第47回NHK障害福祉賞優秀作品「私の生きる道」〜第1部門〜

著者:山本 すみれ(やまもと すみれ)愛知県

私たちの住んでいる地球には、数えきれない程のたくさんの命が存在していて、それぞれが精一杯生きています。今、この時間も生きています。そんな数ある命の中の、私はほんの一つで、神様からしたら、ちっぽけなちっぽけな命かもしれない。誰かが言ってくれました。
「神様はちゃんと見てくれているよ。良い事も悪い事も平等に起こるんだ」
障害を持って約二年。この言葉を信じて一生懸命生きて来ました。障害を持ったことで私の将来は大きく変わりました。しかし、それ以上に人間として私自身を大きく成長させてくれました。私の体験が少しでも誰かの勇気に繋がれば嬉しいです。
私の身体に異変が起き始めたのは、今から約二年前の高校二年生の、梅雨の蒸し暑い時期でした。私はそのころ、今の豊橋養護学校ではなく、宝陵高校衛生看護科に通っていました。昔から体調を崩すことが多かった私は、中学に入るころから「看護師」という職にあこがれを抱いていました。中学二年生の夏に大きな怪我をしてしまい、長く通院する時期がありました。その時出会った看護師さんの影響で私が抱いていたあこがれは、「夢」へと変わりました。あの看護師さんのように、心の傷まで癒せるようになりたい、と。誰かの役に立てるようになりたい、と。
こうして私は、苦手な勉強を頑張り、恥ずかしがり屋なのに級長に挑戦したり、積極的に受験の準備を進めたりしました。人生初めての高校受験、何よりも緊張したことを今でも覚えています。周りの支えや頑張ったかいもあり、見事、合格することができました。そして中学を卒業し、新しい制服に身を包み、これから始まる新生活に心を弾ませながら宝陵高校の門をくぐったのです。
学校での生活は、全てが初めてのことでゆっくりする暇もないくらい忙しかったです。しかし、授業にある専門教科は、私の楽しみでした。新しく学ぶ医療のことは興味深く、のめり込んでいきました。医療の勉強をしているだけで、まだ五年も通わなくちゃいけないのに看護師になれたような気もしていました。友達にも恵まれ毎日が楽しかったです。時には、課題の多さやテストで眠れなくて、辛くて逃げ出したくもなりました。しかし、一緒に目指している仲間がいるから頑張ることができました。
校内実習では、患者役、看護師役に分かれてケアの勉強をし、技術に磨きをかけました。先生の厳しさに気持ちが落ち込んだりしたこともありましたが、今思えば命を預かることに責任を持たなければならないので、当然の厳しさだったと思います。
学校にもなじんできたころ、患者さんとふれ合うためにはコミュニケーションが大事になってくると考えた私は、アルバイトを始めました。洋菓子店で接客業だったので、コミュニケーション能力を身につけることができると考えました。体調を崩してしまうまでの約一年間、ここでお世話になりました。ここでも私はたくさんのことを学び、それが今の力になっていると思います。私が失敗した時、最初はうまく言い出せず、謝る事ができませんでした。なのに店長は、私自身が気づき、謝る事を待っているかのように、怒らず黙っていました。その時、謝れなかったことは後悔してもしきれません。働くということは、お金をもらうことで、大きな責任を持たなければならないのに、あのころの私には、それがどうしようもなく足りなかったのだと思います。
そして、勉強に部活に恋愛に行事にアルバイトと、毎日充実した日々を過ごし、一年はあっという間に過ぎました。十五歳ぐらいの時は、多くの人は自分が将来何になりたいか、迷う時期だと思います。私の場合、そんな早い時期から夢を追いかけられる幸せを感じていました。
そして高校二年生が幕を開けました。始まったころは、初めての病院実習や修学旅行など行事が盛りだくさんで楽しみにしていました。まさか自分の身にあんなことが起こるとは夢にも考えていませんでした。まず二年生になってからのビックイベントである戴帽(たいぼう)式がありました。一年生の時はナースキャップを被ることは許されません。しかしこの式を終えるとナースキャップを被ることが許されるのです。ナイチンゲールの言葉を皆で覚え、慣れない手つきでナースキャップを被る練習をたくさんしました。本番では校長先生が一人ずつ頭にそっと乗せてくれました。いろいろ、備品にもお金がかかって父や母にも負担をかけていたので、晴れ姿を見せることができ涙が出そうでした。四年後にはきっと、親孝行したいと思っていました。それから病院実習に向けて、いっそう実習は本格的になり、居残りや家でも母に協力してもらい、血圧の測り方を何度も練習しました。何度も失敗しながら、技術が身につく喜びを感じました。
