第48回NHK障害福祉賞 矢野賞作品
「年を重ねても人は変われる」  〜第1部門〜

著者:大野 葵  (おおの あおい) 福岡県

 今から十年前、心に変調を来した娘を連れて、精神科病院に入院させるための診察時、それ迄の経過を話すなかで、
「お母さんも心に深い傷を持っている」
 と言われた。
 びっくりはしたものの、「私の心を分かって下さっている」と思った。
 病気という認識はなかったけれど、他の人とは違う変な性格で、人の前では言葉も出せず、強い不安と緊張がいつも付きまとっていた。それらは私の生育歴からきていると分かり、この時から娘と私の治療が始まった。
 娘は非定型精神病、不安神経症で二級、私は、うつ病、不安神経症、PTSDで三級の精神障害者手帳を受けている。
 二人共、強いAC(アダルトチルドレン)があるので自助グループに行くよう勧められた。

[私の生育歴]
 私が生まれることを、父も母も全く望んでいなかった。
 埼玉で絹物問屋を営む家に生まれた母は、体が弱く、我がままで、行く末を案じた祖父母が、持参金と女中さんを付けて無理矢理結婚させた。母は、意に添わない人との結婚を強いられたことで、愛情を持てず、憎しみを持つようになっていく。
 父が出征の時、母の妊娠を知り
「お前の子供はいらない、産むな」
 と言い戦地に行った。
 母は
「レイプ同然で出来た子だから産みたくない」
 と流す努力をしたが、叶わずに、生まれてきたのが私である。
 母は育児をせず、女中さんが貰い乳をして育ててくれた。終戦になり、私が一歳半の時に父が戦地から帰り、そのまま離婚になった。
 栄養失調で歩けない私を引き取った父はそのまま親族に預け、たらい回しにされていた。
 私が六歳の頃、父の再婚で引き取られ、継母と三人で暮すことになった。
 継母は優しかったが、何故か父は私に冷たかった。弟が生まれてからは、よりそう思うようになった。何を言っても、何をしても
「お前はあの女にそっくりだ」
 と睨まれる。父の目が怖かった。
 父の目に触れないように、言葉を飲み込み小さくなっていた。

 十歳の時、実母の再婚相手の人が、私を養女にしたいと訪ねてきた。話は私の知らないうちに決められ、父からは
「二度とこの家には帰ってくるな」
 と言われた。
 本当のお母さんの所にいける、と喜びいっぱいだった私に、何も知らなかった母は、びっくり!
「何でこの子を連れてきた! 今すぐ帰してきて!」
 と言ったのである。
 今でいう、養父からのサプライズのつもりだったのだろう。
 父からは帰ってくるなと言われ、母からも拒絶をされて、前にも増して押し黙った私にイライラした母は、一メートルの物差しで私を叩くようになった。
 私が来たことで母と養父のケンカが絶えなくなり、一年半位で養父は家を出て行った。

 それからは、体が弱くて働けない母との生活になり、前にも増しての貧困と、それ故の引っ越しに次ぐ引っ越しに、母は苦しい生活の中でのストレスを全て私にぶつけるようになった。
 毎日のように物差しが私の耳元でうなりを上げた。その時の母の顔はもう人のものではなく、いつ終るとも分からぬまま叩かれていた。
 ある日、私が嘘を言ったと怒り出し、金切り声を上げて叩く。ヒューン、ヒューンと竹が風を切る音を聞きながら、心の中で「死ぬ迄やればいい!」と思っていた。どれ位叩かれたのか、突然、強い衝撃があり、心臓が止まった。頭から血がスーっとなくなるのを感じた。
 ン! 死ぬのだ! と思った。すると、辺り一面がピンク色になり、お花畑の上をファファと蝶のように飛んでいる、今迄感じたことのない満ち足りた、幸せな気分だった。
 やがて大きな河のような所が……。しかしそこには誰もいなかった。
 ……そして、現実の世界に戻されていた。

