第47回NHK障害福祉賞優秀作品「『私は、心が大人になりたい』」〜第2部門〜

著者:伊藤 佳世子(いとう かよこ)千葉県

大学法学部を出て、就職したのは法律事務所。福祉などの言葉とは全く無縁でした。そんな私が、現在、重度障害のある方に対して二十四時間体制で支援することができる訪問介護事業所をつくることになったのは、ある一人の女性との出会いからでした。

みずからの自立のために

平成十八年三月、当時三十三歳だった私は、ある事情で静岡県の漁村から千葉の実家に戻りました。四月からすぐ働くことができる仕事を探し、インターネットで見つけた「国立病院機構の障害者病棟」での介護職員募集に飛びつきました。そこで働けば、国家公務員になれる−−。それは、とても魅力的な条件で、収入も安定し、私一人でも子供二人を育てていけるのではと、希望が持てました。その後、実際に採用が決まった喜びの中、この病院の組織の一人として、よい仕事をしていこうと決意しました。
そんな四月の新人研修最終日のこと。筋ジストロフィー(以下、筋ジスという)病棟に見学に行くことになりました。その時は、けだるい夕方で、四人部屋の病室のガラス越しに、病棟看護師さんの説明を受けながら、ちらりと患者さんたちを見た程度。明日から私が勤めるその病棟には長期療養者が四十人弱おり、その半数以上が人工呼吸器をつけているという説明を聞きました。いかにも病院らしい空間で暮らすその人たちを見たのが、私と難病をもつ方との最初の出会いでした。
中でも、特に気になった患者さんが、私と年齢が二歳しか変わらない大山良子さんです。入院患者さんの中ではわりと元気そうに見えましたが、彼女は八歳からずっと、二十七年間もこの病院で生活しているというのです。私は大山さんが何を考え、どのような思いで病院にいるのか「知りたい、親しくなりたい」と思うようになりました。そうして、数か月かけて彼女にいろいろと話しかけてみたのですが、とおり一遍の話をするだけで、心を開いて思いが語られるようなことはありませんでした。
元来、本や資料を読むことが好きな私は、勤務の合間に、福祉関連や障害学といった分野の本を読みあさり、更に、病棟の患者さんのカルテを端からくまなく見ていきました。そうして、制度の仕組み、神経筋疾患難病やケアのことを学びつつ、一人ひとりの患者さんの生い立ちや病歴を把握していったのです。

病院での日々、募る違和感

病院ではまず看護師さんから仕事を教わることになります。ここで大事なことは、「手早くミスなく仕事をする」ことだと理解しました。病院では崩せないタイムスケジュールがあり、それを狂わさないよう、常に少ない人員で時間との勝負をしているようで、日々の介護はまるで戦場のようでした。手早く介護ができるようになると、スタッフとしては「一人前」なのです。排泄や入浴、食事でさえも、いかに短時間で済ませるかを考えて動いていました。それができることが良いスタッフの条件だと信じるようにもなりました。
この病棟は「排便時間」というのが決まっていて、座薬を入れて、全員が同じ時間帯に部屋のベッド上で排便をするようになっていました。ですから日勤の人は、朝の申し送りの後、端の部屋から順に全員の排便の後始末をして、ズボンを履かせるということから仕事が始まるのでした。はじめてこの業務を担当したときは驚きました。四人部屋でカーテン越しにすぐ隣に他人がいる環境で、毎日同じ時間に排便……私にはとても無理です。
「ここにいる人たちは、このような排泄をしなければならない何か医療的な理由があるのだろう」と考えなくては、毎日こういった介護があることに納得ができませんでした。
大山さんも、病棟の皆と同じように、この排便の方法を納得して受け入れている様子に見えました。また、彼女に関していえば、男性職員からトイレや生理の介助、入浴介助を受けたり、病院職員が介助で失敗したりしても、顔色一つ変えませんでした。
私なら一日たりともできそうもない生活を、ここの病棟の患者さんが続けているのには違和感がありました。患者さんたちに病院生活への思いをいろいろと聞いても、口をつぐんでしまいます。それに、彼らは総じてあまり饒舌(じょうぜつ)ではありませんでした。
勤務に慣れてきたころ、ある患者さんに「手早い介護は怖い」といわれ、私は患者さん側の気持ちを全く考えず、病院側の都合だけを考えて仕事をしてきたことを知るのですが、気づけば、実際の現場は、私がそれまで読んだ福祉の教科書とは違うことばかりで、職員が患者側でなく病院側の都合で動くことが当然の世界でした。

