第48回NHK障害福祉賞 優秀作品
「母と妻と、時々障害者」 〜第1部門〜

著者:野原 基世美 (のはら きよみ) 岐阜県

 私の生活の中では、主に三つの呼称がある。
 母としての「○○ちゃんのお母さん」。
 妻としての「野原さんの奥さん」。
 障害者としての「野原基世美さん」。
 障害者としての私は、日によって、時間帯によって、全く重症度が異なる。座っていることすら大変な時もあれば、杖をつきつつ、買い物を楽しめる時もある。私が患っている「重症筋無力症」の症状がそうさせる。
 重症筋無力症は、筋力低下が主症状で、弱くなる筋肉の場所によってさまざまな症状が現れる。私の場合、四肢の筋力低下が顕著で、物凄く疲れやすい。ま た、同じ筋肉を繰り返し使うと力が出なくなる。症状は、日によって、時間帯によって変動する。朝は調子が良く、夜に症状が悪化する人が多い。休息により回 復するので、周りから怠けていると思われることもある。
 私は二十六歳頃から、重症筋無力症らしき病気に苦しんでいる。「らしき」とつけ足したのは、まだ確定診断には至ってないからだ。重症筋無力症は約九割の 患者に抗体があるが私には抗体がない。医師からは抗体陰性タイプの重症筋無力症だろうと言われ治療を受けているものの、確定診断となると難しいそうだ。
 私が三十歳の時に娘が産まれた。よく、仕事と育児の両立は大変だと言うが、病気と育児の両立は更に大変だと思う。
 昼夜問わず三時間ごとの授乳は、健康な母親でも辛いところだが、私の場合は極度の睡眠不足で病状が一気に悪化した。
 毎日、倦怠感が痛みのように身体中を包み込む。もう動けない、早く横になって休みたい! でも、子供は待ってくれない。足の痛みに耐えながら踊る人魚姫みたいだと思った。鉛のように重く感じる手足を必死で動かし、一つ一つの動作をこなしていた。
 更に、日に日に重くなっていく娘。娘の成長は心から嬉しかったが、筋力低下のある私に娘の荷重が重くのしかかった。
 病気の影響は娘にまで及んだ。脱力で娘を何度も落としてしまったのだ。娘を布団に降ろす時、布団から十センチくらいの所で腕の力が抜けて娘を落とす。娘 をお風呂に入れる時も脱力し、湯船に落とす。落とした場所が布団やお湯だったので、幸い怪我もなく済んだが、娘を抱くのが怖くなった。
 娘の身を守るため、長時間抱っこをする時はスリング(抱っこひも)に入れ、降ろす時はスリングごと布団に降ろすようにした。お風呂は洗い場の床に分厚いマットを敷いた。
 思いつく限りの対策をしたが、それでも夫の帰りが遅い時は、お風呂も含め長時間私一人で娘の面倒を見なければならない。相変わらず脱力が続き、途方に暮れる毎日だった。
 そんな時、地域の保健師さんから、身体障害者手帳を取得して、自立支援制度の居宅サービスを利用したらどうかと勧められた。
 保健師さんの話に、当初はとても戸惑った。
 出来ないことも増えたけど、まだ出来ることもたくさんある。ハッキリ重症筋無力症と診断されたわけでもない。こんな状態で身体障害者手帳を申請出来るの だろうか。そう保健師さんに言うと、病名にかかわらず、障害の程度により主治医の診断書で判断されるので、私の状態でも可能とのことだった。
 夫が仕事に行っている間、一人で安全に育児をするだけの筋力がないことは痛感していた。何らかの手助けが必要だということも分かっていた。しかし、そんな状態でも、自分が障害者として支援を受けることが嫌だった。
 さんざん悩んだ末、娘の安全を最優先に考えることにし、主治医に障害者手帳のことを相談しに行った。主治医は育児困難な状況をよく理解してくださった。
「随分とお困りのようですね」
 という主治医の言葉に、私は自分が困っているということを、改めて実感した。
 私は健康な人のように育児が出来ないのだ。健康な人のように出来ないところをカバーするために、自立支援制度のサービスがある。そう思ったら、少し気持ちが楽になった。
