第45回NHK障害福祉賞最優秀作品「「共に生きる」ダウン症のナナと里親の私が親子になった」 〜第2部門〜

著者:鶴丸 富子 (つるまる とみこ) 京都府

ナナ、十二歳、ダウン症、六年生です。地域の小学校の育成学級(特別支援学級)に通っています。口癖は「できる」「やりたい」。
「出来る人?」「は〜い!」「やりたい人?」「は〜い」
何でもかんでも手を上げて、前に出ようとします。
「体操の号令をかけてくれる人?」「は〜い」
数を数えられないのにどうするのかしらと見ていると、「いーち、いーち、いーち、いーち……」と堂々とやっています。度胸も満点です。人が好きで、朝の登校時はすれ違う人すべてに「オハヨー」「オハヨー」「イッテキマース」と声をかけています。
テレビを見ていると「あれ、やりたい」「行きたい」「できる」の連発です。大好きな大相撲中継を見ながら土俵を指差して「行きたい」「やりたい」とおねだりされます。この根拠のない自信はどこから来るのかしらと不思議に思うほど、自己肯定感の強い子です。欲しいものは腕ずくで取り上げるし、いけずで、自己中心的で、わがままな性格ですが、明るくて、人懐っこくて、愛嬌たっぷりなので、みんなから「ナナちゃん」「ナナちゃん」と声をかけられて、可愛がられています。
そんなナナと共に生きてきた日々を走馬灯のように思い返しています。

《出会い》

三歳のナナ(仮名)と初めて出会ったのは私が五十二歳の時でした。養育里親をしていた私に児童相談所から紹介があったのが、三歳のダウン症、女児のナナでした。ダウン症の幼児と接した経験がなかったので、「顔を見てから決めさせてください」とお願いして、夫婦で乳児院に会いに行きました。会ってみて何の抵抗もなかったのでその場で引き取りを決め、同行していたケースワーカーに伝えました。
引き取りの日まで少し時間があったので、八月のある日、外出許可をもらってプールに行きました。乳児院にお迎えに行って、紙オムツのあて方やベビーカーの使い方など、簡単なレクチャーを受けてから出かけました。水着に着替えて「さあプール!」という時に「えっ! ウンコ?」……水着の中に大量のウンコが……で、あわてて水道のところに行きました。そこで水着をぬがせてから「ゲッ! 私が素手で洗うの?」と、思わず辺りを見回しました。水道の蛇口があるだけで、シャワーも、スポンジもタオルも何もありません。はっきり言ってこの時はまだ赤の他人でしたから躊躇しました。しかし「こんなところで引くわけにはいかない」と思いなおして「えいっ!」と手を入れました。ナナのお尻はあっというまにきれいになって、一件落着でした。実際に行動してみると、何ほどのこともなく、あまりに簡単なことだったのですが、この「えいっ!」と飛び込んだ気持ちと「やれる」という手ごたえが、母になる覚悟を後押ししてくれました。忘れられない一日でした。
それからしばらくして、二○○一年九月一日に三歳四か月のナナが私たちの家族になりました。ラッキーなことに、このときすでにナナは「愛育園」という障害幼児の通園施設に在園していました。障害幼児の療育に関して高い意識と専門性をもち、保護者を支えようという基本姿勢の感じられる通園施設です。この愛育園の先生方が、ダウン症のナナと突然親子になって、不慣れなままに第一歩を踏み出した私の最初の四年間をしっかりと支えてくれました。
また、ナナの体調管理の面でも思いがけない幸運がありました。鼻風邪で近所の小児科を受診したときのことです。パッと顔を見て「初めてですね」と言われたので「九月一日から引き取って、育てています」と、ナナの体調の傾向や生育歴を知らないことなども含めて、簡単に事情をお話しました。「よく引き取ってくださいましたねぇ。ダウンちゃんはたくさ〜ん診てきて経験がありますから、大丈夫ですよ。お力になれることがあれば、何でも相談してください」というお返事でした。以来、ずっと安心してお世話になっています。
信頼できる専門医に支えられて、「共に生きる」暮らしが幸先良く始まりました。