 何度か名前が変わったり、転校を繰り返していくうち、中学生になっても殆ど何も話さず友人も出来ない、教室にいるだけで勉強も一切しなかった。そんな私に付いたあだなは、“オシ”。その頃の私はもう何がどうでもよかった。自分の存在が嫌でたまらなかった。
 学校から呼ばれた母は、私が自閉症ではないかと言われ、「大野家にそんなバカはいない」とまた、叩かれる。
 ある時は目覚めるとセーラー服が切り刻まれていたり、教科書が破られていたり……と毎日が終りのない辛いことの連続だった。
 こうして書いていると、次から次へとあの頃のことが思い出される。
 嘘をついたことが臨死体験につながったことで、トラウマになり、七十歳になった今でも小さな嘘にさえ体が反応する。
 まだ、たくさんのトラウマ体験があるが、それらは決して私の心から消えてはくれない。
 実際に、今から三年程前に小さな擬似体験で激しいフラッシュバックに襲われ、心に受けた傷の恐ろしさを体験している。
 中学卒業後、小さな会社に就職した。その少し後に入ってきたのが九州の人だった。
 “九州”という地名に強くひかれた。親から逃げられるかも……。こんな不純な動機からのお付き合いだった。
 その人が都合で九州に帰った何日か後に、その人の住所だけを頼りに、一人、九州に行った。
 私十九歳、持ったお金は八万円、何の当てもなく、ただただ親から遠く離れたい一心の行動だった。

 九州に来て、彼の家に入り込み、やがて妊娠、式もなしの入籍だった。
 この出会いも、今思えば同じAC同志。何かの本に書いてあった。“AC同志強く引き合うけれど結果は上手くいかない”と。
 子供も二人になり、親への意地もあり、別れることは考えられなかった。一人で生きる強さも自信もない私は、ひたすら耐えて、合わせて、自分を殺して生きるよりなかった。
 九州に来て、二十年余り経った頃、東京で一人で暮らしていた母が、たびたび不安発作を起こすようになり、捨てたつもりの母ではあるが、戸籍上親子ということで、九州に連れてきた。
 当時、姑と姑の姉と住んでいたなかに、超我がままな母が来て……上手くいく筈もなく。
 辛うじて保っていた家族の和が、一気に崩れてしまった。
 家でカーテンの縫製をしていた私だったが、体も衰え、病気がちな三人の老人を抱えて、仕事もままならなくなり、いろいろなことが悪い方向に働いているようだった。
 母には、近くに部屋を借り、ヘルパーさんをお願いして、家を出てもらった。
 その間に、娘の結婚、離婚、孫の誕生……と不安の種を抱えながら、夫の考え、行動に従うしかなかった。
 長男が、職人になると言って家を出た頃から、私の中で、これ以上の我慢は無駄だと思った。子供も成人していること、姑たちも小康状態、出るなら今しかない!
 離婚は私からの一方的な宣言で始まり、その後は、自分でも信じられぬ早さで事を進めた。
 何もかも置いて家を出た。仕事だけは話をつけて、移った先で出来るようにした。
 この時の力は、どこからきたものか、今でもよく分からないが、それ迄の我慢が一気にはじけたのだろうか。しかしである、私が家を出て一年後、二人の姑たちが十日違いで、相次いで他界したのである。

[娘の発病]
 突然の娘の精神疾患を告げられた時の驚きと悲しみ、そして絶望。これは今迄自分が体験してきた苦労の比ではなかった。
 急性期の理解出来ない症状の激しさに、ただただ振り回され、娘の三人の子供の世話に追われた。そのうえに母の介護が重なり、社会性の全くない自分が、これらに対処出来るとは、とても思えなかった。
 考えられるのは、母と娘を連れて死ぬこと。
 しかし、三人が一〇〇%成功する方法が見つからない、万が一つも助かってはならないのである。私もうつ状態になっていった。
 娘夫婦は間もなく離婚。心を病んでも我が子だけは離そうとしなかった。三人を引き取り母子家庭で育てると言った。
 思春期の子供三人を抱えての生活は、毎日がいつ割れるか分からない薄い氷の上を歩いているようだった。

