第46回NHK障害福祉賞最優秀作品「私の家族」徳澤 麻希 〜第2部門〜

著者:徳澤 麻希 (とくざわ まき)兵庫県

夫の障害

夫は、私と結婚する十一年前、大学二年(二十歳)の時に交通事故に遭い、障害者になった。友人の運転するバイクの後ろに乗り、峠のカーブを曲がりきれずに振り落とされ、五メートルほど下の谷にヘルメットをかぶった状態で頭から落ちたという。八時間の手術の末、一命を取り留めたものの、その結果、「頸髄損傷」という大きな障害を一生背負って生きていくこととなった。首から下の神経が損傷し全身麻痺となり、手足の自由を失い、寝たきりの入院生活を送っていたという。
それまでスポーツが得意だった夫であるが、体の自由を失い、寝たきりの生活からリハビリを行い、四年半の入院生活の中で、車いす生活ができるまで改善したという。家庭復帰ができる目処が立った夫は、この先、何か自分の力で仕事をして生きていかなければならないと考えるようになり、夫は車を購入し、自分の身体機能で運転ができるよう車を改造してもらい、車の運転を可能にした。そして医療の専門学校に四年間通い、国家資格である言語聴覚士の資格を取り、現在夫は言語聴覚士として病院に勤務している。
私も夫と同じ言語聴覚士であり、仕事を通じて知り合い、交際をし、結婚をした。結婚、妊娠に至るまで色々なことがあったが、私たち夫婦は待望の子供を持つことができ、親になる事ができた。夫との子供を持つ事が、ひとつの夢であった私にとって、これ以上にないほど幸せな時間を過ごしている。
現在、長男 雄生十歳、長女 美咲六歳の二人の子供に恵まれ、私たちは、家族四人で暮らしている。この子供たちの成長が、今、私たち夫婦の何よりの楽しみになっている。

今の生活

私たちは結婚後、バリアフリーのマンションで暮らしていたが、その後、自分たちの家を購入した。普通の一軒家であるが、夫が動きやすいよう細かいところまで、夫の身体機能を考慮して建てた家である。玄関には、玄関←→一階←→二階と夫の移動を可能にするホームエレベーターがあり、玄関の土間は、屋外用の車いすと屋内用の車いすの乗り換えができる広さを十分に確保した玄関になっている。トイレと風呂も夫の必要な高さに手すりが付けられており、これらも一般物件に比べると広いものとなっている。車の乗り降りがしやすいよう、駐車場は広く取り、駐車場から玄関までも緩やかなスロープが設置されている。
私たちは、もっとも生活しやすい最良の家を、購入した。家のため家族の生活のために、私たちは毎日、一生懸命働いている。

育児に関しては、経験することすべてが初めてのことばかりで、戸惑うことが多かった。私はいつも夫に相談し、どんな小さなことでも一日の子供のことを全て報告している。夫が子供に手をかけてやれない分、夫の意見をいつも聞きながら子供に関わっていくような夫婦の形を、私は心がけている。夫の気持ちは子供にすごく寄り添っているが、子育てそのものは、私が中心となる。

私は、育児の間に夫の介助もしている。一日の流れは、朝は服の更衣、洗顔のセッティング、靴をはかせる、出かける前には屋内用の車いすから屋外用の車いすへの乗り換え、自動車への車いすの積み込み(これは夫が一人でもできるが、朝は時間短縮のため私が手伝っている)などである。夜は、帰宅時に車いすの乗り換え、靴を脱ぐ、風呂に入るための脱衣、車いすからシャワーチェアーへの乗り換え、入浴後はシャワーチェアーから車いすへの乗り換え、着衣など、どれも誰にでも手伝える簡単な介助であるが、夫にとっては必要な介助である。
子供が生まれる前の夫婦二人の生活の時には、これらの介助は何の苦にもならず、夫とコミュニケーションがとれる、二人のよい時間だと喜んでしていたような気がする。しかし、子供が生まれてからは、「待って」と言っても聞き分けの出来ない子供がいる育児の間にする介助は、少しとは言え、子供から目を離し、手を止めなければいけない。私も、幸せの中にある忙しさとはいえ、本当に目が回るような忙しい生活だった。この時期、夫がよく口に出していた言葉が「うちには手のかかる者が三人もいるが、俺は聞き分けができるから、待てと言われたら待つでー」そんなことを言いながら、いつも夫は笑っていた。忙しいときも、夫のこんな言葉で私の心はとても癒される。