 保健師さんやソーシャルワーカーさん、主治医など、たくさんの方達が私たち親子のために心を尽くしてくださったお陰で、無事、身体障害者手帳を取得することが出来た。
 手帳取得後は、ヘルパーさんに来てもらい、家事や育児を手伝ってもらった。危険だった娘の入浴も、昼間、ヘルパーさんに手伝ってもらうことで安全に出来た。また、家事を手伝ってもらうことで身体への負担が減り、夕方以降の脱力や倦怠感も少し改善した。
 娘は、生後半年までは筋緊張がないと言われ心配したが、リハビリに通い、一歳頃には月齢相当の筋力になった。歩き出すようになると、毎日自ら玄関に行 き、外に行きたいと訴えた。子供の健全な発達に、外遊びは重要だと思い、児童センターの一歳児クラブや地域の親子教室に参加することにした。
 娘の安全のため、児童センターの職員の方に私の病気のことをお話ししてサポートをお願いした。地域の親子教室は、保健師さんが付き添ってくださった。娘 のためにと頑張って参加していたが、健康な母親と比べて落ち込むことも多かった。「たかいたかい」や長時間の抱っこなど、他のお母さん達が当たり前にして いることが私には出来ない。毎回、出来ない自分を実感し、娘に申し訳なく思った。
 娘がよちよち歩きから、てくてくと勢いよく歩くようになった頃、主治医から次のように言われた。
「これから先、娘さんはもっと動きが激しくなります。今の筋力では、動きが激しくなった娘さんの面倒を見るのは危険です。周りの人に、力が持続しないこと や、症状に変動があることをお話しして、助けてもらうようにしてください。外出もママ友さんと一緒に行くようにした方がいいですね。保育園等の利用も考え てください」
 主治医の言葉通り、娘の動きはどんどん激しくなり、私の力が及ばないことが増えてきた。幼い娘に、母親の事情など分かるはずもなく、私の状態では無理なことを要求し、それが叶わないと大泣きした。
 散歩に出かけると、娘より私の方が先に疲れてしまう。まだ帰りたくない娘を連れて帰るのが、毎回一苦労だった。健康な母親なら、抱っこで連れて帰れば済むが、私は長時間抱っこが出来ないため、娘の足で歩いてもらわないと帰れない。
 あまりのだるさに、一刻も早く帰って横になりたい私は、娘の少し先を歩き、
「こっちだよ。おいで〜」
 と声をかけつつ歩かせた。まだ遊んでいたい娘は、先に行く私を見て泣き出し、それを見ていた通行人に、
「母親が置き去りにするから泣くんだわ」
 と注意されたこともあった。
 他人から見たら、私はとても障害があるようには見えないことは分かっていたが、娘を放置する酷い母親に見えるのだと思ったら、やりきれない思いで涙が出た。
 娘自身が疲れてくると、抱っこをせがまれた。力の続く限りは抱っこしてあげるのだが、何しろ筋力が持続しない。抱っこから降ろすと、娘はギャンギャン泣 く。娘が可哀想で、早く抱っこしてあげたいのだが、力が入らず抱くことが出来ない。心底自分が情けなくて、しゃがみこんで娘を抱きしめながら、私も一緒に 涙を流す。そんなことが何度もあった。
 動きが激しくなった娘の面倒を見るのはもう限界だと痛感した。成長に伴い、娘にしてあげたいことと私が出来ることの差は、大きくなるばかりだった。
 主治医が言う「周りに病気のことを話して助けてもらう」ことは、当時の私にはどうしても出来なかった。
 ヘルパーさんに病気のことを話した時、
「筋力が弱い? 子どもと散歩が出来るのだから、大丈夫でしょう」
「布おむつのつけ置きバケツが持てるのだから、それくらいたいしたことないわよ」
 と言われた。
「大丈夫」「たいしたことない」という些細な言葉が胸に突き刺さった。見た目からは病気には見えないので、いくら話しても理解してもらえない。理解してもらえないことで、これ以上傷つきたくなかった。
