第45回NHK障害福祉賞矢野賞作品「あたり前に生きる」〜第1部門〜

著者:内野 俊哉(うちの としや) 長崎県

私の筋萎縮性側索硬化症(ALS)との出会いは、一九八八年二月ふきのとうが頭を擡げる頃でした。それは言葉から始まり、何となく発声が普段とは違うのでした。
近くの耳鼻咽喉科医院で受診はするものの、学年末の多忙さにかまけて、一か月以上が過ぎました。酒も飲まないのに呂律が回りにくくなるのです。「これはおかしい?」不安が募る初春の日々です。
悪いことは重なるもので、父危篤の報で急遽帰省します。慌ただしい中、対馬いづはら病院(当時)新築完成に伴い患者大搬送です。父は、新病室(ICU)に移り、幸いなことに日ごとに快復に向かうのでした。
安堵した私は、年度末近くに大村市に在る、国立長崎中央病院(当時)神経内科の森正孝先生に辿り着いたのです。
詳しい診察、筋電図検診、筋生検の結果、先生は「進行性球麻痺」とだけ言われました。今にして思えば、私のメンタル面を配慮してのことだったのです。
図書館、書店で医学本を貪り読んだものです。本で得た朧げな知識と症状は一致するのでした。そこには「三年の命」と恐ろしいことも書いてありました。強がりなのか、楽天的な性格なのか、「ケセラセラ」を口遊んでいたことを思い出します。
ALS(Amyotrophic Lateral Sclerosis)とは、原因も治療法も未解明で、運動神経のみが侵される神経難病です。
元大リーガーの打撃王、ルー・ゲーリックが一九三九年に罹患したことから、米国ではゲーリック病と言うこともあるそうです。
毛沢東は、一九七二年のニクソン大統領との、歴史的会談後に発症していることが判明します。会談中も立ち上がることも困難なほど症状が悪化していたと伝えられています。その年には、日中国交正常化が樹立しました。
新年度、生徒の直向きさに励まされ、杖とAV機器を駆使し教壇に立ちます。決してチョークを折るまいと自分自身に誓うのでした。
諫早の五ヶ原岳に錦雲を見た数日後、秋の夕暮れの出来事です。仕事が遅くなり同僚と「お疲れさま」を交わした直後のことです。コンクリートの校庭で転倒したのです。
同僚のテールランプは虚しく門外に消えて行きます。自分の車まで約十m、足掻けば足掻くほど蟻地獄です。つるべ落としの秋の日のこと、見る見るうちに日は暮れ常夜灯が侘しく光ります。「落ち着け」自分に言い聞かせ、煙草に火をつけ一服します。悪戦苦闘の末、這いずりながら花壇の縁石に辿り着き、起き上がることができたのです。
ポカポカ陽気の日、気分転換のため富川渓谷を妻と車で訪れました。過去の大水害の除難を祈念しての羅漢が印象的です。東京のワンダーフォーゲルが足を休めていました。
水は限りなく清みきっています。沢ガニと戯れていると、妻がカワニナを見つけました。カワニナと清流、梅雨晴れの日、夜の帳が降りると、幻想的なゲンジボタルが飛び交うことに思いを馳せながら、清流に浸り、マイナスイオンを浴び、身も心も癒されるのでした。
私の病のこともあり、クラスは日増しにまとまりを見せます。文化祭に向けて、全員で模造紙四十二枚の大絵画「夢の諫早」に取り組みました。一人一枚の責任分担です。文化祭の日、三階から地面に垂れ下がった絵画に大歓声があがりました。顧問をするクラブの影絵劇上演、放送部の朗読も好評を博しました。互いに労を惜しまず没頭できた結果です。
その年の暮れ、福岡行きの「かもめ」に夫婦の姿がありました。おそらく見納めになるであろう福岡への二泊三日の、小さくて何時までも記憶に残る旅でした。
足はよく訪れた天神に向かうのでした。心配した交差点も何とか無事渡り、紀伊国屋書店、パソコンショップ、オーディオショップ、デパートなどを巡るのでした。ホテルに入る前に博多駅のデパートで、とても上品な会津塗の屠蘇器セットを目にしたのです。
その時、ある思いが頭をよぎったのです。「三年の命に挑戦しよう。そして、二十一世紀の夜明けをこの目で確かめたい。またその年に、自分が企画したタイムカプセル同窓会にも参加したい」と。決して安くない買い物ですが、お屠蘇に希望を託したのです。
