第48回NHK障害福祉賞 優秀作品
「いつも前向きで」 〜第1部門〜

著者:名取 喜代美(なとり きよみ) 山梨県

私は山梨の片田舎に 生まれました。
生まれてきてから、まだ一歩も歩いた事がないままにもう六十年になります。
もちろん自分では、何も出来ません。
義務教育も就学免除ときています。
もうお分かりでしょう、私は最重度の障害者です。
障害は、生後六か月の時に受けた、三種混合の予防接種が原因だと母から聞いています。
なにぶん小さい時なので、気が付いたら障害者になっていたという訳です。
 そして一人っ子のせいか、自分が障害を背負っているという自覚はあんまりわきませんでした。
 それでも近所の子供たちと外で遊ぶ時は、何で自分ばかり乳母車にいるんだろうと思いましたが、それを口に出して聞くことはありませんでした。
 そんなことを聞けば両親が困るだろうと幼心に感じ取っていましたし、何よりも不自由を感じたことは全然なかったのです。
 でも、私が四歳の頃、突然母が入院することになってしまいました。
 それまで何をするにも母に頼りきりの私、親戚の人がいくら食事を与えても、がんとして受け付けずじまいだったそうです。
 幸い、母も一週間ほどで退院して帰ってきました。
 戻った母がまず驚いたのは、私がやせ細ってしまったことでした。
 そして母が食べ物を見せると、吸いつくように食べたそうです。
 そんな出来事があってから、母の態度が急に変わりました。
 お前は一人だけで生きて行かなければならないんだぞう、親は早く死んで行くし、誰からでも食べさせてもらえるようにならなくてはいけません、と言いまし た。
 そして宣言通り母はどこへ出掛けるにも必ず私を背負って行き、人前でもおくさないようにしつけられました。
 おかげで、今も大勢の人前でも平気で食事をとることができます。

 そうして何度目かの春を迎え、私も学齢期に達して、近くの同学年の友達と学校に行くのを楽しみにしていました。
 けれど、待っても待っても学校側からの通知は来ませんでした。
 業を煮やした両親は、町の教育委員会へ問い合わせてみました。
 教育委員会からの返事は、就学免除の四文字でした。
 障害が重いため学校に来なくってよいのだと、書かれてありました。
 現在なら信じられない事が、昔はまかり通っていたんです。
 せっかく楽しみにしている私を見て、両親は苦渋の決断をしました。
 それは、自分たちの手でこの子を教育するという判断でした。
 その決断はすぐに実行され、近所の子供の使い古した教科書をもらい、畑仕事で忙しい時は夜の時間を私の勉強時間にあて教えてくれました。
 冬は朝から毎日勉強を教えられました。
 ある日、父はニコニコして町から帰ってきました、私は不思議に思って見ると、手に大きい荷物を持っていました。
 すると父は私の前にその荷物を置き、やおら包み紙を破き始めました。
 中から出てきたのは、当時まだ珍しかった、カセットテープレコーダーでした。
 父はこんな事を私に言いました。
 お前の言葉は親でも分からん、今からこれを使って言葉の練習を始めるぞ。
 と言うと、キョトンとしている私の口の辺りへ、出したばかりのテープレコーダーのマイクを置き、サー何か言ってみろと優しい笑顔で言ったのです。
 私は何が何だか分からないままに、父の言う通りにマイクへ向かい、こんにちは、と言ってみました。
 それを聞いた父はすぐにテープを巻戻しさせて、今言った私の言葉を聞かせてくれたのです。
 そして父は、どうだいこの言葉が分かるかい? 自分は正しく言っているつもりでいただろう、と言ったのです。
 私はテープから聞こえてくる声が自分の声とはとうてい信じられない気持ちでいっぱいです。
 父の言うように、自分が何を言っているのか分かりません。
 私にしてみれば、今の今まで普通にしゃべっていると思っていた言葉が、他の人にはまるで暗号を言っているように聞こえていたなんて大ショックでし た。
 悔しさと恥ずかしさで胸がはち切れそうになり、大声を出して泣いてしまった私です。
 そして母は母で私の口の動きを良くさせる為、細かい食べ物や硬いものを選んで食べさせてくれました。
 そんな愛情いっぱいのなか、私はその日から毎日毎日発声練習をしました。
 そうするうちに言葉がはっきり出せるようになり、両親に何かを頼む時や友達と遊ぶ時、自分の意思が伝わるようになっていきました。
 そして今度は勉強がしたくなった私、両親の暇な時をねらって古い教科書を開き文字を教えてもらいましたが、畑仕事が忙しい両親を見て、わがままも言えず に悩んでいました。
 それに気付いた母は、私が赤ん坊のころに乗った鉄製ブランコの椅子の部分を外し、そこへ布製のおんぶ紐を通し、私の体を吊り 下げて四つん這いにし、本を顔の位置に置いて文字が読めるような姿勢にさせてくれました。
 それから両親が忙しい時でも、私はのんびりと読書に耽っていました。

