第47回NHK障害福祉賞優秀作品「障害者から教えられた」〜第2部門〜

著者:鈴田 浩二(すずた こうじ)神奈川県

「社長、相談に乗ってくれませんか」
韓国風味の豚足とレバ刺しがお気に入りの、行きつけの店のおかみさんからの話だった。韓国の南の島の出身で日本人と結婚していた。
社長などと呼ばれると尻がこそばゆくなるような小さな会社を、二か月前に始めたばかり、わたしが五十四才のときだった。
鉄筋加工の仕事をしている弟が転職先を探している、年は二十七でアーク溶接ができる、普通免許は持っている。働かせてくれないかというのだ。人手不足に悩まされていたわたしは
「毎日、関東一円が現場だから朝も早いし当然帰りも遅い、当人がやる気さえあるなら」
と言うと、もう帰ってくるので会ってやってください、となり、話はとんとん拍子に決まった。
四年後には済州島へ帰り両親の面倒をみる、それまでに精一杯貯金したいという心根も気に入った。実際とてつもなく真面目に働いてくれた。六十八才まで十四年間、あの東日本大震災があるまで現役を続けられたのは、朝夫(仮名)の存在があったからこそであった。一般住宅の土台の下に基礎杭を打ち込む仕事だったが、朝夫はわが社の土台を築いてくれた。
その朝夫も約束の四年が間近となっていた。あと半年で退職する。
補充しなくてはならない。そんなときに
「オヤジ、姉さんの旦那の甥でちょっと問題がある奴なんですが、彼を使ってもらえないすか」
と朝夫から切り出された。
「あと半年でおれがびしびし教えます。ただ、本人がその気になるかどうか、オヤジからも話してもらいたいんです」
二十一才だというから仕込みがいはある。早速会うこととなった。下話はしてあったようだ。まずお父さんに会った。
「息子の信一(仮名)なんですが、アスペルガー症候群なんです」
と開口一番。
「なんですか、アスペルなんとかというのは」
とわたし。居間に招じ入れられ説明を聞いた。お母さんも同席なされた。
信一が中学生になった頃から、と父親が話しだしたことは、まさに現代の縮図だった。先代一代で家具屋を始め二代目になっても商売そのものは順調に推移したが、大型店の進出が一家の生活を直撃した。信一が不登校となったのも、夫婦間でいさかいが絶え間なく生じたことにも原因があるらしい。幼少時も友達との交流が不得手だったが、少々吃音があるのでそのためだろうと両親は解釈していた。不登校が長くなり病院の診察も数回にわたりうけた。最初、医師の診断はうつ病だった。
処方された薬はアミノ酸が多く含まれたものだったが、まったく改善されなかった。社会的な関心を放棄してしまい自室に閉じこもり、終日パソコンを相手にするようになってしまった。就職はしたことがない。朝夫の進言もあってわずかな望みを託したのが本音なんです。給料などと大それたことは申しません、とまで言われた。金銭感覚もあやふやで、欲しいものがあると、通販の着払いで買ってしまうということだった。二つ下の妹は高校を出て看護学校で学んでいるが、いっさい不満も漏らさず、ときには信一と話し合っていると言う。妹には心を開いてるらしい。人が壊れる素因はいろいろあることぐらいはわたしも承知しているつもりだったが、大震災でもテレビの映像と現地で直視したことが余りにも想像とかけ離れていたことを体験したばかりのわたしは、気を引き締めた。
ともかく当人と話を、となった。母親が二階に上がった。「しんちゃん開けなさい」と呼びかけている。どうやらここの長男坊主は部屋に内鍵をかけているようだ。「うむ」と思った。しばし時間を要したが開けたようだ。物音は消えた。また時間が過ぎた。父親に促され、階段を上った。朝夫も続いた。
四畳半の部屋はしっちゃかめっちゃかだった。信一は私ら三人をすがめるようにして見たが、すぐに視線をパソコンに戻した。ゲームをしているようだ。父親が話しかけてもやめなかった。
太陽と縁のない暮らしをしてきた信一の顔は、半病人のそれだった。人相は悪くない。それどころか、少年の面影を十二分に宿している。「どん底ではないな」というのが、わたしの第一印象だった。SOSが聞きだせればと思った。
「信一、お父さんが話しているのだからパソコンなんかやめろ、こっちを向け」
朝夫がやや怒気を含めて言った。しぶしぶながらも電源を落とした信一。しかし姿勢はそのままだ。
「朝夫君のほうがわたしらより怖いんです」
父親が補足した。信一はマウスをもてあそんでいるが聞いている。
朝夫も両親も信一の将来を案じている。働くことで打開策の糸口を見出そうとしているのがひしと伝わった。自閉症は、友の子を見て知っていたが、アスペルガーとやらの病は初耳のわたし。不幸なんかではなく不運が信一に取りついてしまっているのではなかろうか、そう思うと少年顔をした信一に好感がもてた。
「ちいっちゃな会社だけど仕事は面白いぞ。地震対策のために土の中に鋼管を打ち込むんだ。ゲームなんかでも検視官が出るのかな、あの仕事と似てなくもないんだ。表面には出ないがすごく重要な役割をするんだ。朝夫ぐらい覚えてくれれば……」
わたしの話の途中で朝夫が継いだ。
「早出残業も入れると四〇万ももらえる。好きなものも買える。これまでもらってばかりだった妹にだって、プレゼントしてやれるぞ。生きることから逃げるのはゲームセットだ。オヤジも何もかも承知で仕事を教えてくれると言ってる。俺も協力する。いっしょに働こう、な」
信一はこのあとも一言も発しない。言葉のキャッチボールができない、と知らされていたが、どうやらわたしの想像を超えていた。現実を受け入れる方策そのものをどこやらかに置き忘れてしまっているのであろう。カイワレ大根を育てるようにはいかんぞと判断したわたしは、
「信一君アドレス教えてくれないか、現場の写真管理で必要にせまられて、おれもパソコンをいじるんだ。初心者もいいとこなんだけど仕事の流れとかの写真を送るからさ、見てみればいい。それにパソコン操作なんかも教えて欲しいんだ」
このわたしの言葉には素直に応じた。アドレスを印刷してくれた。紙片を受け取り、両親、朝夫を促して立ち上がった。
信一が肩で吐息をついた。
「お父さん口幅ったい言い方をしてしまいますが、彼は自分と折り合えないんではないでしょうか。自身と絶交してるとでも言いますか、もどかしがってるようにも見えるんです。わたしが思うには、とにかく外へ出ること、仕事云々とかいうことより興味を示すものは何なのか。これを見つけてやり、そこから次の手を考えるのが順番かなと」
「このような状況になるのはわかっていたんです。あのとおり、話し合おうという気持ちがまったくありませんのでね」
「朝夫、どうだろう。明日からとはいかないだろうが、とにかく毎朝迎えに来てみるというのは」
「オヤジいいんですか、俺はかまわないんですが。使いものになりますかねー」
「いいかい朝夫、これはおれの体験なんだけど、現場作業というものは、気はしがきいて小利口な奴は長続きしないものなんだ。じっくり時をかけて覚えた者のほうが意外と役に立つもんだよ。信一君の場合は自力ではしんどいと思う、周りの者がたすけてやらないとね。スタートでドカ遅れしてしまってるんだから、まず周回を重ねるしかないんじゃないかな」
いずれにしても根気が要る、というのが一致した結論となった。