それでも子育てと介護をしていると、いろんな事がある。夫が風呂に入る時間と、子供が眠くてぐずり出す時間とが重なってしまう事がよくあった。その日も、夫が風呂に入っている時に子供がぐずり出し、子供を先に寝かせようと思い、私は子供と添い寝をしていた。その日、仕事で疲れていたこともあり、私は子供と一緒にうとうと寝てしまった。
夫は、風呂からあがるときは、いつも私の名前を大きな声で呼ぶ。風呂に呼び出しボタンが付いているが、夫のいる洗い場から手が届かず、使用できない。夫が私を呼んでも、リビングでテレビがついていたり洗い物をしていたりすると、夫の声が聞こえない時もあった。だから、夫の入浴時間を逆算して、夫が風呂から上がってくる数分前にキッチンタイマーが鳴るようセットし、風呂から上がってくる頃には注意が向くようにしていた。しかし、その日はキッチンタイマーを押すのを忘れており、そんな状況の中、子供と眠ってしまった私は、夫の声には全く気付かなかった。夫は私の名前を何回も叫び続けたという。夫は一時間近く風呂に放置されたようだ。何とか自力で風呂から出ようと、真後ろにあるドアを開けるため、ブレーキのかかったシャワーチェアーの方向を変え、肘でドアを開けたという。夫の身体機能からこのドアを開けるという行為は、とても想像ができず、「火事場の馬鹿力」とでもいうしかないほど、すごいことだと思った。そしてドアを開ける事が出来た夫は私の名前を呼び、私は怒った夫の声で驚いて目が覚めた。夫は怒りと疲れでぐったりしていた。体温調節ができない夫にとって風呂での一時間放置は、耐えがたい苦痛だったという。
夫には申し訳ないことをした。振り返ればこの頃の私は、子供が早く一人で寝るようになってほしいと思いながらもイライラしている事が多かった。やっと最近、子供たちだけで寝るようになって、私の負担もずいぶん減り、少しずつ手がかからなくなってきている。

いろんな困難を経験しながら毎日が過ぎていく。月日とともに子供は成長し、大きくなっていく。「子供は成長していつか手はかからなくなるが、俺はいつまでも手がかかるなあ」と夫は苦笑いしている。

夫は基本的に「ありがとうな」「すまんなぁ」など私に対して気遣いの言葉をよく口に出す人だと思う。この言葉を私は期待しているわけではないが、それでも同じ介助をするのにこの言葉があるとないとでは気持ちが全然違う。言葉一つで、私の動きも軽くなる。仕事と家事、育児、介護と動く私の元気の源は、子供たちの成長もあるが、やっぱり夫との「愛」があるからだと思う。

車いすの父と子供

夫はいつも車いすに座っている。私は夫が歩いている姿は見たこともないし、子供たちにとっても、生まれた時からお父さんは車いすに乗っている。車いすに乗っているお父さんというのは、今は子供たちにとっては普通のことで、特別、距離は感じていないと思う。食事の時も車いすに座っているが、一つのテーブルに家族が集まって食べていると、そう距離は感じない。ただ床に座って遊んでいると、お父さんは高いところからのぞきこんでいるようになり、視線の高さが違ってくる。しかし、夫が足をのばすためにベッドに横になると、娘の美咲は大喜びして後を追うようにベッドに上がる。お父さんと子供の視線の高さは同じになり、お父さんの体の上に馬乗りになってぴょんぴょん跳ねている。夫は「やめてくれ?」と言って大きな声を出しているが、その声を聞いて美咲はますます興奮して嬉しそうだ。お父さんの横に寝転んだり、コチョコチョしてみたり、お父さんとの距離が近くなってスキンシップを楽しんでいる。普段、車いすに座っているお父さんは小さいが、身長一八〇センチのお父さんが寝転ぶと、とても大きいお父さんであることに気付き、その大きさに安心するのか、少しぐらい体当たりしても大丈夫という安心感があり、美咲は大はしゃぎする。夫と子供たちの間にバリアがなくなる瞬間だ。この幸せな声を聞いていると、私もとても幸せな気持ちになる。