《言葉の発達とコミュニケーション》

まず最初に考えたことは、ナナとどうやってコミュニケーションをとるかということでした。三歳五か月で発語がなく心配でしたが、そのうち、ぶーぶーというバブリング(喃語)から始まって、小さな赤ちゃんが言葉を発するまでの過程そのままに、順々に発語の準備ができていきました。しかしその発達はゆっくりで、四歳を過ぎて単語の末尾の一音を発声できるようになり、その後、末尾の二音が発声できるようになり、五歳半でようやく十個くらいの単語が言える程度でした。
ナナが三歳十か月の時に、言葉がなくても会話できる「ベビー手話」という方法を知って試してみました。まずは日常生活に必要な「ちょうだい」「待って」「もっと」「ごめんなさい」から。ナナが動作しやすいポーズを考えて、わが家の独自のサインを決め、家族みんなが言葉と共にそのサインを目の前で大きく表現するように心がけました。これらのサインは案外簡単にナナの中に定着できたように思います。にぎった両手を顔の前で合わせる「もっと」のサインを教える時は、洗濯物入れのかごにナナをいれて、娘(当時二十二歳)と二人で持ち上げて、ゆらりんゆらりんと揺らしてやり、動きを止めるたびに「もっとか?」とサイン付きでたずねて、そのサインを真似てできるとほめて、何回も何回もゆらしてやりました。「もっと」は、この時のたった一回の練習で定着しました。キャッキャと喜ぶナナがかわいくて、私たちにとっても楽しい遊びの時間でした。
このサインを使う方法は大成功でした。ほとんどの単語にナナなりのポーズがつくようになり、ナナが伝えたいことを表現する上で大きな武器になりました。朝、ご飯を手渡すと、ナナが「まご・まご……」と言いながら、にわとりのポーズをします。「卵かけご飯がいいの?」ときくと、うれしそうに「うん」と答えます。発語は困難でも「伝えたい!」という思いを強く持っている子でした。
このやり方は十二歳の今も愛嬌のあるしぐさを伴って、お互いの意志の疎通に欠かせない役割を果たしています。
五歳八か月で「ちがう!」という言葉を獲得してからは、ナナのやり取りが一段と面白くなりました。ナナは歌が大好きで、大声で気持ちよさそうに歌っているのですが、音程も歌詞もまったく理解できません。一緒に歌おうと誘われるのですが、さて何の歌やら??? ナナは「この歌」と思って歌っているらしく、それ以外の歌を歌うと、「ちがう!」と言って譲りません。いろいろ試してみて、はずれるとパコンと叩かれたりしながら、わずかなサインを頼りに推理します。「雪やこんこん」とか「いぬのおまわりさん」とか、ようやく正解にたどりつくと、ナナは本当にうれしそうな顔をして、一緒に合わせて歌います。
しかし、サインに助けられた会話はそのサインを共有している家族や先生には通じますが、他の一般の人との会話が成り立たないので、外の社会とつながる為には言葉の発達がどうしても必要でした。ナナは小さい頃から他の子どもに乱暴することが多く、押したり叩いたり、髪の毛を引っ張ったり、おもちゃを取り上げたり、しょっちゅう他の子を泣かせて、怖がられていました。叱っても、言い聞かせても、お願いしても、どうしてもその行動を修正することができませんでした。ただただ平謝りするしかなく、悩みの種でした。ナナのそうした行動は、もともとの性格もあるでしょうが「一緒に遊びたい」とか「やめて」「貸してください」など、相手に伝わる言葉が出ないもどかしさにも一因があったと思います。
九歳から十二歳の三年間で発語の能力が急激に伸び、二語文、三語文が増えて、コミュニケーションの能力が大幅にアップしました。周りにいる人や一般の人との会話がわずかでも成り立つようになると、それに伴って社会性も身についてきて、問題行動が減り、落ち着いてきました。他人に迷惑をかけて謝る場面も減りました。「ナナの成長は言葉の発達とともにあり」です。
私は、発語の意欲と能力を高めるのは「伝える、伝わる喜びを知る」ことに尽きると思っています。伝えたいことが相手に伝わった時のナナの満面の笑みがそれを実証しています。だから、どんな時でもナナの言葉をサインも含めて、一生懸命に聞こうとします。しかし、何回も聞き返しても伝わらないこともあります。「わからないわ、ごめんね」と言うと、残念そうに「仕方ないな」という顔をしてあきらめます。逆に、何回もやり直した後で正解が伝わると、「うん」と最高にうれしそうな笑顔になります。その笑顔を見ると、いつも、もっともっと耳を大きくして心をこめて、一生懸命に聞かなければいけないなと思います。
ナナのように、コミュニケーションをとることに困難を抱えている子どもたちは、大人の側の「聞く力」を試しているのかもしれないなぁと感じつつの毎日です。

