第46回NHK障害福祉賞矢野賞作品「私は定めに生きる」伊藤 佳子 〜第1部門〜

著者:伊藤 佳子 (いとう よしこ)埼玉県

私は体幹機能障害一級の手帳を交附されている。
健康な体で昭和四十年、二十五歳になったばかりの六月に結婚した。六月の花嫁はジューン・ブライドと特別にいわれる。もっとも幸せな花嫁らしい。
一男二女の子供を授かった。どういう訳か十か月間お腹に入れておくのが大変で、一世一代の大仕事だった。案ずるより産むが易しで、私は妻から三人の子の母親になる事が出来た。
子供の成長に伴なって楽しい頃であった。私が四十歳になった時に、腰が何となくだるく感じるようになった。腰の何処が痛いという訳ではないのに、ふっと足に脱力感があり、ちょっとした物につまづくようになった。私は軽い気持ちで近くの医院に受診をしたが私のX線写真を見ながら暫くの間、沈黙が続いた。先生は椅子の向きを私のほうに変え、「椎間板ヘルニア」といわれた。疲れた位にしか思っていなかった私には青天の霹靂であった。他人事のように思っていたが、先生のいわれる通り確実に自分事となった。次第に私の腰は痛み始め、とうとう、私の腰は悲鳴をあげる事となってしまった。
都内の某病院に緊急入院し手術を受けた。今までに手術の経験は学生時代に受けた盲腸の手術だけで、お産も自然分娩だった。二週間位で退院したが今度は違った痛みが出て来た。私は一か月余りで再び逆戻りをしてしまった。脊柱を固定する手術を受け、最初の手術と違い、帝王切開の様にお腹を大きく切り、腸骨の一部を切り取って前回手術した所に移植した。一か月程度の入院予定であった。約束の一か月入院もあと数日しかないのにちっとも調子良くならなかった。調子が良くならないのは、移植した筈の骨が炎症を起こし、溶けていたのだった。先生達にも私にとっても、とんだハプニングだった。珍しいケースともいわれた。
子供の夏休み中に退院出来るどころか、私の人生が翻弄されることになった。夢にも思わない闘病生活が始まったのだ。
亀の甲羅の様なギブスベッドで起き上がる事も横になる事も出来ず、古い病室の天井の染みを見つめるだけだった。
四人の整形外科の先生達は次第に症状が重くなっていく一人の患者に全力投球され、本当に頭を悩まされたと思う。四、五時間掛かる手術を一年半に七回受けた。次第におへその辺りから下半身が自分の体でありながら自分の体ではなくなって来た。下半身麻痺を起こしていたのである。トイレタイムでもないのにパジャマのズボンが濡れているのに気が付いた時はとてもショックだった。看護婦(当時)さんに取り替えてもらいながら涙が出て来て仕方がなかった。褥創が出来てもなかなか治らなかった。突然に襲って来る激痛に声を上げて泣く事もあった。それにはモルヒネ系の注射を打つ事しかなかった。この注射は常時使う事は出来なかったが、打つと今までの痛みはたちまちに何処かに逃げて行った。
私の病状にこんなにも先生方が治療に力を注いでいるのだから、これは一過性のものだと勝手に私は決め込んでいた。後でわかった事だが、夫には私の今までの経緯と今後の事を主治医の先生は伝えてあったのだ。三人の子の出産も大きな原因らしかった。やはり私にとって出産は一世一代の大仕事だったのだ。もう三人も子供を授かっていたのに、先生に
「この手術をしたら、もう子供を産む事は出来ません」
といわれた時は、女として何か哀しい気がした。私が再び元気になる事を信じ切っているので、希望を消す事は辛くて夫もとても言う事は出来なかったのだろう。
入院した時には、末っ子の二女は小学二年生であった。まだ母恋しい頃である。学校から急いで帰ると、地下鉄の駅を四つも乗って私の元へ来ては、枕元で
「ママ、早く帰って来て、いつ帰って来るの、もう待ちくたびれた」
と、いわれるのが身を切られるように辛く、可哀想でならなかった。
いくら呑気な私も、後から入院して来る患者さん達が、みんな元気に退院していくのを見送る度に自分の体に不安と焦りを持ち始め、とうとう酷いストレス潰瘍にまでなり吐血まで起こしてしまい、主治医の先生の判断で、同僚の先生がおられる国立の脊髄損傷専門病院へと転院した。最初の病院には寝たきり状態で三年半入院していた。
転院した病院では今までに見た事のない光景に出会った。病室も前の病院より多かったし、廊下には車椅子がお行儀よく病室の端から端まで並んで置かれ、病院関係者以外に歩いている者は誰一人としていなかった。