わたしには同い年のダウン症の従弟がいた。二十二才で自裁してしまったが、原因の一端は私にあった。
伯母には息子が三人、娘が一人いた。ダウン症の従弟は末っ子だった。わたしの家と伯母の家とは貧富の差が著しかった。わたしが物心ついたころから、従弟の遊び相手として伯母の家で寝食をともにするようになった。ほかの従兄姉もわたしをおろそかにはしなかった。昭和二〇年代のこと、当時障害のある子は隠す風潮があった。そのための遊び相手にわたしが選出されたのだ。わたしには上と下に姉兄妹、やがて弟も生まれた。早い話が一人分の食い扶持減らしなのだった。従弟の相手さえしていれば、我が家では食べられないものも食べられた。空腹に脅かされることもなかった。幼児の本能はほぼ満たされた。
わたしは我がままっ子になった。
中学を卒業して就職しても、わたしの役目は解かれることはなかった。だが、彼女ができてからは足を向けなくなった。やがて自立を名目にしてアパートを借りた。伯母が従弟を連れてきた。家賃を払ってやるから同居しろと高飛車に宣告。不承不承に引き受けた。彼女にも知られることとなったが、受け入れてくれた。二年は大過なく過ぎた。職業柄、わたしと彼女は休日が異なった。ある日、部屋の掃除に来た彼女に従弟が抱きついた。伯母に話して引き取ってもらった。以後いろいろな要請があったが、わたしはすべて無視した。もうたくさんだという思いがあってすべて拒絶した。
二十一才で結婚。すぐに長男が生まれた。従弟のことどころではなかった。その結果が従弟の自裁となってしまった。心身ともに居場所をなくし逃げ込める唯一の穴を、わたしは従弟から奪ってしまったのだ。
四〇年来、私はこの業を背負い続けて生きてきた気がする。