一九八九年二月、階段の踊り場で倒れ意識を失い、救急車に乗せられます。救急隊員が・何処の病院へ?」意識朦朧の中、「国立病院」と答えたと、後で主治医の先生に聞きました。
二十日間の入院は恐ろしいもので、すっかり手足は動きにくくなり、歩くことも困難に、車も運転できなくなりました。
その年、病のこともあり郷里厳原に転勤することになります。我が家では新築記念に植えたハクモクレンが迎えてくれました。
一週間後、コミュニケーションの困難、歩行難儀のため、志半ばで教壇を降りることになります。心残りの背中に、桜の花びらが舞ったことを決して忘れることはできません。
でも、私には大仕事が残っています。この年出版の「長崎県の生物」の長崎県のホタルの原稿を仕上げることです。アキマドボタルの研究はライフワークであり、二年間かけた原稿は無事日の目を見ることができました。
生活改善のため、パソコンは手を天井から吊って操作、手すりの設置、車いすでリハビリ通院、日本ALS協会に入会します。
パソコンで、厳原町健康管理センターのリハビリ便り「希望」を定期的に発行しました。高校生ボランティアに影絵、操作技術を教え、「ふれあいクリスマス会」の企画に参加し、影絵劇を上演しました。
症状はさらに進行し、大晦日に第九を聴きながら、マイルドセブンを一息一息味わうのでした。最後の煙は、何処へとなくゆっくり消えてゆきました。煙草を吸う力も無くし、この日限りの青い煙に別れを告げました。
懸命に生きてきたものの、パソコンが打てなくなり、体重は三十八�まで落ち、体力も精神力も衰えてゆく自分に気づくのでした。FM放送を聴いていると、カーペンターズの「イエスタデイワンスモア」が流れていました。
そんな時、意思伝達装置があることを知り、介護専従主婦の妻が日本ALS協会に電話をしたのです。その結果、意思伝達装置を導入しました。島の山々、我が庭はゲンカイツツジで、うす紅に染まっていました。
一本の電話が私をポジティブにし、夢は膨らみます。坂村真民の「二度とない人生だから 一ぺんでも多く便りをしよう 返事は必ず書くことにしよう」に習い、溜った手紙などを打ちまくりました。それ以来笑顔の私はいつも意思伝達装置を前にするのでした。
その後、アマチュア無線(ham)仲間にパソコン入力支援ソフト「HBKey」を開発して貰います。設置、設定とまさにおんぶに抱っこの支援で、ham(パケット)、パソコンを再開できるようになりました。我が家は感謝、感謝に包まれるのでした。
うれしいことは続くもので、一九九四年のある日突然、諫早の教え子が福岡から海を越え、大学入学報告のため玄関に立っていたのです。思いがけない六年ぶりの再会に、うれしいやら感激で積もる話は尽きません。彼女の真珠のようにキラリと光る素敵な贈りものでした。
前後して数名が諫早、長崎、福岡から顔を見せてくれます。島内からも多数の教え子、同僚、知人が来訪するのでした。
この年家族が増えました。義妹親子が介護手助けのため引っ越してきたのです。我が家は、楽しく賑やかになるのでした。
甥は翌日からリハビリについてきます。ホタル観察にも共に行き、ホタル乱舞の印象を、全紙大の紙に描き感動を表します。
彼が小学生になる頃、「ぼくがお医者さんになって、おじちゃんの病気を治してあげるからね」と言うようになります。その彼は夢が叶い、現在医学生で頼もしい存在です。
忘れてならない存在は、対馬いづはら病院、伊藤院長です。リハビリ通院、肺炎での入院、停電入院など何かにつけ親身にアドバイス、お世話をいただきました。
生活も考え方も一八〇度変わり、プラス思考になるのでした。「昨日の俺はさようなら、今日の私にこんにちは」です。このことは、ポジティブシンキング(Positive Thinking)と言われています。
プラス思考で、自分を発揮できるような精神状態を保つための自己暗示のことです。ネガティブに陥らない考え方、プレッシャーに負けない考え方などの積極的思考です。
