第43回NHK障害福祉賞優秀作品
「『あ・か・さ・た・な』で大学に行く」〜第1部門〜

著者:天畠 大輔 (てんばた だいすけ) 東京都

〜はじめに〜

「潜水服は蝶の夢を見る」という映画をご覧になったことはありますか? 主人公は言葉は出ず、手足も自由に動きませんが、耳は聞こえ、意識ははっきりとしています。私は彼と似た状態で日々生きています。

〜十四歳で障害者になった私について〜

私は十四歳のとき、体調を崩して病院に運ばれ、医療ミスにより心肺停止になりました。そのとき、医療担当者がその状態に気付かず二十〜三十分放置されたことで、脳の運動機能に大きなダメージが残りました。そのため四肢マヒ、言語障害、視覚障害が現れ、自力ではまったく動くことができない状態になってしまったのです。今では一日の多くの時間を車いすで生活しており、二十四時間見守り介助が必要な状態です。
視覚に現れた障害は、立体や色、人の顔は何とか認識できますが、文字の認識がほとんどできないという世界的にも非常に稀な症状です。紙面やパソコンの画面など、平面のものは大変見えにくく、本を読むことが全くできません。そのため、学習においては、聴覚で情報を得て、頭にインプットして記憶しています。
言語障害に関しては、発語がほとんど不可能です。コミュニケーションは、介助者に自分自身の手を引いてもらいながら、言葉の一字一字を確認していく方法で行うので、アウトプットにはかなりの時間を要してしまいます。例えば、「る」を言いたい時は、介助者の「あ、か、さ、た、な……」という声を聞き「ら」のタイミングで私が手を引きます。そして「ら行の、ら、り、る」の「る」のタイミングで再び手を引くというように、一文字ずつ文字をひろい、それをつなげて文章にしていきます。
知能における障害はありませんが、初対面の人とはコミュニケーションが取りにくいために、私が考えていることを相手に理解してもらえないことが多々あります。

〜「あ・か・さ・た・な」のコミュニケーションの獲得〜

私は事故に遭った当初、医者から「この先ずっと植物状態が続き、知的レベルも幼児段階まで低下している」と診断されていました。医者は知的レベルが下がっていると断言していましたが、母はその診断を信じませんでした。ふと笑う私の表情を見て母は、親子だからこそ感じ合える何かを読み取っていたのだと思います。母は、「コミュニケーションを絶対に取れるはずだ」と信じ続けてくれました。
私は気管切開をしていたため、約半年間、声を出せず寝たきりの状態でしたが、母は私に声をかけ続けてくれていました。その声に私は一生懸命応えようとしていましたが、全く動かない自分の体に、悔しさとやるせない気持ちがあふれ、よく一人で泣いていました。私は、うつろな目をしながらも周囲の人間に対し、Yes・Noのサインを送ろうと試みていました。しかし、目でさえなかなか自分の思うように動いてくれず、誤解されることが多々ありました。例えば、暑くて暑くて堪らない状態であるのにも関わらず、看護師は私に「天畠さんは寒いの?」と聞いてくることがありました。私はNoのサインを送ろうと試みるのですが、看護師は私のサインをYesだと受け取り、ますます布団をかけてきました。コミュニケーションは、自分の思いが伝わらないことも辛いのですが、相手に誤解されることもそれと同じくらい辛いことなのです。
ある時、私は自分の枕元に「い・ろ・は・に・ほ・へ・と……」と刺繍されている手ぬぐいが掛けてある夢を見ました。どうしてもコミュニケーションを取りたかった私は、この文字列を使ってどうにか人とコミュニケーションは取れないものだろうかと、夢の中で真剣に考えていたことを今でも覚えています。夢から覚めた後、五十音を誰かに言ってもらえれば、きっと言いたいことは通じるはずだと真剣に考えて続けていました。
そんなある日、病院の看護師が、私の経管栄養を半日入れ忘れ、私は空腹に耐えかねていてもたってもいられない事がありました。その意思が伝わらずただひたすら泣いていた私をみかねた母が、とっさに思いついたのが五十音を一字一字確認していくコミュニケーション方法だったのです。母は、
「大輔、聞こえていたら五十音の表を頭の中で思い浮かべてね。今から五十音を母さんが言うから、自分の言いたい文字に当たったら、何かサインをちょうだい」「あ・か・さ・た・な……は行の、は・ひ・ふ・へ……」
と私に話しかけ始めました。私は、一時間以上かけ舌をわずかに出すというサインで「へ・つ・た」という三文字に反応しました。
「今のは、もしかして減ったってことなの?」
母は私に聞き返してきました。しかし、私の発した「へ・つ・た」という言葉の意味が、お腹が「減った」だとは理解できていませんでした。その時経管栄養の袋が空になっていることに母は気付き、
「もしかして、経管栄養がなくなってお腹が空いてるって意味なの?」
と聞き返してくれました。私の言いたいことが初めて母に伝わった瞬間でした。約半年間、寝たきり状態で何も伝えることができなかった私は、この時初めて母とコミュニケーションを取れたことが、嬉しくてたまらず、泣きじゃくってしまいました。「どうせ誰にも、自分の言葉は伝えられない」と、生きることすら諦めかけていた私に、母と交わしたこの「あ・か・さ・た・な」のコミュニケーションは、私にとって生きる動機を与えてくれたのでした。母が私の言葉を読み取ってくれた後、一時間ほどかけながらも、一つの言葉を母に送りました。「あ」「り」「か」「゛」「と」「う」。