従弟から比べたなら、信一は病気などではなかった。わがままな甘ちゃん坊主だとわたしには思えた。写真を送った。メッセージも入れた。返事がくるようになった。やや言葉足らずだがメールは饒舌だった。半月あまりを要したが、毎朝迎えに行く朝夫の熱意に負けたのか、とりあえず現場に出るようになった。千葉や埼玉が多い。流れる景色を一心不乱に眺めた。労働ではなく見学だった。
疲れると、好き勝手にトラックに乗り込み眠った。朝夫はへこたれなかった、わたしは呆気にとられた。驚いた。恐れ入った。持ち分の仕事をこなしながら、三〇才そこそこの朝夫は、辛抱強く信一を自立させようとした。
車に興味を示す信一、免許は持っているがペーパーだ。運転を教えることにした。もちろん貨物車など動かしたことはない。一般道路では危険きわまる。ペーパードライバー用のコースを申し込み、わたしか朝夫が仕事のやりくりをして助手席に乗り、何回も何回も練習させた。正直恐ろしかった。とにかく下手くそだった。ぶきっちょなのだった。日本の免許取得制度を疑った。
仕事にもさしさわりが出る。従業員にも負担をかけた。理解してもらうためにあれこれ方策を立てた。あからさまに嫌悪を示す者もいた。信一が現場に同行するようになって三か月後、辞める者も出てしまった。
「オヤジ、これ以上迷惑かけられない、信一は諦めますよ」
と朝夫も弱音を吐く始末。
「なに言ってんだ、ここで放り出したら元の木阿弥、これまでがすべて無駄になっちまう。朝夫にはへこたれるなんて言葉はないはずだ。韓国人魂はそんなもんじゃないだろう」
プライドの高い民族性を突いて話した。
「だってオヤジ、信一に見習い手当も出してくれてる。それなのに信一は……」
「朝夫、あせるな。おれも経営者のはしくれだ。朝夫が頑張ってくれたからこそ今がある。忘れてはいない。金のことはお父さんから立て替えるからとも言われたが断った。誰だって現場に出てるのに一銭にもならないというんじゃやる気にもならないだろ。投資だよ、投資。それと信一も変化してきてる。朝夫だって分かってるだろ、きっと信一は化ける、大化けするはずだ。そこに期待しよう」
「あいつが不憫でならないんです」
まだ続けようとする朝夫をさえぎり、
「もういい。病気、病気だよ。気長に行こう」
わたしと朝夫は目線を合わせて頷きあった。
無理もない。信一は労働というものを、そこから金を稼ぐということを知らない。仕事のなんたるかということさえ学んでいないのだから、こつこつと学んでもらうしかなかった。現場に出てくるようになっただけでも上等なのだ。青っちろかった肌も日に焼けた。
作業車はわたしが操作する。鍛冶屋は朝夫ともう一人わたしの幼友達のAさん、年はわたしと同年だが酸いも甘いも経てきてるから、すこぶる協力的だった。わたしやAさんが仕事を覚えたころは徒弟制度が色濃く残っていた。手取り足取り教えてくれるなどということはあり得なかった。親方や先輩の仕事ぶりを盗め、だった。朝夫もそうした昔のタイプだからかんしゃくを起こす。朝夫が怒り飛ばすとAさんは、信一を手元に呼び、冗談を交えながら教えてくれた。信一が閉ざしていた心をAさんに開きつつあるのが見てとれた。
下工のBは信一より三つ上だったから、話題はもっとも近い。休み時間に二人で笑いあっている姿も散見できた。Bの提案で分譲地の現場のときは、地内を練習の場にした。これが効果を発揮した。信一も運転することがお気に入りだった。分譲地現場ともなると自分から運転を繰り返した。