夫は昔、「父親とは子供からみてとても強くて大きな存在であり、安心感を与えるものだと思うが、自分はそういう父親になれるのか」と、口に出していたことがある。それを思い出す出来事があった。
長男が三歳くらいの時、夫の実家の方で町内会の運動会があった。子供の参加が少ないようで雄生も連れておいでと、義母から誘われて、家族で参加した。ところが運動場の入り口で息子が行きたくないとぐずり出した。私が抱っこをしても泣きやまず、あきらめかけたところに、夫の同級生だった友達がやってきた。「雄生、お前、行きたくないんか? おっちゃんと一緒に行こかー」と言いながらスッと息子を抱き上げて、三回ほど宙にほうり投げたら息子はすぐに泣きやんだ。大きな男の人に抱っこされたり、荒っぽい遊びや粗大運動をしてもらったりした経験が少ない息子にとっては、本当に楽しかったようで「もっとしてー」と何回もせがんでいた。夫も「何回でもしてもらいー」と言って、親友を困らせていた。
夫はこの親友の活躍がとてもうれしかったようで、自分が父親として子供にしてやりたいと思っていたことができて、とても喜んでいた。多分、その反面、普通のお父さんであれば簡単にできることが、父親として、してやれないという自分にもどかしい気持ちを持ったのではないかと思う。

夫は多分、こういう思いを繰り返しながら生活をしていると思う。私は、夫が健常だった姿を知らない。知り合ったときから夫は障害者で、私は健常だった頃の夫の残像がない。だから夫に対して何も期待はしていないが、夫は自由に動いていた体が今の自分だと錯覚することがあると話しているくらいだ。そこに私との気持ちにズレがあると夫は言う。だから、自分の不自由を感じた時には、夫は人一倍の悔しさと無念さを味わっているかも知れない。

気持ちで抱っこ

夫は自分が描いている父親像に、自分はほど遠いものだと感じているようである。「父親とは強くて大きな存在であり、安心感を与えるもの。実際、自分は子供に手をかけてやれないし、直接関わってやる事も出来ない。子供を抱っこしたり、宙に放り投げたりして喜ばすこともできない。だから、子供のそばにいて気持ちだけでもいつも一緒にいてやりたい。俺はいつも気持ちで抱っこをしている」と話していたことがある。
夫はいつも子供に「お父さんの宝物は、雄生と美咲やで!」と言葉に出して伝えている。子供が寝る前には子供たちに「お父さんの宝物は?」といつも尋ねる。子供たちは声をそろえて「雄生と美咲」と答える。これが毎日「おやすみ」と寝る前のあいさつにひっついて出てくる会話になっている。私は、このやり取りを聞いていて少しわざとらしく感じ、「何を言わせているんよ」と半分、心の中で笑っていたが、どうもこのくらいオーバーに表現した方が子供たちにはダイレクトに伝わるようで、子供たちはお父さんとの結びつきが強く感じられるようだ。お父さんに大きな声で怒られたりする時もあるが、「お父さんの宝物は?」「雄生と美咲」というこのやり取りで一日を終えると、子供たちはとても安心できるようだ。こういうやり取りで親子の信頼関係を築き、いろんな場面でお父さんの「言葉」に重みを持つようになってきていると思う。最近はこの言葉に「お母さん」も付け加わり、「お父さんの宝物は?」「雄生と美咲とお母さん」が我が家では定着してきている。

子供の成長と共にこんな会話も少なくなっているが、今、子供たちの気持ちの中にこの言葉はしっかり根付いているように思う。

保育所の先生の言葉

私の仕事の関係で、長男は二歳から公立の保育所へ預けていた。クラスの中でも体が一番大きな息子は動きが鈍く、またその大きさが目立つような印象だった。
ある日、保育所のお迎えの時に先生から声がかかった。「雄生くんのお父さんは障害があるし、思い切り遊んだりする経験が少ないだろうから、体を思い切り使ってどこか発散させる場所が必要ではないか、スイミングでも習ってみるのもいいのでは……」と言われた。夫が父親として粗大運動がしてやれないと気にしているような事を言っていたのを思い出し、私もハッとした。それでも私は父親役も含め、精いっぱいの子育てをしていると思っていたため、先生から受けた指摘は少しショックだった。でも毎日、息子の事をよく見てくれている先生からの視点で言ってくれた言葉であり、今、思えば、やはり息子には何かが足りなかったのかもしれない。
先生からあった話の中でスイミングを始めるというのはいい話だと思い、四歳から息子はスイミングへ行き始めた。おかげで体も強くなり、あまり熱を出さなくなった。少しずつたくましさも出てきた気がする。現在、五年生になった今も、このスイミングを続けている。昨年、明石市の水泳記録大会で五十メートル・バタフライで自己ベストを出し、市内大会六位に入賞した。息子はこの入賞でいろんな事に自信が持てるようになり、少したくましくなった。「継続は力なり」と息子から教えられたような気がした。子供の成長が見えた時は、本当にうれしい!
夫は自分が小学生の時、柔道の大会で五年連続県大会二位になった事があるとか、中学の時には野球部でありながら駅伝大会に出場したとか、スポーツが得意だった過去の栄光を自慢げに話しているが、水泳はたいした結果もなく、自分に縁がなかったスポーツらしく、雄生のこの快挙に目を丸くしていた。