〜新たな光へ〜

退院後は、肢体不自由養護学校(現:特別支援学校)へ転校しました。入れられたクラスは、知的障害も持ち合わせている重複障害のクラスで、コミュニケーションがほとんど取れない生徒ばかりでした。そのため授業内容は、何か物を作ったりする作業中心のもので、教科書は使用せず、教科教育はほとんど行われませんでした。障害者になってからの一年間、自分の障害をなかなか受け入れられず、元気だったときの友達と会うことも、外出することも極力避けていました。
そんな中、私に訪れた転機は、高校二年のときに担任になった先生との出会いです。その先生は、「ああしろ、こうしろ」などとは決して言わず、また、やさしい言葉をかけるのでもなく、自らの行動で私を導いてくれました。たとえば、学校の倉庫に眠っていた電動車いすを、私のために改造してくれ、私は校内を自由に動き回れるようになりました。また、一つのスイッチしか操作できない私でも、ひとりでワープロ操作が可能なようにソフトをプログラミングしてくれるなど、私に様々な可能性があることを具体的な形で示してくれました。この先生との出会いは私に生きる勇気を与えてくれました。そして、この体のままで将来をどうするかということも本気で思い始め、その結果大学に進むことを真剣に考えるようになりました。しかし、学校側に大学進学の希望を伝えると、ある先生からは
「大学進学なんて夢みたいなことを考えるな。お前はどうやって生きていけるか現実をちゃんと見ろ」
と、思いがけない言葉を言われたのが大変印象に残っています。この言葉からわかるように、私が通った肢体不自由養護学校では、高等部卒業後、生徒が大学進学するということを全く考えていないことがうかがえました。また、後にも先にも進学希望者は全くなく、進学相談担当の先生すらいない状態でした。養護学校には、受験高校コードを確認しようと思っても、知っている人さえいません。進学希望者がいないのだから仕方がないのかもしれません。
そこで、両親とボランティアの仲間で受験についての情報を集めました。全国障害学生支援センター(前身の「わかこま自立生活情報室」)に赴き、いろいろ相談にのってもらいました。しかし自分の障害を理解してもらうためには、大学一校一校に足を運ぶ必要がありました。

