第48回NHK障害福祉賞 最優秀作品
「神様の弟子と暮らす」 〜第2部門〜

著者:三上 洋子(みかみ ようこ) 埼玉県

第二の人生の幕開け
人生という舞台は五十歳までがリハーサルで、そこから本番が始まると聞いていた。まさに五十歳を迎える年に、私は十三年のバツイチ歴に終止符を打ち再婚し た。夫には四人の子供、私には二人の娘がいたので、いきなり六人の母親となった。ささやかな家族だけの式を挙げた。桜が満開で、春光が柔らかく夫と私を包 み、お互いの家族が祝福してくれた。私の舞台の幕が開いた日だ。家族みんなの記念写真は私の大切な宝物となった。
その写真に写っていない娘がいる。名前は麻衣。夫の娘で現在二十四歳、重度の知的障害者だ。自分でできることは「見る」「歩く」くらいで、ほとんど介助が 必要だ。知能は一歳〜二歳くらい。小さい頃に病院で検査をしたが、原因も不明、病名もつけられないという。わかっていることは、一人では生きられないとい うこと。
麻衣が写真に写っていないのは、当時、佐渡の祖父母のもとにいたからだ。麻衣の母親(夫の前妻)は、麻衣が特別支援学校の高等部を卒業した春に、突然夭逝 (ようせい)してしまった。長男は成人していたが、麻衣のほかに、まだ中学と、小学生の子供が残された。夫は実母も亡くしていて頼る人はなく、麻衣を前妻 の両親に預けた。
夫と出会った頃、私は麻衣の存在を知らなかった。残りの人生はふたりで歩みたいと思っていても、それには麻衣の介護が必至であり、私の人生を大きく変えて しまうことを恐れたようだ。初めて麻衣の存在を私に告げた時、彼は苦しそうだった。絞り出すような声で少しずつ私の質問に答えてくれた。私の運命の扉が開 き始めた時だ。
私といえば、離婚後十年余、ひとりでパソコンスクールを営みながら、娘二人と暮らしていた。自営業は浮き沈みが激しく、生活をするのは苦労の連続だった。 娘たちが成人するまではどんな荒波が来ても溺(おぼ)れるわけにはいかないと、がむしゃらに生きていた。
それでも、麻衣の存在を知った時、私の口をついて出たのは、
「私が麻衣ちゃんのお世話をするよ」
という言葉だった。
出産・起業・離婚とさまざまな経験をしたことで、後先考えない無鉄砲でお節介(せっかい)な性格がパワーアップしていた。離婚で周囲に迷惑をかけ、娘たち を傷つけたことを反省する時間も十分あったので、次にチャンスがあるなら幸せにしてもらうことより、人を幸せにする努力をしようと思っていた。
再婚の決意を娘たちに伝えると、
「これからは、お母さんがそばにいなくても大丈夫だから、麻衣ちゃんのお母さんになってあげて」
と私の背中を押してくれた。長女は二十二歳に、次女は高校を卒業する十八歳の春を迎えていた。
娘たちは巣立ち、私はママハハ修行に突入した。

麻衣との出会い
夫の家に移り住み、数か月専業主婦として奮闘した後、秋の終わりに新潟へ麻衣を迎えに行った。
佐渡汽船で新潟港に着いていた麻衣は、夫と私の姿を見つけると小躍りした。付き添いの人たちの手を振り切るように、私たちに手を伸ばしてきた。感情表現は 豊かで、父に甘え、さらに初めて見る私の手をしっかり握って離さなかった。「うちに帰れる!」と察知していたのかもしれない。
身長は一四〇センチ程度、靴のサイズは一九センチと小学生なみ。髪は祖父母が手入れに窮したのか、スポーツ刈りのように短くカットされていた。小さな身体 に背負ったリュックには、紙おむつと大好物の柿の種がたくさん入っていた。祖母が別れ際に持たせたようだ。
夫が
「麻衣ちゃん、ママだよ」
と恥ずかしそうに言うと、麻衣も照れたように身をよじって私をチラチラ見た。
障害者対象のワープロ訓練をした時期もあり、パソコンスクールでハンディキャップのある生徒との接点もあったので、それなりの認識はあると思い込んでい た。でも、目の前にいるこの子が今日から「娘」となり、私に委ねられたのだと思うと急に不安になってきた。
新潟から埼玉まで車で七時間、麻衣は一睡もせず興奮した様子で唸(うな)り続けていた。この「ウーウー」という唸り声も初めて聞くもので、夫は麻衣のこと を「おとなしい」と表現していたため、「これでおとなしいの?」と疑問に感じていた。
特別支援学校の様子を知らない私は、奇声を発したり暴れたりする子もいて、麻衣の唸り声など可愛(かわい)いものだとは知らなかった。写真の中の静止画 だった麻衣が、鳴り止まぬ唸り声をあげて、私の手をさすり続けていることが現実のこととは思えずにいた。
新潟からの帰り道では、群馬あたりの温泉で一泊して……などと甘い考えを抱いていたが、温泉でのんびりという気持ちにはなれず、いちもくさんに自宅に戻っ た。
新しく用意したベッドに麻衣を寝かせ、私と夫は布団を敷き、唸り声を聞きながら眠った。その夜から麻衣と私たち夫婦のおかしな新婚生活が始まった。