《怖いという気持ちの克服と運動能力の発達》

三歳のナナと初めて家の外へ出たとき、五センチくらいの段差に足がすくんで動けなくなっていました。両手を持って、そっと下ろしてやると前に踏み出すことが出来ました。愛育園の記録では「十五センチの段差を片手をつないでピョンと飛び降りる」と書いてありましたから、その頃は、家庭に引き取られたばかりで、幼いなりに環境の変化におびえて固まっていたのかもしれません。愛育園の中では安全・安心の空間で、のびのびと体を動かすことができていたのでしょう。以来ずっと、ナナにとっては生活のあらゆる場面で「怖い」を克服することが、運動能力をアップさせることに直結してきました。
ナナの一番の苦手は階段です。上るほうはともかく下りが大変でした。怖いのか、足がすくんで固まってしまいます。はじめはおんぶして下りていましたが、体重が重くてそれも無理になり、駅の階段の上り下りでは、電車を一本見送るのが当たり前の状態でした。十二歳の今でも、片手を手すりに置き、片手で私の手をにぎって一段一段両足をそろえながら、慎重に下りています。急ごうとすると「ゆっくり行こう」と言って立ち止まってしまうので、ナナに合わせるしかありません。
こんなぐあいでしたが、駅の階段は、確実に成長し続けるナナを感じられる貴重な「場」でもありました。「手すりから手を離して三段上れた」「五段上れた」と、その一段分の成長に数か月もかかるので、その度に感動がありました。だから、ナナのスローペースにもめげることなく、どこにでも一緒に出かけています。
怖がりのナナの最近のエピソードです。五年生の夏休みから、お母さんと自転車を二台並べて走るようになりました。歩いて十分くらいの所にあるスーパーへ行くのですが、ナナは毎回毎回家の前で「怖くない! 怖くない!」と二回声に出して、自分を励ましてから出発します。家のそばの急カーブの下り坂では、一旦停止して「怖くない!」と声に出して気合いを入れてから、勢いよく突っ込んでいきます。走りながらも、ときどき「怖くない!」と、独り言のようにつぶやいています。一度だけ急カーブを曲がり損ねて土手に突っ込んでしまいました。その次の日の買い物では、足がすくんで、固まって、どうしてもカーブに入っていくことができず、とうとうあきらめて家に引き返し、一時間以上へこんでいました。その後、「怖くない!」と気合いを入れ直し、必死に頑張って、その日のうちに克服することができました。最高の笑顔とガッツポーズがありました。
ちょっと太めのナナのために、学校生活以外に、障害のある子どものためのスイミングや、レスリング教室や体操クラブなど、体を動かす機会をいろいろ設定しています。しかし、ナナが他の子どもたちのように生き生きと伸びやかに走ったり跳んだりするためには、普通以上に、安全で安心な、たっぷりの愛情に包まれた環境が必要なようです。その環境を整えた上で、これからも「怖くないよ」「大丈夫!」と心をこめて伝え続けることで、ナナの運動能力の発達を促していきたいと思っています。

《ジグソーパズルに挑戦》

さて、お母さんに相手をしてもらえない時に「ナナがひとりの時間をどう過ごすのか」ということも、長年の課題です。
退屈して家の外に出ると、だいたいは声の届く範囲内にいるのですが、そんな近くでも、いろんなトラブルが降りかかってきます。よその家の自転車を三台一緒に倒したからといって、警察を呼ばれたことがありました。小学生の女の子なのに。パトカーが来て、その家の人に「ひとりでウロウロさせたら危ないから」と、厳しく注意されました。つい先日も、「ナナが散歩中の犬にかまうので、綱を持つ人が困っている」「自転車で年下の子にちょっかいを出すので危険だ」と、ナナをひとりで外に出さないように言いに来られた人がありました。そういうことがあると、ナナが地域社会から拒絶されているような気がして泣けてきます。地域のほとんどの人が好意的でも、一人か二人は苦々しく思っている人がいますから、ダウン症のナナと暮らしていると、時々はつらい思いをさせられます。そんなわけで、閉じ込めたりはしませんが「できれば家の中で過ごして欲しい」と考えています。
家にいる時のナナのお気に入りは、ボタンを押すと歌ってくれる絵本です。繰り返し聞いて、時には大声で唱和し、時には打楽器で合わせ、このごろは、おもちゃのピアノやリコーダーでピーピーと合わせて楽器を演奏する自分を楽しんでいます。この遊びは楽しそうで良いのですが、うるさくてかないません。アンパンマンのビデオも「バイキンマン、だめー!」とか「アンパンマーン!」とか、テレビに向かって大声で叫びながらエンドレスに繰り返して見ているので、やっぱりうるさくて、大人にとっては長時間お付き合いするのはしんどいことです。また、早朝や夜はストップをかけています。
そのため、養育の初期から目的意識を持って粘り強く取り組んできたのがジグソーパズルでした。ナナがジグソーパズルに親しんでくれたら、集中力や手先の訓練にもなるし、誰の邪魔にもならず、静かに自分の時間を過ごせるのではないかと考えたのです。ナナが嫌にならないよう「イライラしない」「怒らない」「何回でも付き合う」「やりたいと言ってきた時だけしかやらない」「必ず完成させる」「ともかく褒める」等々のルールを自分に課して、努力しました。
四歳で二ピースから始めて、最初に十ピースにチャレンジしたのは四年生の夏休みでした。一個のピースがナナの手のひらより大きいので簡単そうに見えましたが、並べる手つきのあまりの不器用さに「これは無理かな?」とも思いました。それでも繰り返し並べているうちに絵とピースの位置がわかってきたようで、ゆっくり考えながら二枚、三枚と並べられるようになりました。ナナが初めてひとりで完成したときは感動でした。娘にも電話で報告して、いっぱい褒めてもらいました。不思議なことに何回もやっているうちに手先にも神経が通っていくようで、ピースを並べる手つきがどんどんなめらかになっていきます。そのことも驚きでした。しばらくは十ピースのパズルばかりを何種類か楽しんで、ひとりでできる喜びと、自信と、達成感を自分のものにしました。ゆっくり楽しみながら十二ピース、十五ピース、二十ピースと数を増やして、半年くらいで四十ピースに進みました。四十ピースは集中力が続かないようで、もたついていましたが、「お母さん、一緒に!」と、おねだりして、少しの励ましと手助けを求めながら頑張りました。四十ピースをクリアーすると、次は大好きなアンパンマンのキャラクターに惹かれて六十五ピースに進み、これもピースのひとつひとつが小さくてばらばら動くので困っていましたが、不器用ながら、投げ出さずに根気よく並べていました。そのうち一人でできるようになり、五年生の夏休みの楽しみとなりました。
今は八十四ピースのパズルに挑戦しています。パズルを並べるための枠付きの台がなかったので、お父さんの日曜大工でぴったりのものを作ってもらいました。一人で完成できる日も近いでしょう。六年生の夏休みの目標です。