人の温かい心、パソコンなどに救われた私、生き甲斐を見つけた私です。パソコンは、私にとってかけがえのない心の友、財産であり、人生そのものと言っても過言ではありません。
パソコンの楽しみを再び味わうと、夢はとめどもなく膨らむばかりです。今のパソコン機能に満足できず、爆発的ブームのWindows 95装備の新機種に買い換えました。
CD-ROMで広辞苑、図鑑、地図、一〇〇冊の本などを利用しています。これで本などが介助なしで読め、重宝しています。啄木、ジィド、寅彦に親しみ、源氏物語を完読しました。
一九九六年、自発呼吸はあるものの気管切開に踏み切ります。肺炎で繰り返し入院するので、主治医、耳鼻咽喉科の先生の微に入り細にわたるインフォームドコンセントを受けます。
ホタルに似たツユクサの可憐な花を車窓に見てICUに入ります。何のためらいもなく気管切開をし、レスピレーター(respirator)(以下、呼吸器)と永遠の付き合いを始めました。それでも家族、音楽、パソコンはいつも傍にあり、私を勇気づけてくれるのです。
生命の尊厳は、授かった命をいかに生き全うするかにあると思います。岩場に咲くスミレのように、悪環境でも美しくたくましく生きる。その心の持ち方、生き様にあります。
気管切開のため声を完全に失い、妻との意思の疎通は、アイコンタクト「あかさたな」で交わします。その他顔の動き、頭文字で約束事を決めています。来訪者には妻が通訳し、複雑な事柄になるとパソコンを使います。
家族を呼ぶ時は、呼吸器に圧力をかけアラームを鳴らし、専用微弱無線機で伝えたり、ケータイにパソコンで信号を送ります。
一九九七年にはインターネットを始めました。知識、コミュニケーションの拡大は計り知れません。検索、メール、Web新聞、電子図書、ショッピングなどを楽しんでいます。好奇心は明日へのエネルギーの源です。ベッドの上の私は毎日がいきいきしています。
折しも、対馬いづはら病院のマルチメディア在宅医療支援システムモデル事業が開始しました。これは、ISDN回線を使用し、毎日心電図、血圧、体温などを自動計測し、病院のホストコンピュータに送信します。必要があれば医師とテレビ電話で相談します。在宅療養患者の健康管理を推進、支援するシステムで、これにより安心が深まりました。
これには思いがけない出会いもあります。菅直人さんが来訪されたのです。テレビ電話で主治医と、システムの活用、在宅患者の状況などの質疑応答を交わされました。
厚相当時、ALS患者に面会したことがあり、「ぜひ激励したい」と予定を変更しての来訪とのことで、まさに一期一会の出会いです。
会話のなかで「いい笑顔ですね。笑顔が一番です」と言われたことが、脳裏に焼き付いて離れません。
さらに、長崎県離島医療研究会が長崎市で開催され、テレビ電話を会場と結び参加しました。長崎会場ではアグネス・チャンさんが参加され、彼女を画面に見ながら意見交換をしました。
ALSに関しては多くの出会いがあります。
研修医、看護師、医学生、看護師生、保健師生、リハビリ生、養護教諭生の院外研修、患者家族の実態把握来訪などを受け入れており、現在も交流が続いている人もいます。
また、ALSの特殊性、在宅療養、パソコンの活用、マルチメディア在宅医療支援システムなどの関係で、病院、開業歯科、保健所経由で、全国から医療関係者、県市町会議員、職員などの来訪があります。ALSを多くの人に理解して貰うために全て受け入れてきました。両者合わせて数百人にのぼります。
さらに、シーボルト大学教授(当時)は情報処理について数回来訪され、長崎大学教授はオーディオ機器制御、パソコンで毎年来訪され、指導、支援をいただいています。
二〇〇〇年、ヒトツバタゴの真白き花が咲く頃、構想に構想を練ったホームページ「なんじゃもんじゃランド」が完成、六月に開設しました。夢は一つ実現し、コミュニケーションは限りなく拡大しました。
ページは、ヒトツバタゴ、ヒトツバタゴ写真集、アキマドボタル、ツタンカーメンのエンドウ、植物名の由来、山菜などの生物分野、理科自由研究、ALS、短歌、吉田絃二郎作の「島の秋」、対馬と自然の紹介サイトです。
