第46回NHK障害福祉賞優秀作品「自画自賛〜子ども達と支えてくださった皆様へ感謝の気持ちをこめて…JAM十一年の歩み〜」藤尾 さおり 〜第2部門〜

著者:藤尾 さおり (ふじお さおり)兵庫県

はじめに

「JAM(発達に気がかりのある子をもつ親と子とサポートの会)」は、この夏でまる十一年が経ちます。「JAMがなかったらどうなってただろう……」とふと考えることがあります。想像もつかないけれど、きっと私は今のように元気になれなかったかもしれないし、もっとつらい日を過ごしていたかもしれない。出会えなかった人もたくさんいるだろうし、たくさんの方々と今のような関係も築けなかっただろう。もしかしたら、数年前に変わった制度も変わってないかもしれないし、今では頻繁にお世話になっている子育てサポートの事業も始まってなかったかもしれない。そのくらい、JAMは私の生活を変えてくれました。この十一年間のJAMの歩みを振り返り、みんなに感謝を伝えたい。そして、小さな力でもみんなが集まれば奇跡のような大きな力が出るということと、誰でもみんなにその力があるということを知ってもらいたい。そしていつか、どこでどんな子が生まれても、必要な情報や必要な支援が簡単に受けられて、お母さんお父さんもすぐに子どものことをありのまま受け止められて、みんなが暮らしやすい世の中になってほしい……。そんな願いと心を込めて……。