介護のスタート
麻衣が自宅に戻って、ママハハ稼業に介護が加わった。日中は麻衣とふたりだけで、初めはおっかなびっくり接していた。
麻衣も久しぶりの自宅と、離れている間に成長したきょうだいに慣れず、家の中を歩き回ったり、さめざめと泣いたりした。話しかけてもこちらの言葉をどれだ け理解しているかもわからない。
「ひとりでは何もできない」ことが「赤ちゃん」と同じような気がして、また育児が再開したような緊張を感じていた。
麻衣はスプーンを持つことはできても、すくえないので、食事も介助が必要だ。排泄(はいせつ)もすべて紙おむつだより。身体は小さくても成人女性であり、 ちゃんと生理もやってくる。初めてのことばかりで、ひるむこともあったが、その都度「何とかなる」「やればできる」と自分に言い聞かせていた。
「これでも少し前までは、キャリアウーマンだったんだよ。人生ってどこでどう転がるかわからないね〜」
とブツブツ独り言をいいながら、ひざまずいて紙パンツを取り替える自分の姿に苦笑いした。
夫は、慣れない介護に奮闘する私を心配して、仕事からまっしぐらに帰宅する。私が笑顔でいると安堵(あんど)して、「今日も一日ありがとう」と言ってくれ る。私が自由に過ごせるのは麻衣が昼寝をしている三時間くらいのもので、時にはストレスで口がへの字に曲がっていることもあり、夫もハラハラしていたと思 う。
デイサービスもあちこち見学したが、軽度の障害であると散歩や軽作業、農作業などをして仲間と過ごすという施設が多く、重度の人の施設では寝たきりだ。
麻衣はみんなと作業を楽しめるほどの知能や体力はなく、寝てばかりいなければならないほど体が不自由なわけではない。なかなか相性のよい施設に巡りあえず にいた。

麻衣の亡母が記入した母子手帳の成長の記録を見ると、「○○できますか?」という質問に対して、答えは「いいえ」が多い。一歳になった頃でも「一人座りが できません」という記入があり、母親の当時の不安な気持ちがよくわかる。自分の娘たちの成長の記録は、すべて「はい」に丸で、それが当たり前のことだと 思っていた。子供が順調に成長できることが、どれだけ感謝に値することだったのかを思い知らされた。
特別支援学校時代の、母親と先生との連絡ノートを見ても、麻衣の日常が細かく綴(つづ)られていて、多くの人に支えられて麻衣が生きてきたことが窺(うか が)えた。記録や写真を見ると二十年余の足跡があるのに、私の前にいる麻衣は大きな赤ちゃんであり、生きてきた年月を感じさせなかった。
小さな子供を見ると、
「この子はいつか大人になる。今は子育てが大変でも、いずれは親から巣立っていく。なのに、麻衣はいつまでこの姿なのだろう。私はいつまでこの子のお世話 をするのだろう」
と、絶望的な気持ちになって落ち込んだこともあった。
麻衣と同年代の女性を見れば、
「本当なら、麻衣もお洒落(しゃれ)してお仕事をしたり、恋をしたりできたのに……」
と哀れに思って涙した。
おとなしくテレビを見ていると思っていたら、横になったまま涼しい顔で粗相をしていることもあった。家事やほかの子供たちの世話もあり、雑事に追われると 苛立(いらだ)って
「何でトイレにいかないの? 何でできないの?」
と、泣きながらお尻を叩(たた)いたこともあった。
 麻衣は声をたてずに泣いて座布団をかぶったり、ソファに突っ伏したりして私の怒りが過ぎるのを待つ。私は涙が過ぎて落ち着くと、仏壇にお線香をあげて麻 衣の亡母に謝罪した。
「ごめんなさい。でも、私も頑張ってるんですよ」
と仏様に言い訳する。もし逆の立場なら、私は空の上からどんなに切ない気持ちで娘を見守るのかと思い、また涙が流れた。