 保育園は、主治医に勧められてからすぐに手続きをした。娘が一歳九か月の時、保育所に入所した。入所直前の頃は、歩行中に足が動かなくなったり、足の脱 力で倒れたりしていたので、無事入所出来てホッとした。一か月程は、朝、私と離れるのを嫌がって泣いていた娘だったが、少しずつ保育所にも慣れ、その後は 嫌がることなく通ってくれた。
 保育所に通い出してから、娘は徐々に私が他のお母さんと違うことに気付き始めていた。
「どうしてママは抱っこ出来ないの?」
「どうしてママは杖がいるの?」
「どうしてママの病気は、お薬を飲んでも治らないの?」
 と娘に問われ、返答に困った。
 そんな時、事故の後遺症で車椅子の生活をされている知人に偶然お会いした。娘より年上のお子さんがいらっしゃるので、
「お子さんは、親の障害のことをどう受け止めておられますか?」
 と聞いてみた。すると、
「息子が産まれた時から僕は車椅子やったから、父親はこういうもんやと当たり前に思っとるみたいだよ」
 と言われ、いつか娘も私の障害を当たり前と思ってくれるといいなと思った。しかし、娘の場合はそうすんなりとは行かなかった。
 娘が年少クラスの頃、何をするにも「ママがいい! ママにやってもらうの!」と言って、父親との関わりを極度に嫌がった時期があった。そんな状態では、 娘のお世話は必然的に私がすることになる。調子が良い時は問題なく済んでいったが、夏場、症状が悪化した時の入浴は悲惨だった。
 夏場の入浴後は、一年を通して一番症状が悪化する時で、普段は滅多に出ない息苦しさや息切れの症状が度々出た。息苦しくなるとすぐ横になり、気道を確保 しつつ呼吸が落ち着くのを待った。もし、そのまま呼吸困難に陥ると、救急車を要請しなければならないので、私も夫も気が気じゃなかった。
 私がそんな状態の時は夫が娘をお風呂に入れようとするのだが、娘は泣いて嫌がった。
「ママは具合が悪くて寝ているんだから、わがまま言ったらあかん。ママに無理させて、ママが倒れたら困るやろ? パパと入ろうな」
 と優しく諭していた夫だったが、娘が泣き叫び、地団駄を踏んで嫌がり続けると、夫の堪忍袋の緒も切れ、
「じゃあ、ママに無理させて、ママが死んでしまってもいいのか?」
 と怒ってしまう。娘は更に激しく泣き叫ぶ。夏の間こんな修羅場が度々あった。私はただ横たわることしか出来ない。娘や夫をフォローしたくても声が出ない。そんな自分が情けなくて涙が出た。
 娘は、無茶な要求をしているわけではない。母親とお風呂に入りたいだけなのだ。まだ母親に甘えたい時期なのに、娘には我慢させてばかりで不憫だった。夫にも心配ばかりかけて申し訳なかった。
 障害が固定している場合、自分も周りの人たちも、少しずつその状態を受け入れ対応していくのではないかと思う。しかし、症状が日によって、時間帯によって、コロコロ変動すると、その都度、気持ちが揺さぶられる。
「ママの病気は、嘘の病気なの?」
 と娘に聞かれたこともあった。どうしてそう思うの? と聞くと、
「ママ、元気なのに、急に病気になるから」
 と言う娘。まだ幼い娘に、昼間は一緒に遊んでいた母親が、夜、動けなくなる状態を、病気の症状だと理解させるのは無理な話だった。
 私も夫も娘も、お天気屋の病気に振り回されていた。
 そんな日々が続いたある日、娘に、
「元気なお母さんが良かった。病気のお母さんは嫌や」
 と言われた。私はあまりのショックに言葉が出ず、代わりに涙がポロポロこぼれた。そして、それまでの娘の様子が頭に浮かんだ。
 公園で、追いかけっこをしている親子を、うらやましそうに見ていた娘。
 母親に抱っこしてもらっているお友達に、
「わたしのママは筋肉の病気だから、抱っこ出来ないんだよ……」
 と悲しそうに言っていた娘。
 運動会の親子競技も、「ママと一緒がいい」と娘は言ったけど、私は走ることが出来ないため、夫に出てもらった。
