第45回NHK障害福祉賞優秀作品「小さな音楽教室から〜十数年の歩みを振り返って〜」〜第2部門〜

著者:濱口 ゆか(はまぐち ゆか) 愛媛県

一 聴覚が過敏

「寝る子は育つ」と言うけれど、息子を寝かしつけるのには大変な努力が必要だった。少しの物音で目を覚まして泣き叫ぶ。玄関のチャイムや電話のベルはもちろん、時計の針が十二や六に重なる時の「カチッ」というわずかな音にさえ反応して泣いていた。
その他にも人と視線を合わさない、指差しをしない、発語が無いなど、いくつか気になることがあった。一歳半健診では要観察と指摘され、その後「精神・運動発達遅滞」と診断された。
私は悲壮感をどっと背負いながらも、何かしなければならないと焦った。そして二歳過ぎから、障害児対象の母子通園施設で療育を受けるようになった。
息子の状態が少しでも良い方向に向かってくれることを祈っていたが、
「大変ね……」
と声をかけられるほど、その場になじめない様子に落胆する日々が続いた。物音はもちろんのこと、人の気配にも怯えて私にしがみつく。息子と離れてトイレに行くことさえ難しかった。私は我が子の障害について頭では理解できても、心では消化できず精神的に疲れ果てた。
四歳を過ぎた頃、母子分離を目指して近所の保育所へ入所の相談に行った。温かいご配慮により、母子での慣らし通園を経て二年保育で受け入れていただいた。併せて母子通園施設での療育は、週二回の少人数指導へと切り替わり、音楽・認知・感覚統合の三つの分野を集中的に行うようになった。
保育所では、人とかかわりを持つことは難しかったが、コピー機や三輪車などお気に入りの道具を見つけて一人遊びをしているようだった。療育の方は、集団から離れて母と過ごせる心休まる時間だったのか、穏やかに取り組めるようになった。音楽は中でもお気に入りの分野だった。あれほど音を怖がっていたのに、意外な気がした。

二 涙の途中棄権

「イヤ、みんないっしょ」
日々の生活が順調に回り始めたと思った矢先に、息子が突然療育に抜け出すことを拒否し始めた。四歳半を過ぎてやっと出始めた片言で涙をためて主張する。連れ出す時間が近づくと、友達に訴えるようになった。教職の経験があった私は、意図的な指導の意義を十分に理解しているつもりだった。まして少しずつ療育の効果を実感していたので、「なぜ今になって……」という思いでいっぱいだった。三か月ほど無理矢理連れ出していたが、息子の心の中には"みんな"のしめる割合が大きくなっていったようだった。
「これこそ私が望んだことではないか……」私は考えを変え始めた。人の中に入れない、母子分離ができない、と普通の子どもさんの中で過ごす時間を望んでおきながら、自分の考えを息子に押しつけることが良いのだろうか。結局、息子の主張を受け入れて療育を中断することにした。卒園という区切りまで、あと数か月という頃だった。私の心の中に、ぽっかりと穴があいてしまった。

三 リビングの音楽教室

「おばちゃん、ピアノ教えて」
ちょうどその頃、息子と同い年、二歳下の姪二人からそう頼まれた。私は小規模校に赴任していた折、「ピアノを習った経験がある」という理由だけで音楽主任を務めたことがあった。専門分野ではなかったが、
「音楽の道に進ませる気は毛頭ないから」
という姪の母親である妹の言葉に乗せられ、軽い気持ちで引き受けた。その時、ある考えがひらめいた。
もともと発語が遅かった息子は、六歳になっても話したい単語のイントネーションしか出ていなかった。また、物事へのこだわりが強くなり、診断名も「自閉性障害」というふうに変わった。「療育さえ全うできなかったのだから、習い事で生活のパターンが増えることは、この子には負担が大きいだろう。せめて姪がピアノを習いに来ている間、その場に同席はできないだろうか。一緒に歌を歌わないだろうか。歌詞から発語につながりはしないだろうか」。
ひと筋の光を見出したような気がして、私は月ごとに「今月の歌」をとり上げ、歌詞を大きく書き出して姪と一緒に歌わせた。息子は同じように歌おうとしたが、出てくるのは音程とイントネーションばかりだった。歌詞や言葉には程遠い音声を聞くたびに、むなしさでいっぱいになった。
「ポロン、ポーン」
姪が帰った後なのにピアノが鳴った。ふと見ると、さっきまで姪たちが座っていた椅子に息子が腰かけて同じように弾いていた。やみくもにたたくわけではなく、猫背で細心の注意をはらって音を出している。「弾けるかもしれない!」そう直感した。保育所生活で、物事の順番を待つという行為は身についていた。息子は先頭でなければ、みんなと同じ動作をすることができた。また、音が全般的に苦手なわけではなく、「自分の予期せぬ時にふいに鳴る音」に恐怖感を持っていることもわかってきた。歌詞は出ないが、イントネーションが出るということは、音の高低は感覚的にとらえているはずだ。たとえ楽譜が読めなくても、耳から入った音を再現できるかもしれない。そう考えて、翌週から「順番に」というかたちで息子もピアノレッスンに参加していった。