お父さんが恥ずかしい

長男は小さいときから基本的に人に見られたり、注目をされたりすることをとても嫌がる子供だった。車いすのお父さんと一緒にいるところを友達に見られることも、とても嫌がっていた。家族で出かけてもお父さんから離れて歩き、何か堂々としているところがない。子供ながらに他のお父さんとの違いをずっと感じているようだ。そのことは、私も夫もよくわかっていた。
ある日、長男が小学校へ入学した時に授業参観があり、「一緒に参観へ行こう」と夫に声をかけたが、夫は乗り気ではない。雄生の気持ちを考えると、あまり気が乗らない感じだった。不安を与えるだけだ……と言っていたが、夫は私の勢いに根負けして二人で学校へ行く事にした。
教室へ入ってきた夫をみて、クラスの友達が車いすのお父さんをめずらしそうに見ている。「誰のお父さん?」という感じでみんなが見ている中、「雄生、頑張れよ」と夫が声をかけた。友達の一人が「徳澤君のお父さん、なんで車いすに乗ってるん?」と息子に聞く。息子は困った顔をして「交通事故……」と小さい声で言い、真っ赤な顔をして「誰もボクに話しかけないで」という雰囲気を出しているように私は見えた。夫はその困った息子の顔をみて複雑な思いをしていたと思う。
夫は、長男のことを責めたりはしない。息子の気持ちが十分にわかるし、「恥ずかしいのは当たり前だ」と言っている。夫は、雄生が来てほしいというまでは学校行事には参加しないと心に決めたようだった。それでも運動会だけはどうしても走る姿が見たいようで、毎年、息子から離れたところで、夫は応援に行っている。

娘の美咲は、保育所の行事は、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんみんなに見に来てほしいようで、夫を指差して友達に「あれ、美咲のお父さん!!」と、堂々と遠くから叫びながら手を振ってくる。友達の「美咲ちゃんのお父さん、なんで車いすにのってるの?」という質問にも堂々と、しかも自慢げに答えている。美咲は女の子特有の優しさをお父さんに向ける。娘は私の行動や言動をよく見ており、お父さんの手伝いも「みさきがするー」と、なんでもしたがる子供だ。夫はこの娘の可愛さにメロメロである。
同じ環境で育った子供でも、人それぞれ違うもんだなぁと、いつも夫と笑っている。

長男の小学校四年の「生活」の授業で、『やさしいかな、私たちの町』というテーマの授業があったようだ。それは自分が生活している町の中で車いすやベビーカー、お年寄りに配慮された設備がどのようなところにあるか、自分で調べてくる宿題だった。息子はいつもお父さんと二人で行っているバッティングセンターが思い浮かんだようで、車いす専用の駐車場が入り口の近くにあり、緩やかなスロープがあることを口に出していた。ところが、それを紙に書いて発表するとなると、突然「これ書くのはやめとく」と消し始めた。私は、この宿題はお父さんの事を書くのではない、みんながそういう視点で気付いたことを書いていくものだと説明し、納得したようだった。
息子はいまだにお父さんが車いすであることに、敏感に反応するようだ……。

野球

長男が小学校三年になった時、ソフトボールのチームに入った。夫は高校時代、甲子園を目指し、自分の青春時代を全て野球に打ち込んできた「野球人」だったらしく、ソフトボールとはいえ、自分が大好きだったスポーツを息子がするとなると本当に嬉しそうであった。息子のプレーをしている姿が見たくて仕方がないようであったが、チームが練習をしているグラウンドが、車いすではどうしても入ることができない場所であったため、なかなかプレーをしているところを夫に見せる事が出来なかった。息子もお父さんに見に来てほしいとは自分から口に出しては言わない。ある日、別のグラウンドで練習試合があり、夫は車の中から息子の様子を一人で見ていた。代打で雄生がバッターボックスに入った瞬間、夫は体が震えて涙が出たという。自分が事故に遭うまで、打ち込んできた大好きだった野球を、今、自分の息子がユニフォームを着て、バッターボックスに立っている姿を見たときに、言葉にならない感動があったようだ。