ホームページでも多くの出会いがあります。なかでも、ホタル研究家が三年にわたり福岡から来訪されました。また、ヒトツバタゴに魅せられ、移植、学校間の交流と意欲的に活動をしている中学校のK先生が埼玉県から来訪され、現在も交流が続いてます。こんなうれしいことはありません。
新世紀明けの一月二日、タイムカプセル同窓会の日です。タイムカプセルは、二十七年前の一九七四年、第二十七回厳原中学校卒業式に、夢と希望を託し、再会を誓って埋設したものです。
主治医の先生、訪問看護師二人、理学療法士、妻の付き添いでタイムカプセル掘り起こしに、ストレッチャー車で参加しました。
その日は黄砂が飛来し、北西の風が吹く厳寒の日でしたが、心は興奮と感動で熱く燃えていました。私自身が企画推進したもので、何があっても参加する決心を固めていました。
一一〇数人の同窓生、教師が全国各地から馳せ参じました。車の窓を開け参会者と対面、声をかけてくれ感涙の再会でした。
夜の懇親会には参加できませんでしたが、翌日届いたビデオ、寄せ書きでその模様を知ることができました。
・開けごつ」儀式に続き、再会の悦び、感動で夜の更けるのも忘れるくらい語り、飲み、歌い、踊る様子に感動しました。タイムカプセルは、二十七年間の時空を超え、同窓生をあの夢多き頃にタイムスリップさせるのでした。
折しもその日、諫早での主治医、月一回の特診神経内科の森先生が対馬いづはら病院長として着任されるのでした。
これほど不思議なご縁はありません。息子二人は諫早で理科を教え、娘Lさんは米留学からのメル友、夫人は妻と中学、高校の同窓生なのです。そういう訳で家族ぐるみの交流が続いています。
その年の九月、療養環境改善のため部屋を広くリフォームしました。壁、天井をひのき張りにし断熱材を入れ、床下には木炭を敷き、排水設備、直接出入りできるドアを設けました。きっかけは、七月に梨状窩の歯冠根部除去のため救急車で緊急入院したこと、入浴サービスの利便性をはかるためです。
二〇〇三年、古くなったパソコンを買い換え、Windows XPとスキャナを導入し、パソコン環境が一変しました。
パソコン入力は、入力支援ソフト・オペレートナビEXを導入し、身体で唯一動く首を左右に動かし、タッチセンサースイッチを頬で操作しています。
二〇〇四年、短歌を始めました。還暦過ぎの手習いです。本、テキストのページをめくることができないので、インターネット、NHK短歌、新聞短歌、CD-ROMで学んでいます。
四季の移ろい、生きとし生ける物、身辺の出来事を詠み、新聞投稿、短歌大会に応募しています。啄木風短歌全国公募、NHK全国短歌大会、朝日新聞長崎短歌、日本歌人クラブ全九州短歌大会など、入選の感動は大きな励みになり、生き甲斐でもあります。短歌を始めて生活に活力と潤いが出ています。
二〇〇五年三月二十日十時五十三分、福岡県西方沖で地震発生、対馬市で震度四を記録しました。ゴーという轟音の後、ベッドがガタガタと揺れ約三十秒間続きました。初体験で、一瞬「何事か?」と思いましたがすぐ地震だと解りました。
この年、二階からリスニングルームを移動しました。三十年前の大型スピーカーNS-1000 MONITOR、スーパーウーハーは健在で柔らかみを増し、現在も満足な音を出しています。
音楽療法が脚光を浴びています。モーツアルトの音楽効果は言うに及びません。哀しい時には、ブラームスの交響曲第三番など哀しい曲を聴くと、ダブルマイナーと言って癒し効果があると言われます。
現在まで音楽のない生活は考えられません。入院時もヘッドホンを耳にします。クラシック、ジャズ、洋楽で心揺さ振り、ときめき、安らぎ、音楽は心のふるさとなのです。 長崎大学工学部教授、石松隆和先生他からオーディオ制御装置を製作・設置いただき、ベッドにいながら、パソコンでオーディオ器機をコントロールしています。
二〇〇六年二月には感動の再会がありました。二十年ぶりにham(アマチュア無線)の友人が篠栗(福岡県)から来訪したのです。