 いつもいつも、娘には我慢させてばかり。寂しい思いをたくさんさせていた。娘は、こんな私が母親で幸せだろうか。
 落ち込んでいた私に、夫が言った。
「病気で出来ないことが増えたやろうけど、それでも、まだ出来ることもたくさんあるやろ? 出来なくなったことばかり考えるな。今、出来ることを頑張ればいいやないか」
 先が見えない暗い道に光が差したような気分だった。それまでの私は、出来なくなったこと、娘にしてやれないことばかり考えていた。これからは、出来ること、娘にしてやれることを考えていかねばと思った。その時々の私に出来ることを、精一杯やっていこう。
 それから、娘とは心をこめて、たくさん関わるようにした。一緒に絵本を読んだり、おままごとをしたり、お絵かきをしたり、娘が「やりたい」と言ったことの中で、私が出来ることを精一杯取り組んだ。
 また、娘にグッタリした姿を見せないよう、昼間の過ごし方を見直した。動けるからといって、調子に乗って動きすぎない、疲れたらすぐに休んで筋力回復。ただ、これがなかなか難しい。同じように動いても、グッタリする日と、平気な日とあるのだ。
 試行錯誤しつつ病気と向き合っていたら、ふと、私が一番自分の障害を受け入れていないのでは?と思った。娘が「病気の母は嫌」と思うように、私自身が、病気の自分、障害を持つ自分を否定していた。それが娘に伝わったのではないだろうか。
 病気の私も障害を持つ私も、私の一部なのに、私が受け入れてあげないと、病気の私、障害を持つ私が可哀想だ。
 そう思うようになってから、外出時に杖を常時使用するようにした。これは私にとって、清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。それまでは、体調が悪い時だけしか使用していなかったからだ。杖を使用している私を見て、指をさされ、
「見て! あの人、若いのに、杖ついとる」
 と言われたり、ジロジロ見られたりすることが嫌だった。
 調子が良ければ杖なしでも歩けたが、調子が良い時でも、私の足にもう一本、杖の支点が加わると、その後の疲れ具合が全然違ったのでビックリした。人目を気にして無理するのではなく、人目は気になるけれど、身体への負担を減らすことが大切だと実感した。
 杖つきママになってから、保育所で、
「どうして杖をついとるの?」
 と園児達によく聞かれた。
「おばちゃんは病気であまり長く歩けないからだよ。杖はね、おばちゃんの三本目の足なの。みんなは二本の足で元気に走れるけど、おばちゃんは三本ないと、すぐに疲れて足に力が入らなくなっちゃうんだよ」
 と説明した。杖が私にとって大切な足であることを、園児達に理解してもらいたかった。
 私の意識改革は進み、同じ保育所に通う娘のお友達やお母さん達に、私が障害者だということを知ってもらいたいと思うようになった。
 前に主治医に言われた「周りの人に病気のことを話して助けてもらうように」という言葉は、ずっと心の奥底にあった。病気を理解してもらうなんて無理だと 端から諦めていたが、私が行動を起こさなければ理解してもらえる訳がない、理解してもらいたいのなら、それなりに働きかけなければとようやく気づいたの だ。
 クラス懇談会で病気を抱えつつ育児していることを話したり、仲良くなったお母さんには、詳しく病気の症状をお話した。
「もし、私に出来ることがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
 と温かい言葉をかけてくださる方ばかりで、その優しさに胸が熱くなった。理解してもらえるはずがないと決めつけていた自分が恥ずかしかった。勇気を出して話して良かった。
 ご近所の方にも、病気のことを話した。一番近いご近所さんは、いつも私たち家族のことを気にかけてくださった。私が早朝に救急車で運ばれた時は、保育所の時間まで娘を預かって頂けて、すごく助かった。