少しずつ前進
麻衣は歯磨きが嫌いで、歯があちこち茶色く汚れていた。みんなで泣きわめく麻衣を押さえつけて歯磨きをするので、歯ブラシを見ただけで逃げる。拷問のよう な歯磨きタイムに私自身が耐えられず、最初は蒸しタオルで歯を拭くだけにした。幼児番組の歯みがきの様子を見せたりして、歯ブラシをくわえることに慣れさ せた。「きれいになるよ」とか「可愛いよ〜」と声をかけると、笑いながら素直に口を開けるようになった。「やっぱり女の子なんだ。褒められて喜んでい る!」と麻衣の女の子の部分を発見して嬉(うれ)しかった。話せないだけで、名前を呼べば振り向いたり、叱ればふて腐れたりもする。
それからは、一方通行でも常に話しかけるようにした。麻衣が話せないからといって黙って介助せず、何をするにも「〜しよう」と声をかけて促すようにした。 「そろそろ起きよう」「窓開けるね。いい風はいるよ」とか「出かける前に歯磨きしよう」「今日は○○スーパーに買い物に行こう」など、自分にも話しかける つもりで麻衣に言葉をかけた。
麻衣は歩けるけれど、歩き方はおぼつかなくて、すぐ疲れてしまう。背中に耳を当てると鼓動がすごく早い。運動不足解消にと公園に連れて行くと、散歩が嫌い な麻衣は車から降りようとしない。でも、スーパーの駐車場なら、勢いよくぴょんと降りる。自分のお気に入りの店舗では、両手を胸の前でぎゅっと握って 「やった〜」とばかりに大きな口を開けて笑う。
「ちゃんと何をする場所か理解しているんだ。ちゃっかりしてるなぁ」
と、思わず私も笑ってしまう。毎日一回は、買い物ついでにふたりでカートを押しながらグルグル歩くことにした。
麻衣は子供が大好きだけれど、子供は麻衣の姿を見ると一瞬ぎょっとしたような顔をする。子供なのか成人なのか曖昧(あいまい)な容姿もそうだが、唸り声も 異様に感じるのだろう。麻衣はそれを知っているのか、スーパーで子供とすれ違う時は顔をそむけたり、下を向いたりする。大人でも眉をひそめたり、あからさ まにじろじろ見たりする人もいる。こちらが遠慮してエレベーターがすくのを待っていると、「どうぞ」と手招きしてくださる人もいて、心が温まることもあ る。

ふたりで買い物中に、すれ違いざまに麻衣に声をかけられることがある。小学校の通常学級から特別支援学校に進んだ麻衣は、ちょっとした有名人らしい。麻衣 が普通小学校に通ったことで、のちに障害をもつ子供のためにエレベーターが設置されたそうだ。
声をかけられても、麻衣が話せるはずもなく、私が夫と再婚したことや、麻衣の近況を説明する。同じ境遇のお母さんがたは、
「よく決意なさいましたね。天国のママも安心しているでしょうね」
と我が事のように喜んでくださる。
なかには麻衣の手を握って、
「麻衣ちゃん、神様っているんだね。よかったね」
と涙を流す人もいた。
ハンディを背負って生きる子供の親としては、親亡き後の子の行く末は他人事ではないのだろう。
私は照れくさくて、
「主人が捨てられた山羊みたいな顔していて、かわいそうになっちゃって。私がまとめて面倒みちゃう、というところです」
と冗談で交わす。
好きになった人に、たまたま知的障害の子供がいただけ。「まとめて愛しちゃおう」という単純な動機だった。
大好きな人の子供だから、大好きになる。それは単純だけど難しい。麻衣のほかにも子供たち(現在、高校生と大学生)と同居しているので、些細(ささい)な 衝突は何度かあった。思春期で反抗期の息子が、無言の反抗をするときに「なぜ、言葉を持っているのにきちんと話し合わないの?」と悲しい思いもした。
麻衣優先になりがちの暮らしのなかで、きょうだいは我慢をする習慣が身についていて、手放しで甘えることに慣れていなかったのかもしれない。
母親というジグソーパズルの一片がなくなり、私が代わりの一片となって収まろうとするのは、互いに少しずつ窮屈であり、ぴったりと収まるまでには長い時間 がかかるのだろう。
それでも、ひとつ屋根の下で暮らすことは、ぶつかったり許しあったりしながら、少しずつ家族になっていくようだ。