私が病の床に居ることを知り、「対馬のJH6BWD(私のコールサイン)に会いたい」と口癖のように言うのを、娘さんが見兼ねて、背中を押されて親娘共に来訪したのです。
積もる話に花が咲きます。娘さんとは初対面ですが、とは思えないほど話にとけ込み、優しく、デリカシーに溢れています。まさに「この親にしてこの子あり」です。
ham、対馬、篠栗の思い出、仕事、趣味、病など話は尽きません。楽しく、懐かしく、感動のひとときで、生きる勇気を二人に貰い、心のアルバムに刻まれるのでした。
感激の余韻に浸りながらチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番、スメタナの「わが祖国」を聴き、心地よい眠りにつくのでした。
在宅療養の現状は、主治医の定期往診、訪問看護、必要に応じての訪問看護態勢、訪問リハビリ、他科往診治療、開業歯科の往診治療、保健師の訪問、レントゲン検診、外出支援車サービス、入浴サービス、業者の呼吸器点検、地域見守り支援システムと比較的恵まれていて、安心して在宅療養ができています。
ALSを発症し在宅療養を続け、家族と喜怒哀楽を共有し、友人の贈り物シルクロードの水墨画、森夫人に描いて貰った短歌色紙に目、心を潤しながら二十二年目の夏を迎えました。
現在、胃ろうで経管栄養を摂り、呼吸器を装着、吸引などと五体運動不能で、寝たきりですが年に一度、樹齢四十一年のヒトツバタゴ観察のため車いすで庭に出ます。それは、一服の清涼剤であり、命の充電でもあります。
ALS患者のアイデンティティ(identity)は、「あたり前に生きる」ことだと思います。自分にできる事を深め、ごく普通に生きる証を心の足跡とすれば、光はきっと見えてきます。iPS細胞は、現実的になりつつあります。
多くを望まなければ、幸せはどこにでもあります。音楽に心癒され、読書を心の糧とし、短歌を詠み、パソコン、インターネットをする時、私は小さな幸せを感じます。
ALS発症直前に読んだサムエル・ウルマンの「青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう」、真民の「二度とない人生だから」を座右の銘として生きてきました。
誰の心にも陽はまた昇ります。家族や多くの人に支えられ、今日を前向きに生き、身体は蝕まれても、心は青春であるために、あしたに夢、理想を追い求めてゆきます。

内野 俊哉プロフィール

昭和十六年生まれ 無職 長崎県対馬市

受賞のことば(内野 俊哉)

体験記「あたり前に生きる」が、矢野賞を受賞したことは身に余る光栄です。その理念から私にとってはプラチナメダルを授かった気がします。在宅療養生活の励みになり、二十二年間介護に明け暮れた妻、家族の労を労うものと大変感激しています。これは、多くの心温かい支援によるものと感謝します。
二度とない人生だから、自然、人、音楽を愛するポジティブな生き様が実を結んだものと思います。これから種子を蒔きます。

選評(中村 季惠)

筋萎縮性側索硬化症(ALS)を四十代後半に発症してから二十二年、刻一刻と身体の自由を奪われていく日々を克明に描写している。遠隔からコンピューター回線によって体調を監視する在宅医療支援システムに守られながら、身体で唯一動く首を使って頬でパソコンを操作し、読書、音楽鑑賞、ホタルの研究、短歌の創作、さらにはその発表の場としてホームページまで立ち上げてしまう。ご本人は「プラス思考」とあっさり言うが、その強靭な精神力、旺盛な好奇心にただただ圧倒される。教師時代から人々の信望を集めた人柄が、発症後も温かい支援や感動的な再会につながり、生きがいや夢の原動力になっている。もうひとつは、パソコンの存在。ご本人が、「パソコンは、私の心の友、財産、人生そのもの」と記されているように、まさに生命の尊厳を根底から支えるパートナーになっていることに、時代の光明を見た思いがする。「幸せはどこにでもある」という言葉がズシンと胸に響いた。