長男が生まれて

私の長男は、知的障害を伴う自閉症で、特別支援学校中学部の二年生です。助産院で何の問題もなく出産し、よく泣く子ではあったものの、一歳前までは発達も気になりませんでした。一歳過ぎ頃から長男は、だんだん泣かない笑わない、目も合わせない、抱いてもすぐすり抜けて行ってしまう、呼んでも振り向かない子になっていました。助産師の私は、「もしかして自閉症?」と頭をよぎり、教科書を引っ張り出して、自閉症の項目を見て、次々に当てはまることを確認しても、「いいや、そんなはずはない!」と教科書を閉じ、現実を受け止められずにいました。一歳過ぎの子は、お母さんが大好きな時期なはずなのに、私を全く無視する長男。それどころか、関わろうとすればするほど、どんどん逃げられる。「私はこの子に嫌われている」、そう思って疑いませんでした。
名前を呼ぶ度に無視され、抱っこしようとしても逃げられ、遊ぼうとしても手で払いのけられしているうちに、毎回傷ついていた私はだんだん無視されるのが怖くなり、もうこれ以上傷つきたくなくて、長男に声さえもかけられなくなっていきました。「私の育て方が間違っていたんだろうか?」「この子はやっぱり自閉症なのだろうか?」 自責と不安におしつぶされそうになりながら、自分の安心できる言葉を探すために育児書を読んだり、まだつながったばかりのインターネットで調べる毎日でした。自分で自分を責めている時は、誰かの何気ない言葉が、壊れそうな心に突き刺さりました。
「話しかけてあげてる?」
これ以上ないくらい妊娠中から話しかけてきたのに、喃語さえも出ず、指さしもしない長男。これ以上どう話しかけろっていうの? こんなに話しかけていたのに、まだ足りなかったっていうの? やっぱり私のせいなの? と頭を渦巻き、さらに自分を追い詰めていきました。
何人もの人が「比べちゃだめよ」と言ってくれましたが、あまりにも言われ過ぎて、比べたら私が傷つくから? 比べてこの子が劣っていると思うからそんなことを言うの? とだんだん卑屈になっていきました。
そんな日々の中、一歳四か月の時に思い切ってかけた育児相談の電話。そこは、乳児院でした。ゆっくり話を聴いてくれて、言ってくれた言葉
「お母さん、今までよくがんばったね」
その一言で緊張の糸が切れ、受話器を手に号泣してしまいました。そう、私、今までがんばっていた……。そして「一度遊びにおいで」と誘ってくださいました。後日、とても優しく院内を案内してくださって、いろいろお話でき、少し楽になって帰ったことを覚えています。さらに後日電話をしてきてくれて、心理の先生が毎月来ているから、よかったら来ないかと誘ってくださいました。そして心理の先生に長男を初めて診てもらった時、先生は私にとても気を遣ってくださりながら、慎重に言葉を選び
「問題のある可能性がある。だけど、それはお母さんのせいじゃない」
とはっきり言ってくださったのです。私のせいじゃなかった。専門家の先生のその一言が、次の日から私の生活を一変させたのです。
「ゆっくり高嶺の花をおとすように、じっくり関わっていくこと」「お母さんが傷つく必要はないこと」を丁寧に教えてくださって、長男の好きな物で遊ぶということを教えてくれました。当時長男は、タイヤを回すのが大好きでした。車を走らせて遊んで見せても、すぐに裏返してタイヤを回す。ベビーラックのタイヤを回す。おもちゃをおもちゃらしく遊んでくれないので、おもちゃで「ちゃんと」遊んでほしかった私は、いろんなおもちゃを提案しては、手で払いのけられてまた傷ついていました。先生の言葉通り、ベビーラックのタイヤを回している時に、隣のタイヤを回してみました。すると私の顔を見て、目がパチンと合いました。「同じ趣味の人?」 そう言っているような長男の目が私をとらえました。なんだか初めて心が通ったような、そんな瞬間でした。それからタイヤにシールを貼ったりして、一緒に回して遊んで、時々私の好みのおもちゃも提案しながら、少しずつ少しずつ一緒に遊べるようになりました。
心理の先生にもう一つ言われたことがありました。
「一歳六か月健診の時に、自分から引っかかりなさい」
と。できないことだらけだし、正直健診に行くのが怖かったのですが、その一言で考え方も変わって、健診の時に初めの問診で、心配なことをお話しました。そうしたら保健師さんは、形式的な質問は抜きにして、経過を聴いてくださって、とても親切に対応してくださいました。
区が主催する親子の集まりにも参加し、その後療育センターの「グループ療育」に週一回親子で通うようになりました。かといって、まだまだ受け止められるわけではなく、明日普通になるかもしれない思いもぬぐえなかったし、いつか追いつくかもと思っていました。「様子をみましょう」と言われ、いつまで様子をみるのか不安になったり、様子をみながら何かできることはないかと必死に情報を探したり、でも使える身近な情報はほとんどなくて、今までにもきっとうちの子みたいな子がいたはずなのに、その子はどういう経過をたどって、どうしているのか、いったいどうしたらいいのか、全くわからない状態でした。ただでさえ、心が折れそうなのを必死に奮い立たせて生活しているのに、そんな時に情報を集めたりするのは本当に大変でした。やっぱり障害なのかもと思いながらも、いきなり障害児関係の団体は敷居が高く、障害でないかもしれない思いもぬぐいきれず、そこの門はたたけませんでした。かといって、長男のためにと、児童館や公園に連れて行っては、長男を追いかけるだけで終わってしまったり、他のお母さんとお話さえできないし、他の同年代のお子さんとの違いを感じてしまい、また落ち込んで帰る。でもこれではいけないと、また自分を必死に奮い立たせて、遊びに出かけて、また肩を落として帰る日々の繰り返しでした。
「大丈夫! きっと追いつく!」と前向きになる日もあれば、「やっぱりダメ……。この子の将来はどうなるんだろう? 結婚は?」とまだ一歳の子を前にして、先の先のことまで不安になって、落ち込んでしまう日もあり、気持ちの浮き沈みに疲れていきました。

