第45回NHK障害福祉賞優秀作品「心と社会のバリアフリー ——父と私があゆんだ職業への道」〜第1部門〜

著者:栗川 治(くりかわ おさむ) 新潟県

高校前の停留所でバスを降り、黄色い点字ブロックの上を白杖を突きながら校門へ向かう。「おはようございます」と自転車通学の生徒が追い越していく。「先生、一緒に行きましょう」と同僚が声をかけてくれたので、その右腕につかまり、あれこれとしゃべりながら玄関のスロープを上がる。今日も元気にがんばろうと自分に気合いを入れる。高校教員としての私の一日は、このように始まる。
中途失明して二十三年。私も五十歳になった。この半世紀の半生を反省してみたい。

◆失明のおそれと父への反発

「障碍者になりたくない」と子どものころから思っていた。プロ野球選手になりたいとかの少年らしい夢は抱けなかった。父の目の病気が私の心に影を落としていたのだ。
私の両親は鶏卵商を営んでいた。養鶏業者から卵を仕入れ、町内の食堂や菓子屋などに卸したり、自宅を兼ねた店舗で小売りをしたりする商売だ。父は自転車の荷台に十キロの卵箱を二個三個と積んで配達をしていたが、徐々に視力が低下していって、私が小学校五年生くらいになると、自転車に乗らず、いわば白杖代わりに自転車を押して歩いて配達するようになり、それも間もなくできなくなった。近所にスーパーマーケットが出店し、卵は目玉商品として十個百円以下で安売りされるようになると、わが家の商売は行き詰まってきた。
母は父に代わっての孤軍奮闘である。店の番、卵の配達、帳簿付け、そして家事の一切。卵屋の稼ぎだけでは家計が成り立たないので、母は新聞配達店に勤めるようになり、早朝から深夜まで休む間もなく働き続けた。私も自転車に乗って、卵の配達や朝刊配りを手伝ったりした。
一方、父は「家でゴロゴロしている」と私には見えた。「他の家ではお父さんが仕事をしている。うちではお母さんががんばっているのに、お父さんは何もしていないじゃないか」と、父を責め、なじった。父は悲しそうに黙っていた。
当時、私の視力は〇・二程度で、明るい所では文字の読み書きはできたが、暗くなるとほとんど見えなくなる。また、視野が極端に狭く、細い管を通して外を見ているようなもので、足元の物が見えずにつまずいたりするし、野球をしても、すぐに球を見失ってしまう。これが、父の目の症状とそっくりなのだ。四歳年下の弟も同じだ。
眼科の専門医で検査を受けた。瞳孔を開く薬を点眼され、暗室で医師が私の目の奥を覗き込む。網膜色素変性症とのこと。小学生の私に詳しい説明はなく、赤と黄色の錠剤と点眼薬が処方され、眼鏡も作ることになった。これでよく見えるようになるのかなあと期待した。「僕は見えるんだ」と眼鏡をかけて、夜の街に自転車でこぎ出して、駐車中のトラックが見えず激突し、眉間を三針縫うけがをしてしまったりもした。将来、父のように見えなくなるのだろうかとの不安が、静かに心の中で大きくなっていったが、私はそれに抵抗し、考えないようにした。
母は私に期待をかけていた。両親とも中学を卒業してすぐに働いていたので、私にはそれなりの学歴を持たせたいと願っていたようだ。「努力し勉強すれば、人からさげすまれない」と母はよく言っていた。私は「父のようになるものか、障碍をもったら働けなくて、人から軽蔑されてしまう」と考えるようになっていった。父の現実も、私自身の将来の失明の可能性を含めた現実も、私にとっては受け容れられない、否定し脱出すべきものであった。
私は高校、大学へと進学した。役に立たない眼鏡はかけずにいたが、「見えにくいんじゃないの」と人から指摘されると、「今日は眼鏡を忘れてしまった」とごまかしていた。東京で通っていた大学の近くには、点字図書館や盲人会の施設があったが、「僕は障碍者には関係ないんだ」と近づかなかった。
父は全く見えなくなり、悶々とした日々を送りながら、再起の道を探っていった。新潟に視力障碍者のリハビリテーション施設はない。民生委員の勧めもあり、栃木県塩原のリハビリセンターへの入所を希望したが、母が強く反対した。「福祉の世話にはならない。夫や子どもは私が面倒をみる」と頑なである。母の感情も複雑であったようだ。夫となる人の目の病気を知らされずに結婚してしまい「だまされた」という気持ち。自分の産んだ子が二人とも目がみえなくなるかもしれないという不安と自責の念。父への言動で現れている自らの障碍者に対する否定的感情には無自覚でも、世間から後ろ指を指されるのではないかというおそれには過剰なほど敏感でもある。封建的意識の強い農村の小作の娘として少女時代を過ごしたのだから、仕方ないことではある。自分がしっかりせねばと、気丈というか身構えていた。気が弱いと思われていた父の意志は、このことについては強固であった。親戚の人たちも粘り強く母を説得してくれた。「なんとかなるがね」と叔母に穏やかに言われて、母も折れた。父はようやく自らの道を求めて、塩原に向かった。そこで五年間、職業自立をめざし、鍼灸マッサージの資格を取るべく、四十歳代後半からの猛勉強を開始したのだ。
私の方は大学を卒業し、郷里の新潟に戻って高校の社会科教師として働き始めた。視力は相変わらず弱いものの、見える立場で生きていた。私より先に、弟の視力低下が急激に進んだ。高校を卒業し浪人生活の後、弟は悩んだ末に新潟盲学校の専攻科に入学し、父と同じく理療の道に進む覚悟を決めて学び出した。そして卒業後、パソコンの技術を習得するために所沢の国立リハビリセンターに入り直すことになる。
私が「障碍」の問題を避けている間に、父や弟は、苦悩しながらも真正面から向き合い、それぞれの着実な人生を歩み出していた。私だけが逃げて、曖昧にごまかしを続けていた。ただ、父や弟から話を聞き、視覚障碍関係の情報は少しずつ入って来るようになってきた。網膜色素変性症についても、劣性遺伝するらしいとか、網膜の中心部は明るい所ではっきりみる機能があり、周辺部は暗い所でも見えるので、網膜の周辺部の細胞が機能を失っていくこの病気では、視野が狭くなり、夜盲となることなどを知った。そして、近い将来私も視野の中心部にまで見えない所が拡大し、失明するだろうことも……。