やがて半年が過ぎた。朝夫が六か月帰国を延ばすこととなった。信一は知らない。帰国延長の話は仕事が終わったあとに信一も伴って、朝夫の姉さんの店で交わした。
にんにくをたっぷりすり下ろした小皿とともに、カンナの花のように色鮮やかな生レバーが出た。ひと皿ではなく三皿なのがいい。いくら好物でも薄切りレバーが皿に積み重なっていたのでは食傷してしまう。豚足は盛り合わせだった。
「信ちゃんずいぶん会わなかったけど、たくましくなったじゃないの。仕事はどう、おもしろい? 電話でお母さんから聞いてるけど、このころは朝も自分で起きるんだってね。お弁当も残さず食べるって喜んでたわよ」
朝夫の姉がわけ知った言葉をかけた。
信一は初めて食べる生レバーに夢中になっている。叔母の問いかけには答えないが、しっかり聞いていることは確かだ。
「ここはおれのおごりだ、どうだもうひと皿いけるか」
と朝夫。信一は頷いた。
「おごりったって原価だ、なあ姉さん」
信一がくすりと笑った。叔父さんがカウンターの中から信一を見ている。二杯目のマッコリ三人分と一緒にレバ刺しが運ばれた。
「飲みやすいから気をつけろよ、腰をやられるぞ」
現場の朝夫の面影はない。
いとおしい弟を思いやる風情だった。
やや表情を改めて朝夫が話す。
「信ちゃん」
いつもは信一と呼ぶ。
「おれなぁ、目標の貯金もできたから済州島に帰ろうと思ってるんだ。アブジ(父)もにんにくの仕事がきつくなったと言うからな。どうだ、社長の仕事やっていけるか」
思いもよらない話を聞いたという顔をして信一は朝夫を見た。わたしに視線を移した。眼の中心が漂っている。マッコリを飲みレバ刺しを食べ豚足を食べた口が半開きだ。事情を知らない人が見たなら、信一が一世一代のリハビリ中だとは思いもよらない。いっぱしの若者だ。顔がゆがんだ。
「そうか、よし分かった。あと半年延ばそう、オヤジお願いできますか」
と朝夫。なかなか役者だ。わたしを見ながら頬をゆるめた。
実際のところ、信一は頭数に入ってないというのが実情だった。それでも、当初よりわずかだが昇給している。ただしこの昇給分は信一の父親が負担した。わたしがなんと言っても聞き入れてくれなかったからだ。もちろん信一は知らない。朝夫には話してある。
この話し合いは功を奏した。あいかわらず口数は少なく、作業とは関係ない無駄な動きが多い信一だったが、仕事の流れをメモするようになった。ただし執拗に過ぎたが。これまでは関心を示さなかった鍛冶屋仕事にも、朝夫の作業着の袖を引き覚えようとするようになった。気が向くと昼休みでもおかまいなしだった。Bには口頭で自分が納得するまで聞いた。Bも相手になることをいとわなかった。
「オヤジいらないっすよ」
とわたしが別枠で信一の指南料だといって渡した金も、受け取らないBだった。
四人足らずでこなす仕事、それぞれが自分の持ち場を全うしないことには、どうにも捗らないのが零細仕事の現場だ。信一のやる気を見取ったAさんのしごきが開始された。鍛冶屋ひと筋でメシを食ってきた人なのだから、教え方にそつがない。すべてが的確だ。
「分かったのか、分かったら返事をしろ。日本語は知ってるんだろ」
「はい」
とか細かい。
「聞こえねえぞ、腹が減ってんのか」
「ううん、大丈夫」
こんな按配だった。職場の誰もが信一の一挙手一投足に気配りをしてくれる。わたしは全体を眺めるだけで済むようになった。
ある日信一には内緒で、お父さんに現場が見えるところに来てもらった。お母さんも一緒だった。両親は三時間近く息子が働く様子を眺めていた。お母さんがかがみ込んでしまい涙をぬぐっているのを、わたしは見た。