JAM発足のきっかけ

そんな中、療育センターで知り合った、同じような子をもつお母さん同士でお話していた時に、「そうそう」「うちも一緒」「わかるわかる」、そんな話がいっぱいで、それだけで気持ちが楽になるのを感じました。
「こんな場所っているよね」
一人のお母さんがそう言った時、私もそう感じました。同じような子をもつ親同士でしゃべれる場を作りたい、いろんな情報を集めて、ただでさえしんどい時期に簡単に使える情報を提供できたり、これからもきっと生まれてくる同じような子もつながっていけるように、縦のつながりも横のつながりも作っていきたい、障害のある子だけでなく、発達に気がかりのある子という枠組みで、障害かどうかはっきりしない段階から気軽に集える場を作りたいと考えました。しかし、お金もないし、場所もないので、どうしたらいいかと思っていた時に、たまたま私が参加していた大学の子育ての公開講座の先生に、相談したところ、
「ぜひ、やりなさい! 協力するから!」
と即答で、
「いや、でも先生、場所もお金もないし……」
と言うと、
「そんなん、ここを使ったらいいのよ!」
と全面的に協力してくださるということになり、その場で
「いつにする?」
と手帳を出して見始める先生。あまりの急展開に、オロオロしながらも、
「え? じゃあこの日に……」
ということで、先に日にちと時間と場所が決まってしまいました。そこからが大変です。先に実施が決まってしまい、うれしいやら慌てるやらで、一緒にやろうと決めたお母さんと二人で準備を始めました。どうなるのかと不安な反面、気持ちはどきどきワクワクしていました。

準備と始まりの日

サークルだし、まず名前を考えないと、と思い、子ども達のゆっくりな発達を考えた時、かたつむりのイメージがわきました。大好きだった「ジャム・ザ・ハウスネイル(かたつむりのような生きものが主人公のアニメ)」のエンディングテーマの「僕でありたい」、その曲を聴く度に私は感動し涙が込み上げていました。その短い歌詞の中に、この子はこの子でいいんだ、自分は自分でいいんだというメッセージが込められているような気がして、この「全身全霊僕でありたい」ということを大切にしたいと考え、そこから「JAM(ジャム)」という名前をいただきました。
初日はまず、ゆっくり親同士話ができる場にしようと思い、子どもと一緒だとゆっくり話もできないので、託児をお願いしたいと考え、私の母(看護師)にも協力してもらい、託児のボランティアさんを探しました。協力してくださった大学の先生も学生さんに声をかけてくださったり、子ども会の友人や、看護師さんや、私達の友人も子連れで託児の協力をしてくれたり、たくさんの人が集まりました。参加者はグループ療育に通うお母さん方に声をかけようとチラシを作り、各曜日に説明しながら手渡しで配っていきました。
そして、二〇〇〇年八月、第一回目のJAMが開催できました。参加者九組で子どもが十三人。子どもと離れられる時間がもて、自己紹介と今までの経過を一人一人話していきました。同じような経験や思いに共感し、聴くも涙、語るも涙でした。だけど、涙の中にも笑いがあり、暗い雰囲気ではなく、今まで溜めこんでいた涙がいっぱい流せて、とてもさわやかな気持ちになり、自分だけじゃなかったんだと、本当に心強く感じた瞬間でもありました。こんな場所って大事だという思いがさらに強くなりました。

みんなで作っていくサークル

初回が終わり、続けていきたい思いを強めた私たちでしたが、二人でやっていくには無理があるので、参加してくださった人、一人一人に電話をかけ、協力してくれないかとお願いをしていきました。今となっては、思い出すだけで吹き出してしまいそうな敬語で、「一緒に手伝ってくださいませんか?」「私でいいんですか?」そんなやりとりがあって、何人かのお母さんが協力してくれることになりました。みんな子育てしながらなので、無理なくできる人ができる範囲ですることを大切にしながら、JAMの基盤を作っていきました。会則を作り、話し合いを繰り返しながら、意思統一をしていきました。話し合いと言っても、子連れで誰かの家に集まって、おしゃべりしながらお菓子も食べながらの会議です。「こないださ?……」「うちの子さ?……」などなど、話はすぐにそれておしゃべりに花が咲き、本題はなかなか決まらない状態でしたが、それがとても楽しくて、スタッフ会議自体が癒しの場であり、悩み相談の場でした。そして一緒にサークルを作りながら、絆も深まっていきました。