ある時、ナースステーションで個々の患者さんのカルテを読んでいると、不思議なことに気づきました。ほとんどの人のカルテの表紙には緊急時の対応として「気管切開は行わない」等と書いてあります。最初はなんとなく読み流していたカルテでしたが、緊急時の処置がこの通りなら、気管切開をしないことが事前に話し合われていることになります。
また、その紙も随分と古い感じがしたので、意向に変化があるのではと考え、患者さんに気持ちを聞いてみました。すると驚くことに緊急時の取り決めがあること自体を「知らない」、更に、彼らはそもそも直接に病名の告知を受けていないというのです。それは生活も病気も、命のことまでも、患者さん自身が主体的に考えられていないことのように思えました。
「患者さんたちの本心が知りたい」
大体、この人たちは病院でないと本当に生きられないのか、病院の生活に満足し、あえてそこにいるのか。せめて年齢の近い大山さんは一体どう考えているのだろう、その本心を聞いてみたいと思いを馳せてみるけれど、彼女の口からは何も語られない日々が続きました。しかしその間、私の「知りたい」という気持ちは日々募るばかりでした。それは病院で亡くなった祖父から聞くことが出来なかった、患者の気持ちを、代弁して欲しかったのかもしれません。

祖父のこと

私の祖父は『リーダーズ・ダイジェスト』を読む、知的でハイカラな人でした。田舎にいながらもサラリーマンでしたので、退職後、趣味にしていた不器用な畑仕事は、今思い出してもおもしろく、一個の粒しかならないトウモロコシや大きすぎるナスに、私は姉と笑い転げていました。
私が高校生になったころ、一人暮らしになったその祖父が、訪問販売に騙されるようなことがしばしあり、そのうち、家の中でおしっこを漏らしているということがあったようで、やがて、病院に入ったと聞かされました。
数か月後、私がしばらくぶりに会った祖父は、病室の真っ白いシーツのベッドの中に、なぜか手を柵に縛られた状態でいました。まるで人が変わってしまったかのようで、目もよく開かないし、口もきけない状態でしたが、私の言葉は分かるらしく頷いていました。手が縛られている理由は分かりませんでしたが、恐ろしくてそのことは誰にも聞けませんでした。母に何度か、
「祖父はなぜ退院できないのか」
と聞いたことがありましたが、逆に
「長く預かってくれる病院があってよかったのだ」
と答えが返ってきただけでした。
その四年後、祖父は危篤になり、家族が病院へ呼ばれました。私の知っている祖父らしい姿ではありませんでしたが、
「おじいちゃん」
と呼んでみたら、涙を流していました。不思議なことに、ここでも皆が、
「最後まで病院で預かってもらって本当によかった」
というのですが、そこを問うことが、とても恐ろしい気持ちになりました。
その明け方、祖父は亡くなっていったそうでした。“人が死ぬ”というとき、なぜこうして病院で何年も眠らなくてはならないのか、なぜ家で暮らし続けられなかったのか、その時はよく分かりませんでしたが、祖父の死そのものより、病院にいた祖父の姿をみることが悲しかったことを覚えています。
長い間思い出すことがなかった記憶でしたが、介護職の仕事に慣れたころ、不意に祖父のことを思い出しました。この「どうして、祖父は病院でなくてはならなかったのか」ということを考え始めると、止まらなくなるのでした。