朝夫は延長を五か月で切り上げて、五年ぶりに済州島に帰った。送別会で居酒屋に行った。ピッチをあげて飲んだ信一が声をあげて泣き出した。もろもろの思いが交錯したようだ。朝夫が外へ連れ出したがやがて戻った。朝夫の目も心なしか赤かった。

帰国した朝夫からは何度も携帯に電話があった。念願だった民宿を始めたとの連絡をもらったのは、二年後のことだった。信一は一丁前とはいかないが、モノになりつつある。(注)信一は当社で通算七年働き、後半四年は投資にかなった仕事をこなしてくれた。
「往復の旅費は持つ。小遣いは自分持ちで済州島に行くか?」
そう信一とBに話したら、二人は喜色満面で頷いた。パスポートができた盆休みに、二人は六泊の、初めての海外旅行に行った。

自裁してしまった従弟からも、そして信一からもわたしが教えられたことは、障害があろうとなかろうと、人間関係の構築は真摯な接し方によるということ。これ以外にはない、と信一との日々のなかでさらに教えられた。
現在の日本という国、半世紀前から比べると障害者に対してほんとうに優しい国になった。障害者を人目に晒すまいとするような時代は、過去の遺物としなければならない。障害者も健やかに育った子供にもこうした教育をもっともっと国が率先して行わなければ、本当の意味での先進国とは言えない。いち時期、○○の品格という言葉がもてはやされた。○○に『障害者に対する日本人の』という文字を入れたなら、赤面もせず青ざめもせず直視できる人が、いかほどいるだろうか……。
信一はいい仲間に支えられた。
ラッキーであったとも言える。
自裁してしまった従弟にも顔向けができたと、勝手に思い決めたわたしだが、従弟の心に大やけどをさせてしまった結果には、忸怩たるものが今でもある。従弟も従弟なりに燃え尽きたかったはずだ。
暑い日が連続していた。信一たちが旅に出たあと墓参した。そう遠くない日、約束はできないがそっちに行くから、とだけ、つぶやいたわたしだ。

帰途、奥城と記された立派な墓の松の木から、聞きなれた蝉の鳴く声がしきりだった。

鈴田 浩二 プロフィール

昭和十七年生まれ 無職 神奈川県横浜市在住

受賞のことば

古稀を目前にして自分がこの年になっていることに、常に不協和音があった。なにかかみ合わないものがあった。
体力の衰えは自覚できていた。たとえば片足立ちで下着がすんなり履けなくなりつつあるな、などと。
こんな折りに受賞通知があった。マレが存在した。生きるってこと捨てたもんじゃない、ちょっぴり早めの古稀祝なのだろう、と痛感しています。ありがとうございました。

選評(江草 安彦)

建設会社を営む筆者に発達障害のある青年を雇って欲しいとの依頼が舞い込む。この青年を仕事は面白いぞと、地震対策のために土の中に鋼管を打ち込む仕事にかかわらせる。こうして仕事の厳しさも体験させた。四人足らずの深い人間関係のなかでこなす仕事は、それぞれが自分の持ち場を全うしないことには、仕事が捗らない。こうした経験のなかでそれぞれが成長する。見事な指導法である。筆者は、障害があろうとなかろうと人間関係の構築は真摯な接し方であると思うと言う。まことに名言であり、すばらしい人間愛に満ちた見事なものであった。