JAMの思いと活動

子ども自身が悩まないうちは、親の心の問題だから、「まず親が精神的に楽になれるように」ということを第一の目的にしました。そして、二つ目には「その親子がイキイキと楽しく遊ぶ」、三つ目には「どんな子が生まれても生きていきやすい地域社会をつくる」ことを目的としました。そして、それぞれを尊重することも大切に考え、それぞれの環境や考え方、子どもの状況、みんな違うんだから、みんなで同じ方向へ向かうのではなく、それぞれがそれぞれの道を、自信をもって歩んでいけることと、「この子でいい」「私でいい」そして「この子自身も自分でいい」とみんなが自分を誇れるようになることを大切にしていきました。自分に余裕がないと、人のことがうらやましく思えたり、簡単に障害の重い軽いで、いい悪いを判断しがちになってしまうことがあります。だけど、それぞれに思いはあって、それぞれならではの大変さがあり、みんなが最善をつくしています。いろんなお母さんのお話を聴くことで、それぞれの立場が理解でき、それぞれの大変さも感じることができ、みんなの経験を共有することが、私たちそれぞれの糧となっていきました。話し合いの締めには、協力してくださった大学の先生の言葉が響き、それによってどんどん自信がついていったように思います。
そんな中、話し合いで癒された私たちはどんどんやりたいことが出てきて、なかなか一般の親子遊びにも参加しにくかったので、我が子が参加できるような企画を考え、小麦粉粘土やボディペインティング、夏祭りにクリスマス会も開催しました。講演会や勉強会、会報の発行など、活動もどんどん拡がり、人の輪もどんどん拡がっていきました。
いろんなことを実現していく中で、JAMのみんなの口癖のようになった「私達ってすごいよね?」。いつも自画自賛して笑えるようになっていきました。日本の文化には謙遜が美徳な部分がありますが、自尊心ってすごく大切で、その気持ちが自分を元気にしてくれるし、自分を大切にできるような気がします。私が私を大切に思えるからこそ、子どものことや、他の家族のことや先生やサポートしてくださる人も大切に思える。そんな気がしてならないのです。