◆出会い

二十四歳になった私は、新潟市内の演劇鑑賞サークルに入り、そこで一人の女性と出会った。彼女は保育士で当時は障碍児の通所施設で働いていた。芝居や合唱のことなど趣味も合い、教育問題など共通の関心事でも話が弾んだ。私は彼女に惹かれていった。特に障碍に対する平らかで温かい見方をしていることがわかってくると、この人こそ一生の伴侶とすべき女性だとの思いが強まった。大学を卒業して二年、母校の非常勤講師をしていたが、正式採用が決まり、赴任先として山奥の分校が内示された翌日、私は意を決して猛烈な勢いでプロポーズした。彼女は最初戸惑っていたが、真剣に受けとめてくれ結婚に同意した。婚約者として二人の間で話を進める時、私の障碍のことは避けて通れない。私自身が近い将来に失明するかもしれない、目の病気が子どもに遺伝するかもしれない。父母の葛藤の激しさと苦悩の深さを生々しく体験してきただけに、彼女にだけはごまかさずに素直に話をしようと思った。私自身の失明については、「そうなったらその時にどうするか考えましょう」と彼女はあっさりとしている。子どもへの遺伝については、少し考えてから、「あなた自身が目が見えなくて不幸だと思うなら、その不幸を子どもに負わせるのは無責任だと思う。でも、あなたが見えなくても幸せだと言える人生を送れるのなら、子どもに同じ目の病気が出ても、幸せになれるんだから問題ないんじゃないの」と明確である。この時、私たち二人は大きな峠を越えたと思う。八五年に結婚し、翌年娘が生まれた。
そして一九八七年、二十七歳の時、遂におそれていた視力の低下が始まり、急速に進行していった。視野が更に狭まり、電柱にぶつかったり、道路の側溝に落ちたりすることが増えた。生徒が書いたテストの答案も読めなくなってきた。
その時、具体的な支障は確かに問題であったが、それをどうするかということよりも、私が囚われていたのは、自己否定の感情だった。父に反発し、「障碍者になりたくない」と思い「僕は見えるんだ」と突っ張って生きてきた。できる人間に価値があり、あれこれできない者は役立たずだと障碍者を軽蔑してきた。それが今、まさに自分自身があれこれできない障碍者になっている。自分自身の価値観で自らを否定する。父に投げつけた言葉が、そのままブーメランのように戻って来て私を突き刺す。妻の励ましはあるものの、私は自縄自縛の状態に陥っていった。
私は職場では自分の障碍について隠していた。周囲からすれば日常の行動に接して当然気づいていただろうが、私の方からは、その問題には触れないようにしてきたのだ。PTAや同窓会など校外の人たちと交渉する渉外の係になって、「ショウガイの栗川さん」などと呼ばれて、バレてしまったかとドッキリすることもあった。その渉外係を一緒に担当することになった同僚のUさんから「栗川さんは会議の司会とか電話での交渉などをしてね。僕は話べただけどパソコンは使えるので、会議の資料作りや会計をやるから」との仕事分担の提案があった。彼は話上手だったが、私を配慮して、そのように言ってくれたのだ。そして彼は「人は誰でも得意なことと苦手なことがあるからね。できることはやって、できないことは人から手伝ってもらえばいい。お互い協力していきましょう」と言うのだ。これは人間社会において当たり前のことではある。その何気ない言葉が、障碍に対するコンプレックスからゆがんだ価値観を持って生きてきた私には、新鮮な驚きと発想の転換を促すものとして聴こえたのだ。誰にだってできないことはある。完璧な人間などいないのだ。Uさんはテストの採点なども快く手伝ってくれた。
私は少しずつ、見えないこと、できないことを周囲の人に言えるようになっていった。見えない、できないことは変わらないどころか、視力は低下し続けているし、できないことも増えている、それなのに私の気持ちは楽になってきていた。私が悩み苦しんできたのは、見えないこと、できないことそのものではなく、それを否定的に捉え、隠したり、逃げたりしてきた心のあり方であったのだ。私の心がバリア=障壁となって、私の進むべき道を塞いでいたと言える。私の気持ちと態度が変わると、周囲の対応も変わってくる。正直に困っていることを伝え、援助を頼むと、多くの人が協力してくれた。ごまかしがない分だけ率直で円滑な人間関係となっていく。ありのままの自分を出していこう、そこで問題があるのなら、その問題から逃げずに対処していけばよいと、前向きな姿勢へと変わっていった。