麻衣は神様の弟子
嫁いで三年目の夏が近づいたある朝、私の娘から電話が入った。朝の四時を少し過ぎた頃で、不安がよぎった。
予感は的中し、就寝中に暴漢が部屋に侵入して、手を大怪我(けが)してしまったという。娘にすぐ一一〇番をするように伝え、娘の住まいへ急いだ。車を運転 している途中、神々しいほどの美しい朝焼けを見た。その朝焼けを見ながら、「普通の朝なのに、昨日とは状況が一転してしまった。毎日、普通の朝が当たり前 に来るとは限らないんだ」と、今まで迎えてきた朝が何と幸せだったことかと痛感した。
病院に向かい、処置が終わり血の気のない娘と対面した時は、「とにかく生きている。命は助かった」と安心したものの、これから心の傷をどう癒していけばい いのかと大きな不安が芽生えた。
娘は、犯人が脅すために持っていたカッターを無意識に掴(つか)んで抵抗したため、手のひらがパックリ切れた。夥(おびただ)しい血に驚いて犯人は逃げた という。その日の夜から、麻衣の介護に加え、手が使えない娘の世話が続いた。夜中には悪夢と痛みで私の背中にしがみついてくる。心身共に疲れ果てている娘 と私は、それでも連日警察や病院へ出かけねばならなかった。
ある日の夕暮れ、私の運転する車が家の近くにさしかかった時、ベランダに昼寝から覚めた麻衣が佇(たたず)んでいるのが見えた。私たちの帰宅がわかると嬉 しそうに背伸びをして待っている。その姿を見て、娘が、
「麻衣ちゃんだ。あぁ、癒されるね」
と呟いた。邪悪な人間に傷つけられた娘は、麻衣の無垢(むく)な存在に安心するようだった。麻衣には「悪」という要素が皆無だからだろうか。
「おつかれさま」とか「大変だね」という言葉がなくても、その存在だけでほっと安心できたのは私も同じだった。
言葉は時としては傷を癒す薬になり、また時として人を傷つける武器になる。麻衣は言葉を持たないから人を傷つけない。そして言葉がなくてもその笑顔は人を 癒す不思議な力がある。
娘が回復して新居に引っ越すまでのひと月、麻衣はルームメイトとして娘の心の傷を癒してくれた。何を話すでもないが、ふたりでじゃれ合っていた。事件後は 身体の傷が癒えても、心が折れて日常生活がままならないと聞いていて、どうサポートしていくかが家族の課題だったが、麻衣がいつの間にかその役割を果たし た。
重く苦しい夏が過ぎ、秋も半ばになった頃、犯人が逮捕された。わが家に平穏な暮らしが戻ってきたのは、麻衣と三回目の冬を迎える頃だった。年が明けて、娘 は心機一転、保育士を目指すと決意し、短大に入学した。
もし事件によって娘が最悪の事態になっていたなら、私は再婚して娘を一人にさせたことを生涯悔やんだに違いない。自分の幸せのために娘を犠牲にしたと自分 を責めただろう。でも、娘はまた前を向いて歩き始めてくれた。
以前、自閉症の子供を持つ知人から、
「障害を持つ子供は、幸せにしてくれる家族のもとにやってくるんだよ。選ばれた家族なんだよ」
と、励まされたことを思い出す。しかし、守られているのはどうやら私たちなのでは?と考えるようになった。麻衣がわが家の「守り神」なのかもしれない。
神様が姿を変えて地上に降りたか、神様の弟子として遣わされたのかと、私は妄想した。いずれにせよ、神様からのあずかりものだと考えれば、大抵のことは許 せるようになった。麻衣が神様のところに帰るまでは精一杯お世話しよう、そのためには私自身が健康でいようと思い始めた。
介護を始めたばかりは、夫に泣きながら、
「よだれが臭い」
「唸り声がうるさくて眠れない」
「こんなに何もできないなんて言ってなかったじゃない。嘘つき。私の残りの人生返してよ」
などと罵(ののし)ったこともある。心の中でも「どうせ」とか「しかたない」という投げやりな言葉が多かった。
それでも、多くの出来事を通して、麻衣に対する愛情も、ものごとをプラスに考えられる余裕も生まれてきた。
「麻衣ちゃんは、人間じゃないかもね」
と言うと、夫は「それはあんまりじゃない?」という哀しい顔をした。
「人間を超越しているということだよ。神様のお弟子さんで、わが家を守ってくれているのかもしれないよ」
と説明すると、夫は安心したように笑った。
そして、
「俗世の人間には教えてはいけないことがあるから、神様が言葉を取り上げたかな?」
と、私の突飛な妄想に合わせてくれた。
麻衣と暮らしてもうすぐ四年目。今では唸り方で、「眠い」「トイレ」「お腹すいた」など理解できる。
私が美容院から帰ると、「あれ? 髪切ったの?」みたいな顔でニヤニヤ笑ったりして、麻衣の心の声まで聞こえるようだ。
私たちが夫婦で奮闘していることを、麻衣は神様にテレパシーで伝えてくれているかもしれない。