 そんな日々が十五年ほど続き、私も思春期に入り、健常者と同じで親に反抗するばかりでした。
 ある日、母が言った些細(ささい)なことに腹を立てた私は、なんで私を産んだと言ったのです。
 そして普段言わない事ばかりを並びたてました。
 それを聞いた母は、しゃにむに私を抱きかかえ、さっさと納戸へ運び戸を閉めてしまいました。
 唖然(あぜん)としている私に、納戸の外からこう言ったのです。
 おまえを健常者として扱っているからこそ、厳しい事も言うんだぞ、少し自分で考えてみろし。
 と方言交じりの言葉で言い捨て、畑に行ってしまいました。
 そうして何時間たっても帰ってくる気配のないままに、夜を迎えてしまったのです。
 私は不安と空腹に耐えながら、母が帰って来てくれるまで、納戸の天井を見つめ続けていました。
 そうして時計が六時を打つ頃になっても、母はまだ姿を見せません。
 でもなんだかおいしそうな匂いがどこからか漂ってきます。
 空腹の私はもう我慢の限界で、声をひそめて泣き出してしまったのです。
 そうするうち、ようやく待ちに待った母が戸を開けてくれ電灯もつけ、真っ暗だった部屋は一挙に明るくなりました。
 その明るさの中に母が笑顔で立っています。まるで太陽のように体中から光を放っているかのようでした。
 そんな出来事があって以来、私は思春期特有のもやもやから抜け出してしまったのです。
 そうして平穏な日々が続き、ある日、新聞を見ていた父は突然大声で新聞の記事を読み始めました。
 記事の内容は不就学で在宅の障害者に勉強の場をというもので、先生役は山梨大学の学生ボランティアが引き受けてくださったので安心して学ぶ事ができてうれしかったという参加した障害者のコメントも載っていました。
 それを知った私は、その勉強会に入りたくって仕方ありません。早速母に頼んで県の教育長あてに口述筆記で手紙を書き、私も入れて欲しいと依頼してみまし た。
 二、三日後、教育長から返事が来て、今の段階では無理だが将来は必ずあなたの願いが叶うように努力したいと記されてありました。
 またしても教育現場から閉ざされてしまったと私は思いましたが、その翌月には、入会している山梨心身障害児者を守る会から、勉強会に来なさいとお誘いの 知らせが来ました。
 その知らせが届いてから私は、期待と不安で胸がはち切れそうになりました。
 だって生まれてこのかた両親の膝から離れたことのない私です。いろんな事が想定でき、大勢の人たちと勉強するという意味さえどういう事なのか分からない ままにその日を迎えました。
 両親も私以上に心配し、会場の近くに住む親戚の家に待機して、いつでも駆け付けられるようにしてくれました。
 そうして私はまるで戦地にでも赴くかのような気持ちで、父の運転で勉強会に臨みました。
 会場には大勢の障害者が集まっています。それぞれみんなリラックスできる姿勢でニコニコしていました。
 そのなかを学生さんたちが笑顔で教科書をのぞき込みながら、優しく教えているのです。
 私は緊張していた自分が恥ずかしくなり、少し体の力も抜けてきたように感じられました。
 そしてすぐに私もその勉強会に加わり、学校とは違った雰囲気のなか、身も心も嬉しさを漂わせて私は学んだのです。
 そして友達も増え、学生さんで気を許した人には親にも話せない事も聞いてもらい、また学生さんの方も恋愛の話や悩み事を話してくれたりして、もう友達以 上の付き合いになりました。
 その人たちとは今でも交流しています。
 それ以降、私は自信を持って誰とでも外出できるようになり、学生さん等と旅行へも出かけられて、日本全国行く事ができました。
 私の一番輝いていた時代だったのです。

 そして約二十年が過ぎ、月一度の勉強会だけが楽しみだった私の元に、近くの町に障害者通所授産所を造るので参加してみないかと誘いの話が飛び込んできま した。
 もちろん私は即賛成し、準備室に通い始めました。
 授産所では、障害があっても働く喜びを味わってもらおうという信念から、牛乳パックで作った和紙葉書や、準備室の近所に住んでいる一般の奥さんに教えて もらって手作りしたクッキーを、小さな準備室の玄関に並べ、買いに来てくれたお客さんに、私たちメンバーの手で売ったのです。
 私にはどれも初体験ばかりで、これで健常者と同じだと思いました。
 そんな楽しい毎日を送っていた私ですが、突然、父が胃ガンで入院しなくてはいけなくなりました。
 私は施設へ入らなければならなくなり、父を心配しながら人生初の施設での生活が始まったのです。
 施設での毎日は退屈なもので、職員の人数が少なく、自分で動ける人は自由に廊下を行き来してはお互いに話をしていますが、私のような全面介助の者は食事 時以外は廊下の隅で一日中外を眺めていました。
 そうした冬のある日、入院していた父の容体が急に悪化して、私は友達に頼んで毎日病院へ行きました。
 そうして一週間後、父は天国へ旅立ってしまいました。
 土と共に生きた父でした。