四 試行錯誤のレッスン

いくら順番とはいえ、すんなり楽譜の決まりごとを理解する姪とはわけが違う。音符の名前や調性は全く理解できなかったので、とにかく初めは音符の象徴となる丸をお絵描きさせた。そして、丸が出てきたら鍵盤を押さえるという約束ごとを、手を添えて感覚で伝えた。
耳からも音を入れた。姪も含め、三人で音あてゲームをした。中央のドレミ三音から始め、少しずつ音の数を増やしていった。音の数が増えてくると全問正解というわけにはいかなかったが、おおむね音を聞き分けることができた。何より、わずか一語とはいえ、ドやレと聞き取ることができるレベルで発音するようになっていったことは喜びだった。
姪二人のテキストを羨ましげに見ている息子に気付いてはいたが、まだ普通のテキストは理解できなかった。また、両手の人差し指はうまくコントロールできるものの、残りの四本の指は鍵盤を押さえるのが難しかった。私はスケッチブックに一本指や二本指、五本指の絵を描いてやった。その横にアリやカニ、チョウなどの象徴的な生き物も描き込んだ。「カニさんチョキチョキ」とか「チョウがひらひら」など、情報が視覚的に届くように工夫しながら指が思い通りに動かせるよう、鍵盤の好きなところで何度も練習させた。
次に、カラフルなボールが階段を上っていったり、でこぼこ道をとびはねたりする絵を描き、ボールを追いかける感じで強い音や弱い音、高い音や低い音を出させた。自分で自由に解釈して弾けるため、最後にいつも、
「とっても上手!」
とほめてやると、満足気に微笑んだ。スケッチブックは息子のテキストに昇格した。 少しずつ五線譜に近づける必要があるため、割り箸の先に黒い音符を貼り付け、少し大きめの五線の上で移動させながら、その音符が表す音を私の手を添えて押さえさせることも始めた。その時、ドやレなど音名も言い聞かせた。楽譜は基本的に一対一対応である。このことは、決まりごとを頑なに守ろうとする自閉的傾向をもつ息子にとっては、むしろ好都合だった。
初めはドレミの音符の上に赤黄緑と決めた色を割り当てて塗り、視覚の印象が強くなるように工夫した。七色の色鉛筆を駆使することによって、息子は徐々に楽譜が読めるようになった。市販のテキストでも十分対応できるほどに成長した。

五 初めての発表会

「おばちゃん、私も発表会に出たい」
保育所の友達に招待されて、ピアノの発表会を観てきた姪たちが瞳を輝かせながら言う。たった三人で、ましてや息子のレベルでは、発表になどなりはしない。でも、人に聞いてもらうことを意識するのは、上達への第一歩かもしれない。悩んだ末に、自宅のリビングで発表会を開くことにした。三人とも短い曲を一曲弾くのがやっとだったので、プログラムの間を何とかもたせるために、歌の発表や合奏も加えた。また、妹夫婦と主人にも協力を求めて、連弾で参加してもらった。姪二人は招待したい友達の名を何人も挙げていたが、我が家の小さなリビングに入りきるはずもなく、
「ビデオに撮っておけば、後で何人にでも見せられるから」
と説き伏せた。観客は私の母と伯母だけの、小さな小さな発表会だった。
息子は人にあまり興味を示さないため、気負うことも緊張することもなく右手だけで旋律を弾いた。少しでも仕上がりがうまく聞こえるように、後半は私が伴奏パートを合わせてやった。でも、合わせるという意識をもたない息子は、自分のペースでとっとこ弾くので、追いつくのに苦労した。ほんの数十分の出し物だったが、大袈裟に手をたたいてくれたお客様のおかげで三人とも大満足したようだった。