私はここで今の自分の体の事を思い知らされた。寝たきりの体であっても一般病院から来た私は、そう簡単には障害者の中には踏み込めなかった。
「今から貴女は障害者の仲間です。わかりましたか」
といわれても
「はい、そうですか」
と、心の準備もない私に答えられる訳がなかった。三年半に渡る私の生活の場はベッドの上だけだったので、この季節に桜の花が院内の庭に誇らしげに咲いているのが、せめてもの私の慰めであった。
ここで、やっと背もたれの大きな車椅子に乗って身を起こす事が出来、翌日からは新たな検査と同時に厳しいリハビリ訓練が始まった。
麻痺した下半身の代わりに手に筋力をつける事。そして泌尿器科の先生からは厳しい膀胱訓練が始まった。麻痺を起こしている障害者にとって排泄がいかに困難か、健常者には想像もつかないと思う。褥創を作らない事も大原則である。朝、顔を鏡に見る前にお尻を見なさいといわれている。
障害者の中には私のように病気でなった者、事故でなった者と様々であった。どっちが原因で障害者になったとしても、寝る時以外はトレーナーか他の服に着替えなければいけなかった。誰もが障害者になった事で自暴自棄になりがちなので、規律の中で生活をしないと社会復帰が出来なくなるからだ。刑務所の中の囚人と同じである。心理学の先生もつき、今では良く使われる言葉であるが、心のケアも行なわれた。
この病院での種々の検査でも原因が良くわからず、分かっている事は進行はしても決して良くはならない。しかも、リハビリには一年も二年も掛かるといわれた。
東京都下にあるこの病院で郭公の鳴くのを初めて聞いた。
私は夫と相談し、一旦、退院の形を取り、最初に受診した近くの先生の紹介で、今度は神奈川県総合リハビリセンターへと再転院した。入院当日、車の中から小川とも用水路ともとれる水の流れにあひるが二羽泳いでいるのを見た時は、私は都内のど真ん中の病院から都落ちかと思った。二転、三転は私の病状と同じ事なのだ。のどかに泳いでいるあひるが羨ましかった。
このリハビリセンターは山間に建てられ、当時は東洋一といわれた。生まれも育ちも神奈川県の私は、不安よりとても懐かしささえ憶えた。
ここでも、病気の為、事故の為のリハビリの患者さんばかりであった。何故かみんなとっても明るく、二つの病院でもそうだったが、看護婦さん、リハビリの先生達も時には厳しかったが優しく励ましてくれた。再々、種々の検査を行なったが、何も手をつける事は出来なかった。ここを退院する時は障害者として今までと違った社会の中に帰る事である。山間のアップ、ダウンを利用した外での車椅子訓練は、若い人と一緒なのでついて行くのに大変だった。大半の人がバイク事故だった。リハビリセンター内は快適であったが、そこの場だけであり、退院までには外泊を何度も繰り返すが、障害者を受け入れるには何もかも健常者が主体となっている。
いよいよ退院の日が決まった。主治医の先生は
「原因もわからず障害を持った事は非常に気の毒だが、今までの事は忘れましょう。福祉の事をもっと勉強して、社会復帰の一歩を踏み出して下さい。貴女なら出来る」
と、私の手を強く握り、
「頑張りましょう」
と付け加えた。不安な気持ちで一杯であったが、もっともっと大変な障害を持った人を見ると自分の障害を恥かしく思う事さえあった。
五年間程に渡る長い入院生活に、今まで専業主婦だったのにすっかり「浦島花子」になってしまった私は、お米の値段や豆腐一丁の値段も分からない。
車椅子姿で帰って来た母親を子供がどう受け止めるか心配だったが、今までと何ら変わりなく家に友達を連れて来て、改めて私を紹介したのが唯一の救いだった。
「人は誰でも老いれば何処かしら悪くなるものだ。少し早くなったと思えば良い」
といってくれた優しい夫が、私が出来ていた事が出来ないで苛立つのを横目で見ている。夫は、ここで手を貸す事は簡単だが、それは決して私にはプラスにはならないからと言った。夫は私に一つの法則を紙に書いた。
「出来ない→やらない、やらない→出来ない」
その通りであるが、それを素直に受け入れる程の心の余裕は私にはなかった。
少しずつ、家族の助けを求め、手を借りながら、社会の現場に戻って来たのに、別に悪い事をした訳でもないのに、どうしても人目を避けて家に引き籠ってしまった。その方が気が落ち着くのだ。しかし、家の中で出来る事が一つずつ増えてくる度に自信も湧き出し、再び家族が一つとなりつつ、夕餉の卓には五年間空白であった母という私の存在に子供は喜び、はしゃぐように会話が弾んだ。

