘を受けることもあります。もちろん、そのような指摘は、個々のケースでいえば、正しさを欠いていることのほうが多いのですが、そのような指摘に真摯(しんし)に向き合うことは必要だと感じています。

「いったい、福祉はどこまで充実させればよいのか」と迷う時、私は東京都町田市の元市長であった大下勝正氏の言葉を思い出します。

「福祉は、一人ひとりの命を限りなく大切にする。戦争は、多くの人の命を虫けらのように扱う。福祉の批判が始まると、他方で軍備が進む。福祉が軽視されると、戦争の足音が近づいてくる。福祉は平和の基礎であり、政治の基本である」

 沖縄にはいつも米軍基地と基地にまつわる問題がつきまとっています。過去の沖縄戦による後遺症も、まだまだ日々の問題として生活の中で突き当たります。そんな中、県議会などで行われる予算審議でも、常に基地にまつわる問題が優先されているという指摘があります。そして今、国会では集団的自衛権の解釈について話題となり、平和な社会の地盤が揺れ動いているようにも見えます。

 国民の気持も揺れ動き、そんな時世には、相手を思いやる気持や人を信じる事、支えあいや助け合いの行動が、自分で自分を守る責任に、どこまで塩梅を付けて行えるものなのか、福祉にどこまでお金をかけてよいものか、縮小すべきは福祉や社会保障費だと、まことしやかに語られるようになるのかもしれません。

 そんな時こそ私は、宙の亡骸(なきがら)の横で誓ったあの日を思いだし、「私は社会の底辺に居続けよう」「そして、その中で自分にできる精一杯のことをやり続けよう」と誓うのです。

 福祉とは、人が生きるための基盤であり、地面です。そこから転げ落ちそうな人がいれば、手を差しのべて救い上げて、支えます。そうすることで、私自身がぐらつき、あやうくなることもあるでしょう。そんな時に自己責任という言葉で責め立てられる世の中では悲しすぎます。

 ボランティアは、片手だけ出して行えば良いと言う方もいます。確かに、共倒れになっては意味がなく、自分のことは自分で行えることが、最低限の責務であると思えます。

 でも、果たして本当にそうなのでしょうか、自分自身がいつか、健康を害して、身動きが取れなくなった時、突然の災害で全てを失ってしまった時、片手だけの支えでことは足りるのでしょうか?

 自己犠牲を求めている訳ではありません。社会の基盤として、何が必要で、何を作るべきかを、一人一人が真剣に考えて生きていかなくてはいけないと思うのです。

 福祉の批判が始まると、他方で軍備が進む。福祉が軽視されると、戦争の足音が近づいてくる。ならば、どこまででも、福祉の充実を追求し、どこまでも人の命を大切にし、権利を守るために、私にできることの精一杯を行っていきたいと思っています。わが息子宙がただひたすら、今ある生を精一杯生きて、生き抜いたように、宙の背中を追いながら。

 最後に、「ほほえみ」の名前の由来はTHE ALFEEの「平和について」という曲の「ほほえみだけが未来を語る」という歌詞にあります。

 辛い時や悲しい時、人は未来を語ることはできません。おだやかなほほえみの中でだけ、未来について語ることができるのです。

 そんな穏やかな時を、少しでも多くの子どもたちとその家族が過ごせるように、これからも「ほほえみ」の活動を行っていきます。

福峯 静香 プロフィール

昭和四十五年生まれ NPO法人理事、看護師 沖縄県南風原町在住

受賞の言葉

この度は、NHK障害福祉賞最優秀賞に選んでいただき、ありがとうございます。多くの応募作品の中から、入選させていただいたことに大変驚きと、感謝の想いで一杯です。障害当事者の家族から、支援者へと立場が変わっても、多くの人に支えられ、励まされて日々を過ごしていることには変わりありません。障がいを持つ子もそうでない子も、その子とその家族がほほえみながら未来を語れる社会であるよう、これからも「ほほえみ」の活動を行っていきたいと思っています。

選評(柳田 邦男)

愛するわが子を喪う母親が受ける打撃は限りなく大きい。福峯さんはわが子の死が避けられなくなった状態にあったのに、やさしさから同室の病児の母親を少しでも休ませてあげようと、その子を抱っこしてあげたことから、啓示と言ってもよいような気づきが生じたという。《他人の子を抱かせてもらえたんだ。こんなふうに誰かの役に立つ生き方をするなら、たとえわが子を亡くしても生きていける》と。それを福峯さんは、「絶望の先に見えたかすかな希望」と表現している。深い悲しみこそ、他者への深い思いやりを持てる人間性豊かな真(まこと)の人生の始まりだと、私はかねて思っていますが、福峯さんの手記と生き方は、まさにその通りだと思いました。難病や重い障害を背負う子を療育する母親たちを支える活動に取り組む福峯さんの、わが子を亡くしてからの思想と行動の原点は、そういう気づきにあったと言えるでしょう。福峯さんの感性の豊かさと死生観・人生観の確かさに心から敬服します。