六 詩とコラボレーション

楽譜が読めるようになったとはいえ、指先の緻密な動きが苦手な息子は、曲の仕上がりが遅かった。それでも自分から好んでピアノに触れていたので、自己表現の幅が広がったことに私は満足していた。ただ、いっこうに語彙が増えない。歌も諦めずに歌わせていたのだが、「まいごのまいごのこねこちゃん」は「ま……ま……こ……ん」にしか聞こえなかった。
息子にとっては、音の高低を調節することと、正しい音声を出すことを同時に要求される歌の方が、かえって難しいのかもしれないと感じるようになった。発音だけに集中できるよう、詩の暗唱を取り入れてはどうかと考え、二年生当時、国語の教科書に載っていたまど・みちおさんの「くまさん」という詩を、上の姪と息子に分担して暗唱させた。発表会の演目にするため、暗唱の後、下の姪とその友人には節付きで歌として披露させた。その間、息子と上の姪はハーモニカで効果音を入れるようにした。姪二人が意気揚々と保育所に持って行った「小さな発表会ビデオ」が意外な反響を呼び、
「楽しそう。一緒に習いたい」
と言う子が増え始めた頃だった。
予想通り、発音だけに集中した息子は、普段自分が話すよりも長い文章を、最後まで言うことができた。最後の「よかったな」というところなどは、「よかったなぁ」と多少のばし気味にして首を傾けながら表現した。
発表会をきっかけに、人に注目されることや、ほめてもらう快感を、覚え始めたように見えた。ピアノを「上手に弾きたい」という欲求も芽生えたようだった。それまでいつもと変わらず淡々と弾いていたのが、手にビッショリと汗をかくようになった。自ら椅子の位置を調整したりもした。程良い緊張感を味わえるようになったのだろう。

七 物語とコラボレーション

私が息子の成長のためにとあれこれ試してきたことは、意外にも健常なお子さんや、その保護者の方々にも興味を持っていただけた。発表会で励ましの言葉をいただいたり、習いたいという申し出を受けたりもした。「ピアノの先生」という恐れおおい名で呼ばれ始めた頃、息子は六年生になっていた。相変わらずピアノに触るのは好き、でもふいに鳴る音は嫌いという状態だった。
話し言葉も、おおむね内容がわかるまでになった。しかし「なぜ」とか「どんなふうに」など、抽象的な質問には、口をつぐんでしまっていた。それは、文章を書く場合でも同じだった。幼い頃から周りの音に恐怖心を持ち、生活体験も少なかったことが影響しているのかもしれない。自分で想像したり、工夫したり、分かりやすく伝えたりすることは高いハードルだった。
「視覚からの情報はよく入るのに……」
そう思った時、一つの案が浮かんだ。物語の挿絵をもとに場面の様子を音で表現させることはできないだろうか。早速、レッスンにとり入れてみた。発表会の観客の中に、生徒の祖父母が増え始めたこともあって、誰もが知っている昔話の「鶴の恩返し」を選んだ。
全員に話の場面を割り当て、大きな用紙に挿絵を描いた。そして、各場面で聞こえてきそうな音や、頭に浮かんできたフレーズをキーボードで探らせた。キーボードには百以上の楽器の音色が内蔵されている。場面にマッチした音色が見つかると、たとえメロディーになっていなくても、それらしく聞こえた。生徒たちは夢中になった。いつもは決まった楽譜通りに弾くことを要求され、少しでも違うと指摘され、直される。ところが、この手法なら自分が主導権を握ることができる。音色も選べる。しかも「間違い」はない。通常のピアノのレッスンをしているよりも喜々とした表情の生徒たちを見て、苦笑したものだ。
ところが、いっこうに息子の音作りが進まない。楽譜の決まりに従って音を忠実に再現するいつもの弾き方を変えられた息子は、立ちつくすばかりだった。「決まり」は息子にとってのよりどころだった。
「あーあ、空振りか……」
思わずそう漏らした時、息子も、
「あーあ」
と言って笑った。その瞬間、私は、
「キーボードで『あーあ』ってお話して」
と叫んでいた。息子の指が同じ拍数でキーボードを押した。「そうだ、息子はイントネーションは再現できるんだ。絵だけではなくせりふをたどらせれば、音の表現も可能なはずだ」。
息子の担当場面は、ちょうどおじいさんが約束を破って、奥の戸を開けてしまうところだった。私は挿絵を見せながら、その部分の話をたっぷり抑揚をつけて読み聞かせた。せりふの声色も変えた。擬音や擬態語はオーバーに表現した。それらをたどる形で息子の創作表現ができあがっていった。
発表会では、さながら「大型絵本の効果音付き読み聞かせ」のような雰囲気で、観客にも好評だった。音楽だけ聞くとつたなさを感じるものの、挿絵とストーリーも同時に進行することで理解の手助けになっていることを実感した。息子が持っている世界を垣間見たような気分になった。翌年からは、挿絵を描くことも生徒に割り当てた。大きさや画材などほんの少しだけ制約を設け、最後に、
「じゃあ、あとは自由にお願いね」
と任せると、みんな眉がピクッと上がり、口元がニヤリと動いた。その表情は、私が保護者の方々より先に見てしまうにはもったいないほどのものだった。そこで、写真に記録して発表会で掲示するようにした。