 別のご近所さんは、
「私、ヘルパーの資格持っているから、もし何か手伝えることがあったら言ってね」
 と言ってくださった。
 子育てや高齢者、障害者の支援を地域ぐるみで……とよく聞くが、そのためには支援を受ける側も心を開いていくことが大切だと思った。重症筋無力症は症状 の変動が大きく、家族や職場の理解を得られずに苦しんでいる患者さんが多い。私自身も、身近な人からの理解を得られず辛い思いをした。理解してもらうのは 無理だと諦めた時もあったけど、勇気を出して心を開いてゆかねば道は開かないということに身をもって実感した。理解してくれる人たちに出会えた私は本当に 幸せだ。
 勿論、皆が皆、すんなり理解してくださる訳ではなく、めげそうになることもある。それでも、少しでもいいから、一人でも多くの人に、重症筋無力症という病気のことや、見た目では分からない障害を持つ人がいることを知ってもらえたら……と思う。
「病気のママは嫌」と言った娘は、成長するにつれ、母の病気を受け止めようとしたり、拒否したり、気持ちが揺れ動いている。
 私の具合が悪くて寝ている時、
「力が入らないから、今日は遊んであげられないの。ごめんね」
 と謝ると、
「ママのことなら、どんなことでも許してあげる。だから、謝らなくていいんだよ」
 と優しく、私の頭を撫でながら言う娘。
「わたしが大きくなったら、ママは死んでもいいよ」
 と言ったかと思えば、
「ママはずっとずっと、死なないでね」
 と言うこともあった。こうした娘の揺れ動く気持ちを、時に受け止めきれず、病気さえなければと思うこともあった。しかし、
「病気でもいいよ。そのままのママでいいんだよ」
 と娘に言ってもらえた時、娘と共に、ようやく一歩、前進した気がした。
 娘も私も、未だにゆらぎつつ、もがいている。健康な母親と同様、子育ての悩みもたくさんある。そのうえ、症状が酷く出ている時は気が滅入ってくる。先々 のことを考えると不安は尽きないが、出来ないことは助けてもらい、出来ることを精一杯やることが、今の私に出来る最大限のことだと思っている。
 そして、家族やヘルパーさん、保健師さん、保育士さん、主治医、ご近所の方達等、たくさんの人たちに支えられて、障害を持つ私は生活出来ていることを忘れてはならない。支えてくださる方達に、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 出来ることもある、出来ないこともある。
 出来る時もある、出来ない時もある。
 カメレオンのように、その時々で、全く違う色になる私の障害だけど、母として、妻として、障害者として、その時、出来ることを精一杯、娘との時間を精一杯、生きてゆく。

野原 基世美 プロフィール

昭和五十一年生まれ 無職 岐阜県岐阜市在住

受賞の言葉

娘が生まれてから今日まで、沢山の方達が私達親子を支えてくださいました。今回、優秀賞を頂けたのは、お世話になった皆さんのお陰だと心から感謝します。
また、拙い文章ではありますが、病気や障害を抱えつつ育児されている方、見た目では分かり辛い病気や障害がある方の思いを、少しでも伝えることが出来たとしたら幸いです。
今回の受賞を励みに、これからも母として、妻として、頑張っていきたいです。

選評(玉井 邦夫)

生 まれてきた子どもは、やがて歩き、走り、語り、飛躍的に世界を拡げていく──それは、当たり前で、親にとっては喜びだと考えられています。野原さんの文章 には、その当たり前と向き合うことでの葛藤が綴られています。「できなければいけない」という思いと「手助けしてもらえる喜び」を交錯させながら、「出来 る時も出来ない時もある」という思いにたどり着く過程は、障害の有無に関わらず子育てする全ての人々を勇気づけてくれます。