〜障害者の大学受験〜

私は二〇〇四年春にルーテル学院大学に入学しました。養護学校の高等部を卒業したのは二〇〇〇年の三月で、大学入学までに約四年のブランクがあります。
この四年間、私は、受験させてもらうために文部科学省や全国の私立大学に、数多く交渉をしてきました。ある大学からは、「どのようにして授業を受けるつもりですか?」と人ごとのような質問をしてくる大学もありました。また他の大学では、願書さえ受け取ってもらえないこともありました。私が受験を希望している大学に障害者の入学前例がないことや、障害の程度が重すぎることを理由に、受験が認められないこともありました。センター試験についても、私のような重度の障害者がセンター試験を受けられるようになるためには五年〜十年の歳月が必要だと文部科学省の役人から言われてしまいました。
文部科学省や大学との交渉が難航する中、受験勉強も並行してやらなければなりません。耳から入ってくる音声情報による受験勉強のため、勉強内容は英語を中心にしていました。 しかし、受験校を増やすために日本史の勉強もすることにしました。試験で四択問題がある大学を選び、過去問題をやってみました。すると、見なければ答えられない問題など、私にとっては捨て問題が二〜三割あり、残りの七〜八割を確実に取らなければ合格ラインに達しません。
受験を申し込んでも、ほとんどの大学に断られる中、辛うじて受験させてくれた大学もありました。しかし、試験問題や受験方法、受験時間に何の配慮もなされていないところがほとんどで、初めから私を入学させる意思がないことは明らかでした。
その中でもルーテル学院大学だけは理解を示してくれました。配慮について、学校側と何度も相談し、受験当日は問題を読む先生と、私の回答を聞いて記入する先生をつけてくれました。しかし、ルーテル学院大学への入学も、すんなりと決まったわけではありません。養護学校卒業後、三年目の冬に受験に挑戦するも失敗。その後一年間は、大学の様子を知るためや、大学側に自分のことをさらに知ってもらうために聴講生として千葉から大学のある三鷹まで、片道三時間、車に揺られて通っていました。こうして、体力的にも大学に通えることをアピールし、二度目の受験の際には、倍率が低く卒業までに六年間かけることができる神学科への入学を大学側から勧められ、受験をしました。福祉科は四年間で、その課程には社会福祉の実習も組まれているのですが、それが無理だろうと判断されたことも、その理由の一つです。
受験内容は英語と面接。英語の受験の際には、試験問題を読む担当と、私の回答を聞いて記入する担当の人が必要でした。また面接試験は、一般入試に予定されていた集団面接ではなく、個人面接にしてもらい、介助に慣れている父についてもらって受験をしました。試験時間については普通の試験時間の二倍延長してもらいましたが、それでも足りませんでした。もし小論文の試験があったなら、時間が足りず受験に失敗していたかもしれません。試験会場に関しては、問題の読み上げや、私のサインの解読に声を出す必要があったため個室での受験となりました。
四年目でようやく受験には無事合格することができました。入学が決まったことは嬉しかったのですが、授業をどうやって受けるか、ノートテイクをしてくれる仲間が集められるか、通学はどうするのかなど、悩みや心配も多くありました。通学に車で片道三時間かかる距離だったので、まず、千葉から引っ越しをするか、しないかを親と検討しました。
大学に進学するための一番の壁は入試だと考えていたので、それさえクリアできれば何とかなるという思いがありました。その為、一度受験に失敗した福祉科は諦め、学校側の勧めもあった神学科を受験しました。入学後一年間は神学科に在籍していましたが、神学科に通いながら福祉科の授業も受け、二年生から社会福祉学科に転科しました。