八 俳句とコラボレーション

音を足がかりに広がっていった息子の表現の世界を、最終的には言葉と結び付けられないかと考えていた。息子は中学生になり、意思の疎通はだいたいできるようになった。しかし、受動と能動の区別がうまくつかなかったり、助詞の使い方に戸惑ったりする場面もあった。そこで、言葉を選んだり置き換えたりする練習の小さな単位として、俳句をとり上げることにした。
愛媛県は、俳句にゆかりのある地だ。多くの有名な俳人も輩出している。学校でも取り組んでいるので、生徒たちにも馴染みがあった。「ザ・十七音」と題して、まずテーマにそった俳句を詠む。文字数と同じ十七の音符を使って、その句の様子や情景を表すメロディーを作る。キーボードには音色だけでなくリズムのデータもたくさん入っているので、それらを自由に組み合わせてオリジナル曲を制作させた。この作業は、物語曲を作る過程よりもいく分複雑になるので、中学生以上、後に小学校高学年以上を対象にした。
息子にとっては、俳句を作ること自体が一つの山だった。円を十七個描いてやり、五と七のところだけ埋めていった。感情をストレートに表す言葉はなるべく控えさせた。日頃の会話でおもしろい言い回しをすると、
「今の、俳句になるんじゃない?」
と書き留めさせたりもした。残りの五のスペースに俳句の心情と関係がありそうな季語を入れる、「取り合わせ」の手法を利用した。言葉で表しきれなかった感情は、音やリズムで伝えるようアドバイスをしたりもした。
最初は四分音符を十七個と考えて鍵盤を探らせた。慣れてくると、変化をつけるために小節によっては和音にしてのばしてみたり、八分音符を混ぜたりもした。さらに、作った俳句そのものも文字の配置や形を工夫して、各自で大きめの紙に筆で書かせた。色彩でアクセントを付けたりもした。新しい試みが、発表会でも好評を博した。生徒たちの書や物語の絵は、地域の美術展にも出品し始めた。

九 あの場所で再会

息子は高等部二年生になった。音楽と様々な要素を組み合わせながら、のんびりとピアノレッスンは続いている。テンポの速い曲は難しいが、譜読みはかなりのレベルまで進んだ。発達検査では伸びがみられるということで「広汎性発達障害」と診断されるようになった。
社会との接点を探るために、職場体験実習にも積極的に取り組んでいる。先日、かつてリタイアした母子通園施設を訪れた。息子の成長ぶりに、
「タイムマシンに乗ってるみたい」
と先生方が目を細めてくださった。
「よろしくお願いします」
そうはっきりと発した息子の言葉が胸に響いた。園児さんたちの遊びの補助や大掃除の手伝いなど黙々と取り組む様子に、適性があるという評価もいただいた。ちょうどクリスマス会が開催され、急きょ出し物として息子のピアノ演奏のコーナーも設けていただいた。怖かった音、怖かった人、怖かった場所が、十数年の歳月を経て活躍できる空間へと変わっていた。私も、穏やかな表情でその場に立つことができた。
息子の音とのかかわりに端を発した試みは、私自身にも大きな収穫をもたらせてくれた。工夫してきたことの効果は、障害の有無に関係なくどの生徒にも表れた。今では、日々忙しい生徒のみんながどうすれば意欲的にレッスンに向き合えるかということが先に立ち、息子のことは後回しになってしまう。
決して簡単ではないけれど、息子なりの社会参加ができるように今後も後押しをしていきたいと思う。そして心の安らぎと、ほんの少し、技術の向上も目指しながら、ずっと一緒にピアノを続けていきたいと思っている。
「ぼくは、この曲が格好いいと思う」
今日も息子は、ラフマニノフの前奏曲「鐘」を一生懸命練習している。

濱口 ゆかプロフィール

昭和三十九年生まれ 音楽教室講師 愛媛県鬼北町在住

受賞のことば(濱口 ゆか)

賞をいただき大変光栄です。私と息子、二人だけではとうてい継続することのできない歩みでした。未熟な私のもとに通ってくださった生徒さんや御家族、息子の成長を支えてくださった先生方やお友達、保護者の方などすべての皆様に心から感謝いたします。
   今後も「教える」という立場よりむしろ、「ともに成長を喜び合える」サポーターの立場であり続けたいと思います。本当にどうもありがとうございました。

選評(山口 薫)

自閉症の子どもは、最初から知的障害の学校や学級に入れられてしまうなど、適切な教育の場の整備が遅れ、指導法も十分確立していない中で、ご自分でピアノレッスンのスモールステップによるすばらしい指導プログラムを開発し、自閉症のわが子だけでなく、地域の子どもへも拡げ、自らも大きな成長を遂げていく過程が見事に描かれています。
知的障害とは違う自閉症の子どもの指導の在り方へ貴重な示唆が与えられたと思います。