そうこうしているうちに梅雨の季節がやってきました。そして私の身体にも異変が起きるようになりました。手が細かく震えるようになり、もともと頭痛持ちだったのですが、その頭痛を頻繁に感じるようになり、ちょっとしたことで疲れるようになりました。不安もありましたが、その時の私は人のために頑張らなきゃと思っていたので、気付かないふりをしていました。親にも言わず、親友に冗談交じりに
「手が震えるんだよね」
というくらいでした。でも、アルバイトをしている時に、手の震えでケーキの苺がうまく置けなくなった時はさすがに大きな不安を感じました。この時、病院に行けばよかったのですが忙しさを理由に行きませんでした。
そして夏休みが訪れました。遊びの約束やアルバイトをたくさん入れ、アクティブに過ごしていました。しかし、だんだんと体調を崩していきました。お盆の季節、洋菓子店はかなり忙しく、私の他にアルバイトの人がいなかったこともあり、六日連続の勤務をこなしました。そして夏休み終盤まで大量の課題に追われました。そんな時、血尿が出ました。この時も両親にはしばらく黙っていましたが、長く続いていたこともあり、怖くなって母に打ち明けたら、さすがに病院にいくことになりました。母は
「なんで早く言わないの? 取り返しのつかないことになっても遅いのよ」
と小さく叱りました。私は昔から自分が我慢すれば何事もうまくいく、この考えを捨て切れずにいました。この性格が悪運を呼んだのです。
行きつけの個人病院に行きました。検査の結果はやはり、内分泌に関係する数値が悪く、市民病院に紹介を受け、すぐに行きました。そこでも詳しい検査をし、入院を勧められました。そして少し大きな市の市民病院で二週間程入院することになりました。突然のことで驚きました。大したことはないと思って、症状が出てからすでに三か月たっていました。もっと早く病院に来ていれば、入院などしなかったかもしれないと後悔ばかりしていました。担任の先生は
「休暇のつもりで少し休んできなさい」
と労ってくれましたが、内心、テストもあるし、病院実習も近づいている大事な時期なのに、皆から遅れをとってしまうことに大きな不安を感じていました。特に目立った病気もしたことがなく、入院生活は不安でしたが、じきに慣れました。それでも毎日、
「まさか看護師を目指しているのに自分が看護されるなんて」
と悔しく思っていました。けれども、すぐに戻れると信じていたので、戻った時、勉強に困らないように自主勉強をしていました。そんな頑張りとは裏腹に、なぜか薬も効かず、足にも違和感を覚えるようになりました。
そして、ある夜のことです。足の違和感が強く、ずっと眠ることができずにいました。そして、歩いてみると足に何人も子供がつかまっているかのようにうまく歩けなくなっていました。ものすごく驚いて何が起きたのかわかりませんでした。身体的なものと精神的なもの両方の問題が疑われ、追加の検査を受けているうちに、退院予定の二週間が過ぎていました。
私はこれからどうなるのかという不安に押し潰されそうで、毎晩のように泣きました。しかし、母や友人の前では泣くことも、弱音を吐くこともできませんでした。これ以上心配をかけたくなかったからです。そして、担当の先生が言った
「絶対に歩かせて退院させるから」
という言葉を信じて一か月、特にこれという進展も無く、この病院で出来る検査をやり尽くし、大学病院へ転院することになりました。治るならどこまでも行く覚悟を、家族としました。お見舞いに来てくれる友人にもたくさん支えられました。学校であった出来事を詳しく話してくれる、そんな他愛のない会話が癒しでした。そうして私は、いろいろな人からエールをもらい、地元を離れ大学病院で入院生活を始めました。
転院した次の日、私は人生で初めて、一人で十七歳の誕生日を迎えました。毎年家族が当たり前のように祝ってくれていたので、すごく寂しかったです。いつのまにか季節は秋になっていました。入院生活も二か月目、毎日忙しく進む検査。けれど一向に原因が分からず私のいらだちは増し、遠方からほぼ毎日通ってくれていた母に何度か八つ当たりもしました。そして、支えだった友人との関係も変わりました。毎日、普通に学校に行ける友人に嫉妬し、
「どうして私だけ?」
とうらやましく思い、話を聞くのが辛くなったのです。そして自然と距離をとるようになりました。
心をふさいだ私に、笑顔をくれたのは患者さん達でした。
「あなたならきっと良い看護師になれるわ。だって病気の辛さを知っているもの。私達と一緒に頑張りましょう」
この言葉で目が覚めた私は、看護師を目指し頑張っていた時のことを、もう一度思い出しました。それからというもの、私は体調が良い時は部屋にこもるのをやめ、患者さん達と談話室で交流を深めました。少しでも病気の辛さを忘れて欲しかったのです。今の貴重な経験を、未来に生かそう。そんな気持ちでした。