夫の突然の自動車事故死

戸惑いながらも社会復帰に一生懸命に頑張りながら、子供の成長と共にそれなりに平穏な日が続いていた。
平成三年十月一日、夫は自動車事故に遭い、脳死ながらも四十九日間生きつづけた。夫の脳の片隅に私の事がわかっていたのだろうか、不自由な体の私に一日の看病もさせる事なく逝った。悲しいというより恐ろしい出来事であった。四十九日間、この世の地獄を見た。もう二十年も前の事なのに昨日の出来事のように思えてならない。夫の俄なる死、私の障害、この世に神がいるならば、何故一組の夫婦の人生をもてあそんだのだろうか。障害者となった私をこれからも支え、三人の子供の将来に決して頼る事なく暮して行こうと誓ってくれた夫。
一家揃っての出直しの新しい生活はたった六年間しかなかった。夫、享年五十八歳。私は四十代で障害者となり、五十一歳で寡婦となった。長男が夫と同じ歯科の道に進んだ事をどんなに喜んでいた夫だったか。二人の娘のバージン・ロードを腕を組んで歩く事もなく逝った夫。
私は悲しくても泣いている暇なんかなかった。とにかく、生活の事、まだ自立へは中途半端な三人の子供を何が何でも育て上げなくては。それよりも子供に対して、父親は交通事故死、母親は障害者。申し訳なくて仕方がなかった。私が子供の将来の自立の妨げになってはならないという事ばかり考えた。私は自分の事はもうどうでも良い、がむしゃらに毎日を生きて来た。でもがむしゃらに追いこんで生きてきたのは家の中だけで、相変わらず家からはほとんど一歩も出る事はなかった。買い物等は娘がしてくれるし、食事の仕度は車椅子に乗ったまま、膝上にビニールを敷き、その上に俎板を置き、野菜等を切ったり、ケーキまでも作った。私は幼い頃から体の弱かった母のお手伝いをしているうち料理作りが大好きになり、早くお嫁に行き、料理の上手な奥さんになりたいと思っていた位だから、体が不自由でもそこに生活の知恵が生まれ、かえって手伝ってもらうと面倒だった。