 こうして父をうしなった私は、かねてから母との約束だからという理由で、疲れている母の体を思いやらずに施設を退所して家へ帰りました。
 でも、年老いて、そのうえ人工透析を週に三回している母との二人だけの生活は不安だから、と人に言われて、ヘルパーさんを役所にお願いしました。
 こうしてヘルパーさんのお陰で安心して毎日を送っていましたが、五月の連休も明ける頃、夜のヘルパーさんが帰ってから、母は寝ている私へ風呂に入ると言 い残し風呂場へ向かいました。
 私が生きている母の姿を見たのは、これが最後になりました。
 一時間経っても母は戻ってきませんし、何の音も聞こえません。不安を感じた私は大声で呼んでみましたが、返事もありません。不安はますます募る一方で、 私は動かぬ手足をこの時ほど恨めしく思えた事はありません。
 柱時計が何度も何度も打ち鳴らしても、母は帰らずのままで、マンジリともせずに一夜を過ごしました。私は早く外が明るくなるようにと願うばかりでした。
 そして朝のヘルパーさんがようやく来てくれて、事情を話すと風呂場へ駆け付けて母を見つけてくれて、大慌てで近所の親戚に助けを求めました。
 後の話では、母は浴室の隣に置いてあったベッドに寄りかかりながら冷たくなっていたとの事です。
 あまりの衝撃に泣く事も忘れて、ただ茫然(ぼうぜん)としているばかりの私でした。
 そうして大勢の人が集まってくれて、今後の段取りを決めたり、遠くに居る親戚に連絡を取ってくれました。
 そんななか、台所で炊飯器の音が聞こえてきます。それは昨夜母がセットしておいたご飯が炊きあがった音でした。
 それを知って私の目から滝のように涙がわき上がってきました。きっと母も自分でも食べるつもりでセットしておいたのでしょう。
 その思いに、集まってくれた人も涙を流してくれました。

 そうして通夜、葬式を無事に終えて、今度は私の今後の身の振り方の問題になってきました。
 もちろん私の希望は家で暮らす事です。けれども大方の親戚は施設に入るように勧めてきました。
 でも、母方のいとこたちは、私の思いを理解してくれて、喜代美の好きなようにさせたい、と言ってくれました。
 だけども一つ条件がある。家をリフォームする間だけ施設へ行きなさい、と言われました。
 私も祖父が建てた家なので危ないと感じていましたし、車椅子での生活は不便だと思い、ここは従兄弟たちの言う通りにしました。
 その三か月後、きれいになった我が家へ戻り、昼は授産所に通い、朝と夕方の食事時にはヘルパーさんが来て面倒をみてくれて、夜中は一人で過ごすという生 活です。
 そういう暮らしが十年余り続き、これなら何とかやっていけるぞと思い始めた頃、ふとした風邪が原因で気管支炎になり、気管切開をしなければ命の保証はで きないと主治医から言われました。
 それを聞いた従兄弟たちは、命には代えられないとして、私はただちに手術を受けました。
 でも、そのため声が出せなくなり、そのうえ喉に溜まったタンを一時間毎に吸引しなければなりません。
 普通ならば施設に入るべきものなのに、またしても私は意地を張り、どうしても家に居たいんだと従兄弟たちに訴えたのです。
 そんな私の気持ちを理解して、従兄弟たちは市役所に何度も掛け合い、両親が残してくれた畑を売り、小さな家を新築したのです。
 それから吸引のできるヘルパーさん探しに、ケアマネさんも尽力してくれました。

 そうして入院から約一年後、待ちに待った我が家へ帰ってきたのです。
 あれから五年の月日が流れ、私も還暦に手が届きそうな歳になりましたが、三十年ほど前からしているパソコンを、指にはめたセンサーで操作して、今時はやりのネットスーパーで日常用品等を買っています。
 いつまで続くか分かりませんが、この命ある限り、いつも前向きで生きていきたいと思っている私です。

名取 喜代美 プロフィール

昭和二十九年生まれ 無職 山梨県南アルプス市在住

受賞の言葉

このたびは大変大きな賞をいただき、本当にありがとうございました。
生まれて初めての事で、お知らせを聞いた時には身がこおりついたような感じでした。
周りの人たちもみんな喜んでくださって涙を浮かべてくれる方もいました。
この作文は、どんなに重度の障害があってもやる気があれば出来るんだという事を一般の方たちに知ってもらいたくって書きました。
本当にありがとうございます。

選評(江草 安彦)

「いつも前向きで」と生きてきた筆者は、すばらしい人生を伝えてくれました。最重度の障害者の人生を、ライフサイクル毎に前向きに取り組まれました。就学免除の口惜しさ、淋しさはいかばかりであったことか。それについても、見事にご家族ぐるみで取り組まれました。
学生ボランティアの支援、障害者通所参加、命ある限り、前向きに生きていこうとしていられる筆者に限りないエールを送ります。