◆盲学校から普通高校へ

弟からの情報もあり、盲学校ならば教師の仕事を続けながらリハビリもできるのではないかという、盲学校の生徒には申し訳ない不純な考えで、転勤を希望し、八八年春に新潟盲学校に赴任した。点字、音声パソコン、白杖歩行など、時には生徒に混じり、時には同僚からマンツーマンで指導を受けて、知識と技術を身につけていった。点字の教科書や音声図書の教材を使っての社会科授業も軌道に乗ってきた。視覚障碍者として生きる基盤が徐々にできてきたように思えた。盲学校という場は、当然のことながら視覚障碍児のために配慮された所であり、職員にも理療科を中心に全盲や弱視の教員がおり、点字が公用文字とされているなど、働きやすく、居心地のよい世界であった。
しかし、その快適さや視覚障碍者としての違和感の無さに、私はかえって違和感を抱くようになっていった。「盲学校で働いています」と言うと、皆に納得されてしまう。
その納得や常識の意味するところは何なのだろうか。
盲学校内での快適さは、裏返せば一歩外に出れば配慮も支援もない過酷な世界となっていることを意味する。障碍者のいない一般社会があって、そこから排除された障碍者たちが集められ、特殊な学校や施設に隔離される。そのような常識が「視覚障碍者は盲学校」を納得させている。南アフリカにおける黒人隔離=アパルトヘイト政策が国際的に非難されている時でもあったが、これは障碍者に対するアパルトヘイトではないか。障碍がある者もない者も地域社会の中で共に生きるのが当然であるという、ノーマライゼーションの考え方も広まってきていた。視覚障碍を持って普通高校や中学校で働く教師たちの存在も知った。障碍者のためだけの特別な空間に安住するのではなく、これまでは障碍者はいないとされてきた一般社会の中にわが身を入れて、障碍者がいるのが当たり前で、しかもそこで快適に生きていけるようにしていきたいと願ったのだ。
そこで、私は普通高校への転勤希望を教育委員会に出した。だがその年は何の反応もないまま残留となった。次の年は校長や教職員組合に働きかけてもらい、転出の方向で事態が動き出した。しかし、県から提示された転勤先は養護学校であった。障碍者はその枠の中から出られないのかと絶望的になりかけた。盲学校への異動が比較的スムーズに進んだのとは逆に、そこから出て行こうとする時の壁の厚さを思い知らされた。それだからこそ、この障壁=バリアは何としても突破しなければならない。養護学校への転勤を断り、あくまでも普通高校を希望する意志を県教委に伝えた。要望書を作り提出すると共に、「国連障害者の十年」最終年イベントなどを通じて広く社会にも訴えた。
一九九三年四月、遂に西川竹園高校へ転勤が実現した。しかも、常勤のアシスタント教員が配置され、教材準備や事務処理を手伝ってくれる態勢ができて、支障なく安心して働ける条件が整った。生徒や同僚は当初、障碍をもつ者との出会いに戸惑いを見せていたが、しだいに互いに慣れていき、授業や部活動の場で、必要な協力はしつつも、過剰な意識はせずに一人の教員として見てくれるようになっていった。五年前に現在の新潟西高校に移ったが、通勤経路の点字ブロックや音声信号、教材準備や事務処理用の音声パソコン、授業で板書事項を提示するためのプロジェクターなど、物的環境も充実してきている。順調に日々の教育活動を行っていると言えよう。ただ、アシスタント教員に関しては、制度がないので、毎年の特別措置で配置されていて、保障がなく不安定なままである。