しかし、入院三か月に入った時、いくら頑張ってもどうにもならないことが起きました。高校では病院実習が始まったことで、今年の単位が取れなくなり、休学を余議なくされたのです。担任の先生が病室に来て書類にサインをしました。これで留年。あの教室で、あのメンバーと、もう勉強することができないと思ったら涙があふれそうになり、車いすを走らせ、一人トイレで泣きました。
「私はもう夢をかなえられない」
認めたくないけれど、そう考えるようになりました。
そして十二月末、原因が分からないまま退院を迎えました。相変わらず足は言うことをきかず、走ったり、自転車に乗ったりといったことが当たり前に出来た日々を懐かしく思いました。そして転院前の病院に、また入院することになりました。何も進展することもないまま、人並みに歩くということを失って四か月目、家族と共に絶望感に浸っている私達に、先生は、駄目もとで、ある薬を効くかどうか試してみないか、と提案してくれました。私は迷わず飲んでみることにしました。先生の予感通り、その薬は私の身体にあい、歩くことができました。その時の喜びといったら表現できないぐらいです。発病以来、両親や学校の先生、担当医の先生、友達、いろんな人に助けられ支えられ迷惑をかけました。元気になることが恩返しだと思っていた私は、
「これで治る。学校に戻れる」
と思いました。
でも現実は甘くありませんでした。退院後に私は久々に学校に行きました。懐かしい。教室でみんなと会いました。うれしい。しかし先生との話で現実を思い知ったのです。少し効く薬が見つかったとは言え、変わらず足取りは不安定、看護師という職がどんな職か考えると、もう答えは決まっていました。諦めなくちゃならないと。私は初めて母の前で泣きました。どうしても受け止めることが苦しかったのです。でも立ち止まることもできない。私は、施設が整っていて身体が不自由でも通うことのできる豊橋養護学校に転校することを決めました。それと同時に、障害者手帳を持つことも決まりました。
まさか自分が障害者になるなど考えてもいなかったし、夢を諦めるなど思ってもいないことでした。偏見はないと思っていた私ですが、いざ手帳を手にした時、戸惑いました。そんな自分の存在に嫌気がさしました。もう治らない病気なんだと、ずっとうまく付き合わなきゃいけないんだと言い聞かせました。世の中には、自分より辛い思いをしている人がたくさんいるのに、こうして生きているだけで幸せなことなのに、自分ばかり不幸な顔をしている。そんな毎日から抜け出せなくて、葛藤しました。
時間は過ぎ、クラスの皆と別れる日が来ました。笑顔で話をしようと思いましたがそれは無理で、自然と涙があふれました。そして担任の先生が
「きっとあなたなら新しい所でもうまくやれるから」
といってくれた時、頑張ろうと思いました。この場所にはいられなくなったけど、別の何かが私を待っている、きっと何か意味があるとプラスに思うようにしました。それから四月の養護学校入学まで、新しい制服や車いすを注文したりして、忙しく過ごしました。両親もずっと落ち込んではいられないと、私の新しい門出を応援してくれました。振り返ればいろんなことがあった半年間でした。
人間、不思議なことに、自分は大丈夫というような変な自信があります。しかし時にそれは覆され、思いもよらぬことが起こることを経験できました。そして、実際自分自身が患者になって入院してみて、一人では生きられないということ、日ごろから私という人間を支えてくれる人がたくさんいること、世の中には多くの人が見えない何かと闘っていることに気づきました。健常者から障害者となった私にもまだ何かできることがあるのかと、当時の私は一番不安を抱えていました。自分の中で葛藤していて、現実を受けとめられなかったのだと、今は思います。不安を抱えたまま、四月、豊橋養護学校への転校初日を迎えたのです。
目に映る光景は全てが初めてで、正直あっけにとられました。小学部から高等部まで身体のどこかに何かしら障害を持った子供たち。まず目についたのは、みんな笑っていたことでした。明らかに辛そうで、いろんな悩みもありそうなのに、私より笑顔ですごく元気づけられたのを覚えています。勇気を出して話しかけてみても、笑顔で答えてくれる。
その時、わかりました。ここにいるみんなはちゃんと障害と向き合っていて受け止めようとしていることを。それなのに、私はどうだろう。目をそむけようとしている気がして恥ずかしくなりました。
「受け止めよう自分を。自分はこの世でただ一人。自分が自分を一番愛してあげなくちゃ」
そんなことを思いました。クラスでは、私が一つ年上で、メンバーは四人。仲良くなりたくて積極的に話しかけました。最初は不安だらけだった私も、だんだんととけ込むことができました。そんなおりに、実際の企業などで一週間ほど働かせてもらう就業体験という行事があることを知りました。担任の先生が
「何になりたいの」