三人の子供も一人一人と社会人となり、自立していった。
独りとなった私はやっと自分の事を考え始めたが、嫁の役、妻の役、母の役を終えた私は、今までに張りに張り詰めていた心の糸がプツンと音を立てて切れた。子供の前では気丈に振る舞っていたのに瞼に夫の顔が浮かび、寂しさがふつふつと湧いて来た。私は思い出のあるものから遠ざかりたかった、ただ、遠くへ行きたかった。うつ病である。
私は住み慣れた地で何もかも出来るだけ処分をして、今のこの地に三年前に移り住んだ。この地を選んだ理由は何もない。単に日常生活に欠かせない物件が揃っていたから。それ程、何処でも良いから人目を気にしない土地で暮してみたかった。住み慣れた地の人達も私に優しかったし、困っている時には手をタッチすれば皆助けてくれるのに、健常の時を知っている人達に、障害者となった自分を目前に現わす事はどうしても出来なかった。正直言って心の葛藤に疲れてしまった。
移り住んで来た地で車椅子姿の私を最初から晒け出した。でも、とっても勇気がいる事だった。三人の子供もそれぞれに距離を置いた地で暮している。月に一回、二女の幼な友達のお母さんがここまで私を訪ねてくれるのが、唯一の楽しみだった。
退院してからスーパーに一回も買い物に行った事がない。しかし、独り暮しでは行動しなければ何も始まらない。思い切ってスーパーの店内に入ってみた。たいした買い物をしないのに飽きる事なく品々を見て廻った。銀行で初めてキャッシュカードでお金を引き出した。今までは娘二人が銀行に勤めていたので、私が銀行に出向く必要もなかった。コンビニも初めて行ってみた。以前にテレビ番組でやっていた初めてのお使いに出された子供の様だった。でもこれだけでは何の為に移り住んだか意味がない。
社会福祉協議会の広報がポストに入っていたので、ここにも初めて電話をしてみた。
「何か高齢者が楽しむ場はないでしょうか?」
と、聞いた。退院時に頑張って社会復帰の一歩を踏み出すようにいわれたのに、今までは後ずさりばかりで、今前進しなければ結局はだめな障害者で終わってしまうではないか、それでは自分自身が許せなかった。
近くのコミュニティーセンターで月一回「おしゃべり交流会」があると教えられた。私は出席の旨を伝えてあるので、もう行くしかない。全てボランティアさんで会が運営されていた。メンバーの人達は誰もが何かしらの障害を持っていたが車椅子は私だけだった。ボランティアさんの一人が私の住み始めた場から十メートル位しか離れていない方だった。余りにも近いので、私はやはり行かなければ良かったと後悔したが、このボランティアさんがこれから独りで暮して行く私に大きな関わりを持つ事となる。私にさりげなく何かと気遣いをし、今度は公民館でやはり月一回行われる障害者交流会に誘ってくれた。
彼女は私より三歳位年下だが、教師経験もあり地域の民生委員も務めている。私が外に出る機会が少ないのを知ると、何万株と植えられ咲き盛るコスモス畑、向日葵畑に、桜が咲くとお花見に行きましょうと、四季折々にぐいぐいと私を外へと連れに引っぱって行くのである。そんな時、今までに感じた事のない爽やかな風が、体と心の中を吹き抜ける。近所の方々にも
「何か困った事があったら言って下さい」
と、有り難い言葉を頂く。スーパーの店員さんともすっかりと顔馴染みだ。レジで買い物の精算をすると、マイバックに品物を入れてくれ、車椅子の足元に落ちないように括りつけてくれる。後のお客さんは嫌な顔もせずに待っていてくれる。以前に住んでいた地も本当は皆私に同じ気持ちに違いなかったのに、人目を避け続けていた私が悪かったのだ。月の半分は三十分位かけて車椅子であるお宅に行く。一人の女性の方が私財を投げうって、高齢者の為に憩いの場を作られた。
ここでは、人生の先輩やそれぞれ苦と楽の道を歩んで来た人達とおしゃべりをし、ボランティアさん達が作って下さる美味しいお昼を頂く。入院中から始めた短歌も再び始め、勉強会に一人で行く。途中で無人スタンドで百円を入れて野菜を買うのも楽しみだ。外に出る事は一つ一つが新発見だし、嬉しくて仕方がない。友達も沢山出来たし、初めて自分らしく生きている毎日の様な気がする。夫が俄に逝った事、私が障害者になった事で神を恨んだが、試練を与えた代わりに人の優しさ、温かさに気づく心を私に与え返してくれたのだと思う。あの世から夫が帰って来て一目でいいから私を見て欲しい。寝たきりといわれた今の私を見てもらいたい。優しく温かい気持ちで私を迎えてくれたこの地の人達に、夫からも感謝のお礼を述べてほしい。夫が逝ってから辛かった事や、あんなに待ち望んだ孫の写真を見せてやりたい。
これからも出逢い、ふれ合いを大切にしながら、少し遅かったかも知れない社会参加を積極的にしたいと思う。
嫁、妻、母の三役を終えた後の役をすっかり忘れていた。
私は小学校二年生、三年生の男の子の孫のおばあちゃんになったのだ。二人は私の大切な宝物。幼い頃から障害者で車椅子の私を見ている。ついこの間生まれたと思ったのに、来ると車椅子を押してくれる。勉強をする事も大切だが、私を台本にして人を思いやる優しい心の持ち主になるように育って行く事を願うのである。
私は幸せなジューン・ブライドにはなれなかったけれど、それ以上に目に見えない幸せを、知っている人、知らない人からも沢山頂いた。車椅子の目線はちょうど人の心の辺りにいく。私は独り暮しでも独りではない。人達の優しさと温かさの気持ちが私の心から溢れ出そうである。昨日は今日はもう過去。後はもう振り返らない。これから私にはどんな定めが待っているだろうか。サーフィンの波乗りの様に上手に定めに乗って行こう。