なぜ病院でなくてはならないのか

大山さんは千葉県出身で、昭和四十五年七月生まれ。SMA(脊髄性筋萎縮症)という病気をもつ方です。彼女には私のもつような自由は何一つなさそうでした。また、病気の進行の早かった同級生は皆亡くなられており、同じ位の年の友達もほとんどいないようでした。病院内の養護学校高等部を卒業してからも家に帰ることなく、療養暮らしをしてきました。「療養」とはいっても、貧血の薬を飲んでいるだけでした。
その頃私は、重度障害のある方の自立生活についての本をいくつか読んでおり、二十四時間人工呼吸器を装着している人でも、施設や病院ではなく地域で一人暮らしをしているという事例を調べ、彼女も希望すれば病院でない暮らしも可能なはずだと思うようになっていました。
あるとき、病院のリネン庫で大山さんと二人になる機会がありました。
いつも本心のわからない大山さんに対し、
「外にはもっといろいろな自由があるし、重たい障害のある人でも、一人で暮らしている人もいるのに、大山さんはなんで病院なの、ずっと病院に居続けたいの?」
と聞いた私に、
「きっかけがないだけで、みんな病院を出たいのです。私もずっと考えてきました」
ときっぱり答えが返ってきたのです。その時初めて大山さんの本当の思いを聞けたと思い、
「本当なの? 大山さんが本気で病院を出るなら、私は在宅で仕事をしたい」
という言葉が出てきたのです。大山さんは、
「本気です」
とだけ答えてくれました。やがて、私たちは一年半後に病院を出るため準備をする約束をしました。
私はその年の十二月に退職し、大山さんが在宅で生活できるよう、一年かけて事業所を立ち上げる準備を始めました。

大山良子さん自身の言葉

彼女が病院を出る約半年前に、ある縁から淑徳大学で自立生活のための学生ボランティアを募るために学生に向けて話をする機会を得ました。その内容の一部をご紹介します。

私は大山良子です。歳は三十七歳です。クーゲルベルグ・ヴェランダー病という病気で、現在病院で生活をしています。今年で入院生活二十九年目を迎え、人生の約八十%を病院で過ごしているベテラン患者です。
病院でお世話になる患者が、こうして自分の思いや意見を生で語るのは珍しいことだと思います。私は八歳から親元を離れて長い間、病院という狭い空間で暮らしてきました。病院では、朝から晩までタイムスケジュールがあり、平日や休日も関係なく規則正しく進んでいきます。朝食後にトイレを済ませ、車いすに乗れたと思うと昼食で、午後のリハビリを終えると、夕食になり就寝の時間になる。多少の違いはありますが、皆この流れで一日を過ごしています。この流れの波に乗れない人は、嫌われます。トイレの時間を例にすると、私は、大体一日五回排尿します。朝十時の後は午後の十五時三十分までしません。だけども涼しくなると、お昼ごろにたまにしたくなります。病院のお昼の時間帯というのはスタッフも昼食タイムで、対応する人が限られます。そんな状況の中で、いつもしないトイレをお願いすることは日常の流れに反するので、決められた時間外のトイレ介助は『えっ』という顔をされます。女子の排尿介助は時間がかかり、敬遠する気持ちも分かるので、私はおしっこがしたくならないように水分コントロールをしています。時々、自分の膀胱(ぼうこう)にエールを送ることもあります。私たちは日常の流れに背かず、『えっ』という顔をされないように、目立たないように過ごしています。
毎日、病院スタッフは時間に追われています、患者は自由時間に本や新聞を読む、散歩する、売店に行く、絵を描く、ゲームをする等やりたいことも十人十色ですが、何をするにもスタッフにお願いしなくてはできません。趣味的な要望の他にも、入浴も週二回から増やしたい、寝る時にパジャマに着替えたいなど、本当は要望がたくさんあります。けれども病院の人員体制的に叶(かな)えられません。そして要望は、時として我がままと受け止められてしまいます。要望と我がままの境界線はとても難しいし、スタッフの意見を聞いた方が楽なので、私達は何も言いません。それから、病院生活は待ち時間とも付き合わなくてはなりません。起床、整髪、トイレ、お風呂の介助など何事も順番に一人ずつするので、自分の番が来るまで、また、終わってからも次のことをお願いするまで、静かに待ちます。この待ち時間を合計すると、映画が二本くらい見られるかもしれません。気分転換に外出したくても、それには自分でボランティアを探さなければなりませんが、なかなか見つからず、年に数回しか行かれません。私はこんな生活を何の疑問ももたないようにして、三十年近く続けてきたのです。

退院にむけて−−命の責任はだれがとる?