私たちだからこそできるボランティア 〜更なる展開と夢の実現〜

それぞれの話を聴きながら、涙したり笑ったり、それだけで癒されるひと時でしたが、JAMを単なる当事者や保護者だけが集まる自助サークルにはしたくありませんでした。サポートしたい人も集まり、しんどい時期を過ぎた人が今度はサポートする側に回っていくようにしたかったのです。私たちだからこそわかることがある、知っている口コミ情報がある、共感できることがある。私たちだからこそできるボランティアの輪を拡げていきたかったのです。十一年が経ち、二歳だった子が中学二年生になりました。今また一、二歳のお子さんを連れて、お母さんが訪ねて来られます。「うちの子はあれもできない、これもできない」と泣いてばかりいた私たちが相談される側になっています。私は本当に毎日泣いてばかりいて、助産師なのに障害のある長男を受け止められないと自分を責め、明るい先輩達を見ては、「私は絶対あんな風になれない」と思いこんでいたのに、いつの間にか、日々いろいろ大変なこともありながらも、こうして長男にも感謝し、心穏やかに過ごせるのは、本当にJAMのお母さん達、子ども達、支えてくださった方達のおかげだなと思います。みんなで協力すれば、小さな力で大きなことができることを、この十一年間でじわじわ実感してきました。
JAMのつながりが拡がっていく中で、お母さん同士の輪も広がり、いろんなニーズを感じてきました。子どもが小学校にあがり、学童保育が三年生までしか利用できなくて、働くお母さんにとっては、大きな問題になっていました。そこで、障害者地域生活支援センターの方に協力していただき、JAMとは別に「北区障害児放課後支援委員会」が新たに発足しました。この会は、地域で具体的に障害のある子のために何が必要かを考え、動いていく会です。その会で北区の特別支援学校と特別支援学級の保護者対象にアンケートを実施しました。そのアンケートを実施するにあたり、障害者地域生活支援センターの方と、校長会の担当の校長先生に協力のお願いにあがりました。きっと私達だけでは、校長先生もどこのどんな保護者が何をしに来たのか不安に思われたと思いますが、神戸市から委託を受けているセンターの後押しがあって、スムーズに受け入れてくださいました。
そのアンケート結果を受けて、放課後をどうするか考え、ただそれを訴えていくだけではなく、自分達で何ができるのかを模索し、放課後に子どもと一緒に集まるようになりました。そんな中、それを知った大学の先生が学生の実習として、子ども達と遊ばせてほしいと言ってきてくださいました。そして何度か学生さんと遊ぶこともできました。
また、神戸市の自立支援課の方とお話をする機会がもてることになりました。そこから、アンケートの協力をしてほしいと依頼があり、協力をしたところ、神戸市のガイドヘルプサービスは療育手帳のAの人しか使えなかったのが、B1、B2の人も使えるようになりました。また、地域の事業所の人とも話す機会が持て、私達のニーズをお話したら、「事業として手をあげましょう」と言ってくださり、放課後に障害児を預かってくれるところがオープンしました。どんどん夢が叶っていき、驚きと喜びでいっぱいでした。 放課後の問題が解決した私達は、会の名前を「北区障害児地域生活支援委員会」に変更し、障害のある子ども達の生活全般のニーズを拾い、検討していく会になりました。そこからまたさらに、昨年、「専攻科をつくる会」が新たに発足、障害のある子が高校卒業後に学べる大学のような場をつくるために動き始めました。そして実際に今年の春、私達の意見も盛り込んでくださった、学べる作業所が神戸に開所し、さらに夢の実現に近づくことができました。
長年活動を続けていく中で、信用も得られ、区役所の保健福祉部の方がJAMを紹介してくださったり、自立支援協議会と一緒に講演会を主催させていただくこともできるようになりました。十一年前には想像もしなかった展開に感謝し、私がこんな風になれた恩返しとして、次世代のお母さんにもつなげていきたいなと思っています。そしてきっと同じような思いで、他の地域でも活動されている方もおられると思います。サークル活動というと大変そうに感じる方もおられるかもしれませんが、決してそうではなく、得られるものも大きいし、みんなで協力すれば、小さな力で大きなことができてしまうのです。そんな奇跡を信じて、もっともっといろんな地域で、障害かどうかわからない段階でのサポートが受けられたり、診断を受けたばかりの人が少しでも早く楽になれたり情報がもらえたりする場所ができたり、行政とタイアップして一緒に子ども達や子育て支援のために何かできたらいいなと思います。そして子ども達がもたらしてくれた素晴らしい出会いと気づきがどんどん拡がって、どこにどんな子が生まれても、動じることなくすぐに受け止め、自信をもって子育てしていけるような環境が当たり前の世の中になってほしいなと思っています。いつか、JAMやそういった会がなくてもいいような日本になってほしいなと思いますが、それまではぼちぼちとみんなで活動を楽しみながらがんばっていきたいです。



藤尾 さおり プロフィール

昭和四十六年生まれ 主婦 兵庫県神戸市在住



受賞のことば(藤尾 さおり)

この賞は、私一人ではなく、JAMのスタッフやメンバー、そして支えてくださった方々の、この十一年間の積み重ねでいただけたものだと思っています。「大切なこと」を教えてくれ、「宝物」をたくさんもたらしてくれた長男タケルに心から感謝しています。JAMの活動や、どのお母さんもどんな子ども達もひとりひとりがすごい力を持っていることを全国の皆様に伝える機会をいただけたことを本当にうれしく思っています。ありがとうございます。



選評(鈴木 ひとみ)

障害のある子どもの福祉・教育の戦後の発展の中で、まず親が先頭に立って地域の支援者と力を合わせて立ち上がることが、やがて地方自治体、ひいては国を動かすことにつながることを実感してきましたが、JAMの活動は、まさにそのことを裏付ける貴重な活動だったと思います。また、教育相談に携わる臨床家として、「他の子どもと比べない」といった助言が、時には母親の心を傷つけることがあるなど、多くのことを教えられました。