臓器移植にサインする

私は自治体から障害者の為の医療費助成を受けている。先日、今年度の新しい保険証が送られて来た。同封されていた用紙を読んで見ると驚いた。こんな障害者に臓器の提供のお願いだった。
「脳死、心臓停止後、提供しない」
と、三つの項目が書かれていた。夫も、死後に病院の強い要望により医学部の生徒の為に臓器を提供して来た。脳死といわれても、髭も、爪も伸びる。体も温かい。三人の子の名を耳元で囁くと目から一筋の涙が流れる。脳死といわれても、生きる保証は何一つない事は誰にでも分かっていても、絶対に出来ない。死後だから提供が出来たのだ。しかし、時が流れるにつれて今は少しずつ気持ちが変わった。
今は国内だけで臓器提供者を待たなければならない。その間にもっと生きられる人が臓器提供者が現れるのを待たずに亡くなる。
私は臓器提供ネットワークに電話した。返事は
「今、高齢者の方でも元気な人が沢山おられます。お願い致します」
障害者の私でもまだ体の一部は役に立つかと思い、迷わず臓器提供を承諾した。家族の同意が必要だが子供が反対しようが体は私の所有だ、少しでも私の体が何処かで息づき、病める人を助けられるのなら本望だ。それには健康でなければならない。定めの最後の掟は「死」であるが、それだけはわからない。提供したいけどやはり難しい問題だ。



伊藤 佳子 プロフィール

昭和十五年年生まれ 主婦 埼玉県所沢市在住



受賞のことば(伊藤 佳子)

まさか、名誉ある矢野賞をこの私に。入選のお知らせを頂きました時には身の引きしまる思いと、嬉しさで涙ぐんでしまいました。皆様の励ましのお陰で今やっと長いトンネルから抜け出た感が致します。今の私を亡夫が見たら大変に驚く事でしょう。
臓器提供は、障害者にも大きな社会参加の権利を与えられたと思います。改めて家族は勿論の事、支えて頂いた皆様に感謝申し上げます。本当に有り難うございました。



選評(中村 季惠)

三人の子どもを授かり、母親として充実した日々をすごしていた伊藤さんを椎間板ヘルニアが襲う。四十歳から五年間、入院、手術、リハビリを繰り返し、車いすでの生活を余儀なくされる。退院して家族五人の生活を取り戻したのもつかの間、優しかった夫が交通事故で急逝、心に穴のあいたまま、がむしゃらに子どもたちを育てて社会人として自立させる。そして三年前、六十八歳の時に自ら住み慣れた土地を離れ、知らない町に移り住んで独りで新しい生活を始めながらも心から生活を楽しみ、人々との出会いやふれあいを大切に生きる姿に深い感銘を受けた。伊藤さんの「はじめて自分らしく生きている日々」にエールを送りたい。