平成二十年三月一日に、私の事業所に、「障害福祉サービス」の事業指定が下りました。そうして準備すること一年半、いよいよ大山さんが退院です。
ところが、あと数日で退院というときに、私たちは病院からも在宅医療の関係者からも
「在宅で、命の責任は誰がとるのか? はっきりしてほしい」
と聞かれました。私の
「それはご本人の責任だと思います」
との答えに、
「引き受ける事業所として、いい加減だ」
との言葉も聞かれました。そんなことから、彼女の退院が周囲から応援されてないように感じました。
そして、四月十六日、二十九年の病院生活に終止符を打ち、大山さんが退院する日を迎えました。前夜は寝付くことができず、「大山さんの生活保護は下りるのか、障害福祉サービスは十分に確保できるのか」、とても心配でした。何度問い合わせても福祉事務所からは、
「生活保護の申請が下りるか否かは、事前にお知らせできません」
との回答しかありません。また、一か月前から障害福祉課に介護給付の申請をして、必要量が出るのかの問いには、
「退院し、審査会を開きそこで決定するまでは分かりません」
というのです。とにかく、病院を退院しなければ、生活保護も障害福祉サービスの給付量も決定できないそうで、経済的にも介護体制にも見通しのある調整はできませんでした。そのような状態から、病院や在宅医療側の関係者が、安易な退院に反対することが理解できました。
それでも、私は初めて本心を明かしてくれた大山さんの思いを叶えたい、この病棟にいる人たちがどうしても病院で生活しなくてはならないのか、という疑問へ挑戦したかったのです。
もし、何事もうまくいかない時には、とりあえず私の家で大山さんを引き取り、それらの決定を待とうと決意しました。そういった考えは強引だったかもしれませんが、誰かがそうしなければ彼女は病院から出ることができないのです。病院や地域の支援者たちには、「病院に暮らしていれば安定した生活が送れるのに、なぜ退院したいのか?」という考えが強くありました。「長期療養者は、自己判断や責任をもてないのに、大山さんはそそのかされている」との非難もありました。
それでも私には、病院でなくても生活ができるかどうかに挑むことは、他の多くの患者さんのためにも、とても大切なことのように思えました。

「私は、心が大人になりたい」

退院するとき、大山さんと私はこれからの不安について口にすることはありませんでした。ちょうどその日は病棟のお昼ごはんのメニューが麺の日で、「引っ越しそばになった」とほほ笑む彼女と病棟のナースステーションで退院の挨拶をし、私たち二人は長い廊下を歩いて玄関に向かいました。私は両手いっぱいに荷物を抱え、隣で大山さんは電動車いすを走らせ、無言のまま玄関にたどり着きました。
なんだか、悪いことでもしているかのような後ろめたさでいっぱいの退院でした。
車に乗るとき、いつも感情を出さない大山さんの目から涙がポロリと落ちてきました。私にはその涙が、喜びなのか、不安なのかを怖くて聞くことはできず、そういう大山さんの顔を見れば見るほど、私の胃は痛みました。病院で一生暮らすのをやめるには、たとえ、失敗してもチャレンジしていかなければなりません。これから二人で頑張ればなんとかなると自分に言い聞かせ、不安いっぱいの中、でも、きっと大丈夫だと信じて、見送りにきてくれた病棟の友達に手を振り、病院を後にしました。
最初に役所に行き、在宅サービスや必要な支援を申請して、夕方には家に着きました。夕食のリクエストを聞くと、「お寿司」でした。病院食では生ものは出されなかったので、めったに口にすることはできなかっただろうな……と思いながら、私は急いでお寿司を買いに行きました。
初めての夜は不安だらけでしたが、一日、二日と、ゆっくりと確実に毎日が進んでいき、大山さんは地域で生活することに少しずつなじんでいきました。
彼女は、今日着る洋服を選ぶこと、毎日の食事を考えること、お金の使い方など日常をつくる全てを決めること、そして何より、介助者に心を開いて一人一人と人間関係をつくっていくことが大変そうでした。今まで病院では、食事や生活スケジュールも決められていて、決まった時間に決まった介助を受けられていたのに、これからは自分で考えなくてはなりません。
病院を出てから二週間後、行政やサービス担当者が集まり、彼女のためのケア会議がありました。その時の大山さんからの言葉の抜粋です。