舞台は続く
麻衣は、周囲の雰囲気や言葉の意味は察知できる。夫婦喧嘩が始まると、ソファに突っ伏して耳をふさいでしまう。
逆に、ふざけて夫と抱き合って、「麻衣ちゃん、見て見て〜。ほら仲良しだよ」と見せると、麻衣のほうが照れて、目に手を当てて「あちゃ〜」というように、 見ないふりをする。まるで「いい年してよくやるよ。見ちゃいられない」と言った風に。「おいで! 三人で仲良ししよう」と麻衣を真ん中に、私たちが挟むよ うに抱き合うと、嬉しいやら恥ずかしいやら身体をくねらせる。「大好き!」と頬(ほお)を寄せると声をあげて笑う。
佐渡から帰宅したばかりは、いつも梅干みたいなしかめっ面で唸りながら威嚇していたのに、眉間(みけん)の皺(しわ)は消えて可愛い顔つきになった。
笑っている顔を見ていると、私はとても豊かな気持ちになる。

ハプニング続きのわが家にも、この春、長男(夫側)の結婚式という喜びのイベントがあった。長男は麻衣の影響で、特別支援学校の教師になった。小さい頃は 麻衣の存在が恥ずかしかったというが、今は大切な妹だと感じていて、麻衣にも列席を希望した。そして、当日は私の娘たちもやってきて久々に家族全員が顔を 揃(そろ)えた。
麻衣は興奮して式場スタッフに飛びついたり、式の最中もボリューム最大の唸り声で賛美歌をかき消したりと冷や汗が出たが、笑いが絶えなかった。麻衣を真ん 中に、お嫁さんを交えた家族写真は、私の新しい宝物になった。
長男が後日、
「緊張したけど、式の最中に麻衣ちゃんの声が聞こえてきて、あぁ麻衣ちゃんがいるんだ、と思ったら気が楽になったよ。」
と言っていた。
私は「存在だけで人を和ませるとは、麻衣は大物」と、またもや感服した。

麻衣と出会った当初は「神様はどうして麻衣にこんな意地悪したのだろう?」とか「麻衣が生まれてきた意味って何なの?」とか考えていた。
でも、今はシンプルに「生きる」ために生まれたのだと思う。生きることで、いろいろなことを教えてくれる。健康のありがたさや、言葉の大切さはもちろん、 他人同士でも、肌に触れ温かさを知るうちに家族になれることを教えてくれた。
新しい家族と始まった私の舞台は、これからも続く。トイレもお風呂も一緒の仲なのだから、麻衣は最強の共演者だ。毎日がドタバタ劇でも、神様の弟子と一緒 なら、私の舞台はハッピーエンドだと信じている。

三上 洋子 プロフィール

昭和三十五年生まれ 主婦 埼玉県越谷市在住

受賞の言葉

麻衣と買い物の帰り道で受賞の連絡を受けました。麻衣と笑顔でハイタッチ。私の喜びがわかるのか麻衣も満面の笑み。熟年婚とはいえ、夢の新婚生活は「障 害」「介護」と向き合う毎日でした。それでも顧みると不思議と心は温かです。この賞を心の勲章として、これからも家族の笑顔を守るため精進していく所存で す。私の泣き笑いを綴った作品を高く評価していただき心より御礼申し上げます。

選評(柳田 邦男)

自分にも二人の娘さんがいる著者の三上さんが五〇歳で、知的障害のある麻衣さんを含め四人の子のいる夫と結婚。好きになった人にたまたま障害のある子がい ただけ、「まとめて愛しちゃおう」という心意気に脱帽です。麻衣ちゃんをつい叱って泣かせてしまうと、夫の亡き前妻の仏壇に「ごめんなさい」と謝る。なん とポジティブな女性かと驚嘆。〈麻衣は言葉を持たないから人を傷つけない〉という言葉が出てくる。暴漢に襲われて心身に傷を負った次女を癒すサポート役に なったのが麻衣ちゃんの存在だったと記す。麻衣ちゃんの影響で特別支援学校の教師になった長男は自分の結婚式に麻衣ちゃんの出席を積極的に求めたという。 家族模様を生き生きと描き出した三上さんの文章から、新しい家族像を感じ取りました。