ある日、息子がソフトボールではなく「野球」がしたいと言い出した。一年間お世話になったソフトボールをやめて、四年生の四月から軟式野球のチームへ入部した。これまでのソフトボールと違って練習も厳しく、練習時間も長く、練習試合や遠征などで私たち親の生活も一変した。夫は、長男が野球を始めたことを心から喜んでいる。いつも「野球の道具を大事にしない者は、絶対にうまくならないぞ!」と子供に厳しい顔で注意をしているが、実際、玄関に転がっているグローブを見たときには、道具を見るだけで笑みがこぼれてしまうようである。野球を始めてから、雄生は「お父さん、お父さん」と野球のルールの確認や友達の話など自分からするようになった。野球を始めてから、確実に夫と息子の距離が近くなっている。
夫は、子供が生まれる前の夫婦二人の生活の時には、「自分が元気だったら……」と後ろ向きの言葉をあまり口に出さない人だった。基本的にはプラス思考の人だと思うし、私がマイナス面を口に出すと嫌がる人だ。でも息子が野球を始めてから「俺の野球している姿を見せてやりたい……。体で教えてやりたい。みんなは小さいころからお父さんとキャッチボールをしているだろうが、雄生にはそういう経験がない。そういう環境を与えられない事が申し訳ない……」と、悔しそうに口に出す。夫は幸せな状況になればなるほど、今の自分の現状にショックを受けたりするのかも知れない。特に今までの子育てでは、夫ができないことを私が補うような形でやってきたが、野球だけは私の力ではどうにもならず、本当に歯がゆい思いをしているようだ。

それでも、夫にとって嬉しい出来事があった。雄生は「お父さんに練習を見に来てほしい」と言うようになった。車いすのお父さんが恥ずかしいと言っていた息子が、「ボクの野球を見に来てほしい」と夫に言っている。息子はこの頃から変わった。何が変わったか具体的にはわからないが、堂々としているし生き生きしている。
野球に力が入り出してから家で夫と長男がバッティングの練習をしたり、トレーニングをしたり、お父さんと過ごす時間が長くなっている。「ナイス、ファイト!」「ナイス、バッティング!」など、お父さんの力強い言葉に奮起するらしく、二人は楽しそうに毎日、野球に取り組んでいる。とにかくお父さんに褒められたい、お父さんに認められたいと長男は強く思っているようだ。
お兄ちゃんのトレーニングが始まれば妹の美咲もピアノの練習を始める。美咲も私にピアノが上手だと褒めてもらいたいらしく、一生懸命練習している。親に褒めてもらえる事が子供たちにとっては何より嬉しいようだ。子供たちの将来の夢は、長男は「プロ野球選手」、長女は「うたのおねえさん」と言っている。娘は、少し前には「お父さんの体を治すお医者さんになろうかな」と言っていた。

家族旅行

私は、子供たちにいろんな経験をさせてやりたいと思っているが、その一つに「家族旅行」に行きたいという希望があった。ただ、実際に行こうとすれば、夫の介助、子供の世話、荷物の運搬など全て私が一人でしなければいけないと思うと、なかなか実行できず、子供達が夫や私の手伝いができるようになるまでは難しいと思い、子供の成長を待つしかなかった。実際、旅行の計画を立ててもどこかで夫の動きに制限され、計画が止まってしまう。今回も子供たちが海水浴に行きたいと言っていたが、車いすでは砂浜に降りていくことができず、降りたとしても、体温調節の出来ない夫が、真夏の炎天下では十分も辛抱できない。旅先での夫の時間の過ごし方が弊害となり、行き先が制限される。宿をとってもハンディキャップ・ルームには二人しか宿泊出来ず、家族が四人そろって宿泊できる部屋を探すとなると、なかなか条件の整ったところは見つからない。それでも仕事の休みを調整し、この夏休みは旅行へ行こうと決め、昨年の夏、初めて「家族旅行」を実行した。行き先は淡路島である。家から車で一時間半ほどのところで「旅行」と呼ぶには近すぎる距離ではあったが、初めての家族旅行としては十分だった。
宿泊するホテルの部屋は、和洋室をとった。和洋室は、ハンディキャップ・ルームに比べるとトイレと風呂が少し狭いようであったが、四人で泊まれる部屋はこの和洋室しかなかった。ツインのベッドに夫と息子、和室の布団に私と娘が寝ることになった。子供たちは、初めてのホテルステイにとても興奮していた。結局、海水浴は断念したが、ホテルには大きなプールがあり、ホテルステイを楽しむ旅行にしようとホテルのプールで一日遊んだ。夫は子供たちのプールでの様子をホテルのロビーから快適に見る事が出来て、嬉しそうだった。私は、温泉、プール、料理と、どれをとっても贅沢三昧で最高の贅沢旅行をさせてもらった。夫はと言うと家族を喜ばす事が出来てとても喜んでいたが、車の運転に疲れ、ホテルでは風呂に入れず、トイレの使い勝手が悪いなど、少々不満を口に出していた。家に帰って来てから「我が家が一番、快適だ!」と家の有り難さを痛感したようだ。それでも、息子は学校のプリントに「生まれてから十年間で一番楽しかった事は?」という項目に「淡路島のホテルに泊まった事」と書いていた。家族がこんなに喜ぶのであれば、これからは年に一回は旅行へ行こうと夫と話している。娘は「次は東京ディズニーランドへ行きたい」と言っており、夫は冷や汗をかいている。