《おわりに》

先日、スイミングで練習の成果を発表する時間がありました。二十五メートルのコースを一人で泳ぎます。出発する前のナナは「お母さん、拍手、みんなで」と念押しし、「怖くない!」と言葉に出して自分を励ましてから壁を蹴りました。クロールで、息継ぎのたびに何回も足をついています。それでも向こうまで泳ぎきって、みんなから盛大な拍手をもらい「できる!」とガッツポーズをしていました。
このように私とナナの日常は、毎日が普通に親子の暮らしです。しかし、同時に里親・里子である私たちは、社会的養護の現場の真っ只中にいるわけです。実親と縁の薄かったナナが、私という里親に出会ったことで、家庭の中で愛され大切にされる暮らしを得ました。そして、多くの人に支えられながら、自分にあった教育を受けてのびやかに成長しています。一方、私の人生も、ナナとの出会いによって、人間関係も広がり、以前には考えられなかったほど豊かなものになりました。
障害のあるナナの子育てでは、もちろん悩むこともあります。血のつながりのない、途中参加の子育てですから、親子の絆が結ばれるまでにも多くの時間が必要でした。けれど、ナナが見せてくれる、毎日のちょっとした成長や満面の笑顔が、いつも大きな喜びを与えてくれ、私を支えてくれました。苦労もありつつ、それに倍する喜びもあるという生活は、どんな子育てにも共通するものでしょう。
ナナが二十歳になれば、児童福祉法による里親・里子の法的な関係は終わります。しかし、それ以後もずっと、大人同士として支えあいながら、共に良い人生を生きていけたらと願っています。
そして、最後にもう一つの大きな願いは、障害のある子どもを受け入れる里親家庭が増えて、ナナのように障害をもちながら社会的養護を必要としている子どもが、熱心に心を傾けてくれる大人がいる家庭で育って欲しいということです。「そんなに難しいことではないよ」「普通の日常だよ」と、そんなメッセージと願いをこめて、ナナと私の九年間を綴りました。

鶴丸 富子プロフィール

昭和二十四年生まれ 主婦 京都府京都市在住

受賞のことば(鶴丸 富子)

「ビックリ!」最優秀受賞の感想は、この一言に尽きると思います。
ただ、「里親の子育てを、皆様に知っていただきたい。そして、障害のある要保護児童が、もっともっと家庭の中で育てられるようになって欲しい」という願いをこめて、一生懸命に私たちの日常をつづりました。その想いが、このたびの受賞により、世の中に発信される機会を得ましたことを、本当にうれしく思っています。ありがとうございました。

選評(柳田 邦男)

親って何だろう。虐待が深刻な問題になっているこの時代に、ダウン症の三歳児ナナちゃんを里子にして愛情深く育てた九年間の手記は、きわめてメッセージ性が強いと感じました。「ベビー手話」からゆっくりと発語を引き出す創意工夫、怖がる気持ちを自ら克服していくのを伴走者になって支えるなど、本人の可能性に道を拓いていく向き合い方ひとつひとつに学ばせられるところ大でした。そして、何といっても、三歳の障害のある子を里子として受け入れたことについて、「実際に行動してみると、何ほどのこともなく」と言い切り、「『えいっ!』と飛び込んだ気持ちと『やれる』という手ごたえ」で一歩を踏み出したところがすごいです。里子についての社会啓発のインパクトが大きいと思います。