(ここで、初めの精神科病院の話に戻る)
 娘を入院させ、その間に私も自助グループに通い、仲間の中で泣きながら過去を話し、自分と向き合う……という作業を重ねた。
 同じ所でカウンセリングも受けるようになり、こうして、一歩踏み出した私は、そこからは、家族会や市の社会資源等に片っぱしから足を運んだ。緊張で話せなくなったりと、普通の人の何倍もの勇気を要したが、少しずつ人からの支えを頂きながら前に進んでいく。
 自助グループで毎回唱える言葉がある。
「過去と他人は変えられない」
 その通りだった。それ迄は社会的な事は夫を頼り、娘を頼りで、人の中に出て行けなかった私が自分を変えるしかないと気付いたのである。
 娘の入退院と同時進行で、母も入院、退院、転院……と泣いている暇などなかった。どこに入っても我がままを言い、要求の多さに施設から断られたりと、こちらの苦労も知らず言いたい放題な母に、断れない自分が悔しかった。
 そんなある日、下着を濡らした母の着替えのために体を抱き起こした時、母の体温が、そのまま私の体に伝わってきた。その瞬間、妙な感覚になった。これが母のぬくもりなのだ。
 その数日後、いつものように看護師さんと話をしながら、スーっと息を引き取った。
 駆け付けた時は、まだ温かく、眠っているような穏やかな顔だった。
 あれだけ私を苦しめた母がこんな死に方をするなんて。
 母の死で涙も出ない私だったが、強く大きな鎖から解放されたように心が軽くなった。
 その頃から、全てのことが、少しずつではあるが、良い方向に動いているように思えた。
 娘の病状も、多くの支えの中で少しずつ落ち着いてきていた。三人の孫たちも、一時は母(娘)の影響を受けて、それぞれが苦しみ、遠回りをしながらも、時と共に成長してくれていた。
 自分の心のコントロールも出来なかった娘が、我が子のために頑張る姿は、私が見ても偉いと思う。私が親から貰えなかった愛情を、親としてどれだけ我が子 に与えられたか、今となっては全く自信がないが……。娘の孫たちに対する愛情の強さに、自身を振り返る時、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

[孫から教えられたこと]
 ある日、娘から、孫が
「おばあちゃんからはいつも怒られていた」
 と言った……と聞いた。
 ショックだった。私の中では三人の孫はやはり可愛い存在であり、そんな自覚はなかったので、孫の心にそのように残っていたことが信じられなかったが、少 し時をおいて考えた時、自分も母に対して、この年迄ずっと、された事に対する恨みや憎しみを抱えて生きてきたことに気づいた。でも、それが母の全てであっ ただろうか、母なりに私を愛してくれていたのではなかったろうか、気持ちを伝えることが苦手なためにその部分は伝わらず、私の中で辛い部分だけが増幅され て残ったのでは……。私も同じように気持ちを伝えることが苦手である。
 孫からの一言で、母への見方が少しずつ変わっていった。
 違う視点で振り返ると、そこに全く違う母の姿が見えてきた。そして、そうせざるを得なかった母の心が理解出来るようになった。そして、それがだんだんと許しへと変わっていった。同時に、私の心も解放されて楽になった。

 娘の発病から五年が過ぎた頃、孫を大学に進学させるため働きたいと言い、丁度、北九州市の支援による、障害者自立支援ショップに障害者スタッフとして採用された。
 働けるようになるとは思ってもみなかったので夢のようだった。さまざまな人たちのサポートを受けながら、病気の波も何とか乗り越えて今も頑張っている。三人の子供の母であるという思いが娘を支えているのだろう。
 我が娘ながら頭の下がる思いである。