と聞いてきた時、正直戸惑いました。なれるものなら諦めたあの夢を追いかけたい、しかし今の私はもうなれない。あれほど追いかけた夢がなくなったのに、何になりたいかなど、正直私には考える余裕もなかったのです。悪くいえば、現実逃避を繰り返していました。でも、母の後押しもあり、得意としていたパソコンを使う事務なら私にもできるかもと思って希望し、体験することになりました。いざ働いてみると楽しくて、働くっていいなと思いました。何より障害を持ってもできる事があることが嬉しかったのです。この体験をしたことで、何かになりたいと一つに決めるのではなく、「働きたい」という漠然としたことではあるけれど、わたしの夢というか目標ができました。それからは、体験したことを生かし、コミュニケーション能力を高めることに力を注ぎました。以前の友人にはどこか頼ることができなくて、相手も私に気を遣うだろうと思い、転校してからというものなかなか連絡をとることができなかったのが、このころから近況を伝えるなど勇気を出して連絡することができるようになりました。
「伝えなければ、思いは眠ったままで伝わらない」
ということも、仕事をして気付いたことの一つです。
そして二年生もあっという間にすぎ、三年生になってまもなく、四度目の入院をしました。よく分からないままでいた私の病態もだいぶわかってきました。一度は諦め、絶望しましたが、時間をかけてようやく今、答えが出そうなところまできています。
そして、退院してすぐ二度目の就業体験が始まりました。去年の反省を生かし積極的に会話をしました。私の新しい夢である「働く」ということを実現するために。会社で体験させていただいた仕事で、また新たな発見もしました。パソコン入力作業でも、見る人のことを考えて見やすくする努力や工夫をすること。思いやりと責任感を持つこと。本当に障害があっても偏見などなく、健常者の方と同じように接してくださり、仕事をくださいました。そして私はこのような職場で働きたいと強く思いました。
体験を終えた今、残りの学生生活を自分にとって有意義なものにし、就職先を決められるように努力しようと思っています。決して諦めません。この自信は、こんな私でも必要としてくれる場があると、信じているからです。障害を持ったことで、失ったものはたくさんあります。しかし、たくさんの人と出会い、助けられ、支えられ、人の温かみを経験することができました。今も私は、周りの人に支えられながら生きています。普通の高校生では経験しないようなことを経験しました。それが今となっては強みとなり、あれ程の辛さを知ったのだからこれから何が起きても乗り越えられるような気さえします。そして、養護学校に来て、一緒にみんなと過ごして、障害についてある考えが生まれました。速く走れるのも遅いのも、視力が悪いのも、ピアノが弾けるのも、その人それぞれの個性ですよね? だったら障害も個性なのではないか。そう考えたら、長い間障害と付き合う事に抵抗がなくなりました。そして、もう一つ大事なことを見つけました。それは、人と自分を比べないことです。「私は私」で、自分の道を歩むことが大事なんだと感じています。この二年間の経験が今の私のポジティブさを作りました。これからも、障害と向き合い、生きていきます。今、辛い思いをしている人はたくさんいると思います。しかし、きっとその経験は明るい未来に繋がると思います。考え方一つで私たちはいくらでも幸せになれるのだと、私は思います。
私は、ちっぽけなちっぽけな人間です。だからこそ周りの力を借りながら感謝の気持ちを忘れず、これからも一歩一歩、前に進んでいきます。
これが私の生きる道です。

山本 すみれ プロフィール

平成五年生まれ 学生 愛知県新城市在住

受賞のことば

まさか優秀賞をいただけるなんて本当にびっくりしました。喜びと、私を支えてくれる家族、友達、医師、先生、その他の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。この賞をいただけたことで、これから先の生活の大きな励みになります。これからは私自身も周りの方々の支えになれるよう成長しながら、人生の新たなページを増やしていきたいです。全国の皆様に私の思いを伝える機会をくださり本当にありがとうございました。私の武器、「笑顔」と「明るさ」で日々前進していきます。

選評(山口 薫)

看護師への夢が発病によって消え、入退院を繰り返しながら、失意、悲しみ、苦しみ、あきらめと気持ちが揺れ動く中で、養護学校高等部で素敵な仲間たちと出会い、そして就職実習で「自分の生きる道」を発見するまでの人生の歩みが素敵に描かれています。
「人と比べない」「私は私」の結びのことばが強く印象に残りました。
折しもiPS細胞研究がノーベル賞受賞、そのパーキンソン病などへの実用化の一日も早い実現を願っています。