前向きに生きる

おとなしく引っ込み思案の雄生に最近、夫はこんな事を言っていた。「男は絶対になんでも思った事を口に出して、前へ前へ出なあかん! 自分から前へ進むか、何もしないで立ち止まっているか、どっちかや。前に進まな何も変わらんぞ!」と子供を励ましていた。「お父さんは車いすやしかっこ悪いけど、家でじっとしていても何も始まらない。そう思って、自分でしたい仕事を見つけて仕事をし、お母さんと知り合って結婚もできた。そして雄生や美咲が生まれて、家族が増えてこんなに幸せに暮らしている。だから雄生も前へ前へ進まな何も始まらんぞ!」と話していた。小学生の長男にはこの話はまだ完全には理解できないかもしれないが、父親の生きざまを見て、息子が強くて堂々とした人になってほしい……と私は心から願っている。
私は、夫の前向きに生きる姿に魅かれ、夫の事が好きで結婚をした。昔、私が二十代前半の頃、夫に「一度でいいから腕を組んで一緒に歩きたい」と口に出した事がある。そして夫は今、「一度でいいから雄生とキャッチボールがしたい」「美咲と手をつないで歩きたい」とよく口に出している。これらの事はどこの家族でも簡単に出来そうなことだが、私たちにとってはどれも叶わない夢の話である。でも今、私たちは幸せに暮らしている。私の「夫との子供を持ちたい」という夢は現実となった。私たち夫婦にこんな可愛い子供たちを授けてくれた神様に、本当に感謝している。

私たちは今、子供たちによっていろんな経験をさせてもらっているし、子育てを通していろんな人たちとの出会いもあり、この家族によって自分は生かされていると思う。妻歴十三年、母親歴十年とまだまだ未熟な私であるが、家族に必要とされ、愛する家族に囲まれて、私は今、最高に幸せな時間を過ごしている。



徳澤 麻希 プロフィール

昭和四十八年生まれ 言語聴覚士 兵庫県明石市在住



受賞のことば(徳澤 麻希)

夫の障害によって、いろんな制限を受けながら私たちは生活をしていますが、その中で私たち家族なりの喜びがあり、幸せを感じています。この手記を素晴らしい形で評価していただき、私たち家族が生活している姿に、最大のエールをいただいているような気持ちで、胸がいっぱいです。またこの賞が、これから先の生活の励みになるような気がします。本当に素晴らしい賞をいただき、ありがとうございました。

選評(柳田 邦男)

ご夫妻共に言語聴覚士だが、夫は頸髄損傷で車いす生活。十歳の長男と六歳の長女。夫の「俺はいつも気持ちで抱っこをしている」という言葉に象徴される家族の温もり。車いすの父といる時、他者の目線を気にしていた長男が野球を通して堂々としてくる。父のめんどうをみたがる長女。母として妻として、家族一人ひとりの心の動きと成長をしっかりと見つめる著者。さり気ない日常をきめ細かく描くことで、家族のあり方、子育てのあり方をにじみ出させている。叶わない夢は多くても、「でも今、私たちは幸せ」という結びの言葉は、人生論の最も大事なところだと感じます。やわらかく自然な語り口に感銘を受けました。