病院にいたころ、自分の病気は進行が遅いため死ぬまで何十年も病院で暮らさなくてはならないが、私は一生自分らしく生きられないのだろうか? と考えていました。
患者も『したい事』『見たい物』がたくさんあり、彩り豊かに生活したいのです。喜びはもちろんですが、痛い失敗や苦い思いも経験し、自分らしく生きたい。これらを実現させるには、病院にいては無理だったのです。病院にいれば、生活の不安や危険なことはありません。「ならばそこが一番なのでは?」と思う人がいるでしょう。
でも、私は、心が大人になりたい。小さいころから病院にいると患者という役割しかなく、考えも幼く、いくつになっても子供扱いされてしまいます。それに甘えてしまえば楽ですが、時々そんな自分が悲しくなります。私という存在が、そこに無いからです。自立をして年相応の経験がしたいというより、経験しなくてはならないと思っています。私は、患者という役割だけの無色透明の男でも女でもない人でなく、オリジナルの『大山良子』になりたい。実家に帰り生活をする手段もありますが、親が高齢で負担が大き過ぎます。そこで私は地域でアパートを借りて一人で生活することを決めました。これが、私のはじめての人生の決断です。

ともに生きる隣人として

あれから、四年三か月が経ちます。最初のころ、大山さんは何をするにもアドバイスがなくてはならず、町を歩いていても見た目が幼く子供と間違えられていましたが、今の彼女は独り暮らしの女性としての貫禄が出てきました。おしゃれ好きで、散歩と買い物と絵を描くことが趣味です。年に何度か旅行を企画し、昨年は札幌、今年は京都へ行きました。更にNPOをつくり、同じように地域で生活したい障害のある人の支援やヘルパー養成をしています。
いま、彼女は講演などで
「病院は家ではありません。どんな患者も病院に長くいたくありません。長期療養して地域に出ると、大変な苦労があるので、できるだけ長期療養はさせないようにしなくてはなりません」
と発言します。
退院から三年半が過ぎ、入院していた病院の相談員の方が初めて訪問してくれました。
「病院を出て、頑張りましたね。やはり地域生活のほうが生き生きしているね。病院も地域移行への考えが変わりましたよ」
といってくれました。
その言葉に、彼女の退院の決意は間違いではなかったと確信できました。そして今では、彼女は私の「良き隣人」となり生活を続けています。

伊藤 佳世子 プロフィール

昭和四十七年生まれ ヘルパー事業所管理者 千葉県千葉市在住

受賞のことば

受賞のお知らせをいただき、大山さんはもとより、スタッフや関わって下さっている周囲の多くの方々と喜びを共にできたことを深く感謝しております。この賞を通じ、医療の安全だけが生活すべてを支配するのではなく、私たち一人一人がどう生きるかを考えること、そして、支援者が患者さんの意向に沿ったケアを行う勇気に、後押しをいただけたと思っております。
また、この作品が、病院で長期療養されている方の生き方を考えるための一助になることを切に願います。ありがとうございました。

選評(柳田 邦男)

八歳の時から二十七年も入院していた難病の大山良子さんから、沈黙を破って心の声を聞き出した情景と大山さんの言葉が、私の胸にどすんと飛びこんできました。大山さん一人のために受け入れの事業所を立ち上げた伊藤さんの決断も凄いです。病院を出てからのケア会議での大山さんの言葉は、人間の尊厳と人間が他の誰でもない自分として生きる意味とを、みごとに語っています。伊藤さんと大山さんの二人三脚の行動は、一人だけの自立の物語で終らず、地域で生活したい障がい者のための支援体制作りや病院の地域移行への考えの変化までもたらしたのですから、この実践報告はこれから広く影響を与えるでしょう。