◆「障碍」とは何か

今あらためて「障碍」とは何かと問い直してみる。これまでは、目の病気など体や心の医学的問題、そして「見えない、できない」という個人の能力の問題が「障碍」であると考えられてきた。しかし、私の体験を通して得た実感は違う。そして国連の「障害者権利条約」などでの新しい「障碍」の捉え方も、これまでの医学モデルからの転換を示している。個人の身心や能力の不全は、程度や種類の違いこそあれ、誰にもある問題だ。それでもある種の人たちが「障碍」を感じるのは、日常生活や活動、社会参加において支障があったり困難があったりするからだ。活動や参加を阻む障壁=バリアこそが「障碍」の本質であり、それは個人と社会との間にある。いわば「障碍」の社会モデルと言える。
例えば、車いすの人が建物の二階に行こうとした時に階段しかない。この場合、何が「障碍」か。従来の医学モデルでは、この人の足が動かず、階段を昇れないという機能・能力の不全、つまりその人個人に「障碍」があるとされる。新しい社会モデルでは、階段が「障碍」であり、エレベーターがないことがバリアになっていると捉える。そして、「障碍」の解決も、個人の病気を治せとか、訓練してできるようになれというよりも、その人にとってのバリアを取り除くこと=バリアフリーと、必要な支援と条件を整える合理的配慮を進める方が建設的であるというのだ。
私自身を省みると、物や情報のバリア、制度のバリアも確かに大きな問題としてぶちあたってきたが、心のバリアが最も深刻であると痛感する。それも私自身の偏見や劣等感の呪縛は強力であったし、今も無くなってはいない。それだからこそ、自分自身の考え方、生き方を問い直し続けることが大切であると思う。人が社会をつくり、社会は人に影響を及ぼすのだから、子どもたちの教育やマスコミ報道の責任も重大である。

◆父の道、私の道

さて最後に父のことである。新潟を離れ、塩原のリハビリセンターで点字や白杖歩行、カナタイプなどの技術を身につけ、鍼灸マッサージ師の資格も取得した。治療家としての腕もよく、穏やかな人柄で患者さんの話をよく聴き、五十代、六十代は充実した職業人としての時を過ごすことができた。七十歳で引退した後も、高齢者のデイケアセンターで健康管理のボランティアをするなどしていたが、昨年がんのため七十三歳で他界した。
私は思春期のこととはいえ、父に対して侮辱したり反発したりして本当に申し訳なかったと思う。家族から理解されず、さぞやつらかっただろう。そして四十代後半で一念発起し、高齢になると習得が難しくなるという点字も覚え、その点字を使って解剖学や漢方などの難解な医学用語を理解しながら、治療の技術を身につけていったのは、並々ならぬ努力だったはずだ。そして、仕事ができないことのつらさ、みじめさを味わいつくし、苦しみ、もがき、悩みぬいた末に、職業を通して、自らの力を人のため、社会のために発揮できる喜びを、どれほど大切で貴重なこととしてかみしめただろう。
思えば私自身、自らの心のゆがみで自滅しそうになったことはあったが、さほど重大な危機に陥らずにやってこれたのは、周囲の人たちの温かい支援に恵まれたからである。実に幸運であったと感謝している。そして、父の死後になってようやく気づいたのであるが、私の進むべき道の前を、父が障碍者の自立と社会参加、職業獲得をめざして苦しみながら歩いていってくれたことがあるからこそ、私はその後を自分なりに、さしたる苦労もなく歩めたのだ。今となっては父に恩返しはできない。父の進んだ道を、後輩たちのために更に切り開いていくことが、私に与えられた使命なのだと思う。

栗川 治プロフィール

昭和三十四年生まれ 高等学校教員 新潟県新潟市

受賞のことば(栗川 治)

父が昨年他界し、これまでの父との葛藤を振り返り、悔悟と感謝の気持ちから、今こそ書いておかねばとの思いでつづった文章で、このような賞をいただくこととなり、うれしく思います。本当に多くの方々のご支援のおかげで、今日まで教師を続けてくることができました。これからも自らを省みつつ、心と社会のバリアをなくしていく活動や教育実践に微力を尽くしていきたいと思います。ありがとうございました。

選評(松原 亘子)

二十七歳で失明された高校教師である著者がその現実を受け容れた大きなきっかけとなった同僚の言葉は、「当たり前」のことを言ったものかもしれませんが、読む者みなの背中を押してくれます。また、日常活動や社会参加を阻むバリアこそが「障碍」であるという指摘にはバリアフリーについての考え方を改めて啓発されました。何よりも勇気づけられるのは、中途で失明されたお父様が四十歳代後半からの猛勉強で鍼灸マッサージ師の資格を取り、七十三歳で亡くなるまで社会の第一線で活躍されたことです。