[自分を育て直す]
 娘が働くようになって暫くして、用事で区役所に行った時、いつもは決して行くことのないチラシコーナーに目がいって、そのなかの、「夜間学級」の文字が飛び込んできた。
 東京の中学校時代、“オシ”と言われ、孤立し、楽しい思い出の一つもなかった学校だったが、その中学に夜間部があり、下校の時に校門の所ですれ違うと、 仕事帰りなのに、皆、楽しそうで輝いていたのを思い出して“行きたい”と思った。娘が働き出し、自身も外に出るようになり、前ほどの緊張もなくなっていた 時でもあり、“今ならいけるかも!”と。
 “もう一度、楽しい学校で学びたい、今迄の自分を変えてみたい!”と強く思った。
 一人で九州に来た時も、離婚の時も、この時も、何かに押されるように力が沸いた。
 このタイミングでチラシと出合うことは、神様からのプレゼントだったのかも知れない。
 夜間学級の存在すら知らなかったのだから。
 北九州に二か所ある自主夜間学級は公立ではないので、現・元教師や一般のボランティアで運営されている。
 いろいろな事情で学ぶことが出来なかった人たちが通う、その人に合わせたマンツーマンの学習の場である。
 教室が暖かい空気に満たされている。障害手帳を持つ私を受け入れて貰えたことも嬉しかった。初めは、週一日から少しずつ増やして今では週五日になり、一日でも休みたくないと思うようになった。
 子供の頃から、否定され続け、全てのことに自信が持てなかった私が、人の中に出ていくようになり、受け入れられることで、心の中に押し込めていた本当の自分が目を覚ましたかのように変化していくのを実感出来た。
 夜間学級で二年半が過ぎた頃、夜間中学の全国大会で、体験発表をするという大きなチャンスを頂いた。
 大阪の大きな会場で、泣きながら……ではあったが、十五分間の発表も出来た。
 私には、オリンピック以上の大きな挑戦だった。この事が大きな自信になった。
 娘を支えるために……と一歩踏み出したことが、数々の出会いに恵まれて、私自身を生き直しているように思えた。しかし、どこかで自分の変化についていけない自分もいて、元の自分と今の自分を行ったり来たりしていた。

 時の流れ……とは、有難いもので、止まることのない流れの中で、娘も、孫も、そして私も、それ迄の全てのことを力に変えて成長していく。苦労も、遠回り も、与えられた宝物である。その渦中にある時は思いもせず、見えもせず、長い道の先で宝物だったと気付く時が必ず来る。その時初めて、人生に起こること全 てが無駄ではなかった……と思う。

 今、私は七十歳、娘の病気を機に、自分と向き合い、一歩前に出る、出ることで出会いも広がる。十年前の私を知るカウンセラーからも
「多くの人に関わってきたけれど、年を重ねてからでも、これだけ成長出来るということを教えてもらった」
 と言って頂いた。
 家族会でも、十年前、ただただうろたえる私を仲間の皆さんに支えて頂き、今では、身の丈に合ったお手伝いもさせてもらっている。
 そして夜は夜間学級で学習したり、いろいろな体験もさせて頂いたりと、楽しい時間を過ごしている。
 人の中に出て行くことが出来なかった私が、今では家にいる時の方が少ないという、全く違う私になっている。
 人とのつながりが、こんなにも人を変え、育ててくれる。このことを伝えたくて、未熟な文章しか書けない私ですが、一生懸命書きました。

大野 葵 プロフィール

昭和十八年生まれ 無職 福岡県北九州市在住

受賞の言葉

 矢野賞受賞という知らせを頂いて、只々驚き、舞い上がってしまっています。
 本当にありがとうございました。
 長い人生の大半を、自分を見失ったまま生きてきた私が、娘の病気を機に、多くの人に出会い、助けられ、支えられてきた感謝の心を、受賞という形で少しでも御恩返しになれば嬉しいです。

選評(浅谷 友一郎)

「生 みたくないという両親から生まれた」。この小説のような出来事が大野葵さんの現実の人生です。心に深い傷を持ち、生きる希望すら見えない日々を過ごす。そ れでも七十歳の今、自ら希望して夜間学級に通い、力強く前に進もうとしている姿に感動します。「それまでの全てのことを力に変えて成長していく」「苦労も 遠回りも与えられた宝物」。この素晴らしい言葉が、多くの人たちに勇気を与えてくれるだろうと確信します。