〜たくさんの仲間に支えられた大学生活〜

私が大学生活を送るにあたっては、授業時間のノートテイクや代弁、教室の移動、空き時間や食事・トイレの介助、学校の近くに引っ越してきてからの通学介助など、多くの介助を必要としました。他にも、プリントや教科書を読み上げてもらわなければなりませんし、レポートやテストも提出しなければなりません。そうした問題をどうクリアしていくかが、入学にあたっての最初の課題でした。
入学決定後は、大学側から、三鷹にある「障害者地域自立生活支援センターぽっぷ」を紹介してもらい、そこにヘルパーの登録をしていたルーテルの学生と出会いました。その学生と、それまで受験勉強などサポートをしてくれていた千葉大の学生を中心に、ボランティア募集のためのチラシを作成し、配布したり、新入生のオリエンテーションで呼びかけや授業の合間に説明会を行うなどしました。
養護学校時代では障害者に対して周囲の配慮があることが当然でしたが、大学では全てを自分でしなければなりませんでした。健常者に囲まれた環境に入っていくことで、自らの障害の重さを痛感しました。例えば、飲み会に行き、そこで食べたり飲んだりするにも介助者を探さなければなりません。
一年生の初めの頃、授業は千葉大の学生がノートテイクを担当してくれていましたが、ルーテルの学生のボランティアが少しずつ集まってからは、ルーテルの学生だけで介助を回せるように引き継ぎをしていきました。
そのシステムができて二年目を迎えた頃、自分一人で介助者を募集する事に限界があると感じてきました。また、私の介助を一人できるようになるためには、何度も関わりを持ち、練習する必要がありました。それはお互いにかなりの時間と労力を要する作業でした。他にも、大学生活全体のことを思い返してみると、障害を持つ学生も年々増加しており、サポートの必要性も高まっていたと感じます。
大学二年生の終わり頃、私は「もし大学に障害学生を支援する組織があれば、多くの障害学生が大学生活を送りやすくなるのでは?」と考えるようになり、他の大学の障害学生支援組織と交流の機会を持ちながら情報交換をしていきました。他大学のシステムを参考にしながら、障害学生のサポート組織「ルーテルサポートサービス(通称LSS)」を作り、私が三年生になる四月より活動を開始しました。
LSSの活動で苦労していることは、介助者に男性が少ないことです。これは、福祉を学ぶ学生に男性が少ないことが影響していると思います。また、誰に介助についてもらうかなど、シフトの組み立てや、調整にも時間がかかることが苦労したところです。一年生の前期までは、千葉から片道三時間(長いときは五時間)かけて学校に通っていましたが、一年生の後期が始まる頃には、学校の近くに引っ越し、現在は友人と共に通学しています。
今は、通学や授業などはLSSの介助を利用し、その他、外出したりする際には、重度訪問介護従業者の資格を持つ友人に、ヘルパーとしてついてもらっています。重度訪問介護のサービスは、通学や授業中には使えない事になっており、学校内ではボランティアという形でサポートしてもらっていました。
今では、サポーターを含め一〇〇人規模の団体に成長しました。また二〇〇八年度からLSSは大学直轄の団体として認められ、大学から予算も頂けるようになり、ノートテイクについてくれた学生には少ない額ですが謝礼金を出せるようになりました。障害学生支援のシステムが利用できるようになれば、「障害を持っていても大学進学したいっ!」と考える学生がさらに増えるのではないでしょうか。
もう一つ、私が大学生活で形にしたものとして卒業論文があります。原稿用紙数十枚に及ぶものであり、当初は難しいのでは? と思っていたのですが、担当教授のアドバイスを受けながら、友人にノートテイクをお願いして進めました。何度も何度も方向転換し、そのつど、先生を含めたみんなで協議しました。提出期間についても配慮してもらい、その結果卒業時期も半年伸ばしました。時間は健常者の何倍もかかりましたが、何とか完成させることが出来ました。七万回以上も「あ・か・さ・た・な……」を繰り返して書き上げました。介助者も共にあきらめることなく一緒に取り組んでくれたことに感謝しています。

〜「あ・か・さ・た・な」は心のコミュニケーション〜

私は四年間の大学生活で声を交えたコミュニケーションを全く取ることができませんでしたが、大変充実した時間を過ごすことができました。それは、私のつたないサインによるコミュニケーションでも、人と人が心でつながり合えることに、何よりも満足できたからです。私のコミュニケーションは、一字一字でしか進むことができません。そのため、健常者が普通に話しているようなスピーディーな会話はできません。
話し言葉は、話している人の話し方や声の調子、語尾、話の流れの前後関係などで言葉のニュアンスは微妙に変わっていきます。私の会話は、単語をつなぎ合わせることで文章を作っていくため、微妙なニュアンスをうまく相手に伝えることができないのです。また、やりとりには人の何倍もの時間がかかってしまいます。しかし、やりとりに時間をかけた分、自分の思いが相手に伝わったときの快感は、人の何倍も感じられます。それは、私にとって大変幸せなことです。
私が友人と、「あ・か・さ・た・な」で会話をしていると、よく人が集まってきます。私の手を引っ張りながら話している様子が、周りの人たちにとって、とても不思議に見えるようなのです。私たちのやり取りに興味を持った人と、私は積極的に関わろうと心がけています。最初は不思議そうな顔をして緊張しながら、私のサインを読み取っている人も、やがてサインを正確に読み取れるようになるとその顔が笑顔に変わってくるのです。私はこの関わりがとても好きです。
大学生活では、この時間のかかるコミュニケーションに最後まで付き合ってくれる、温かい心を持つ多くの友人と出会うことができました。
私の会話を読み取るためには、本当に根気がいります。私は人に自分の考えていることや、今の気持ちを少ない言葉でしか伝えることができません。しかし、聞いてくれる相手も、私の少ない言葉で、私のことを一生懸命にわかろうと努力してくれます。伝えたい気持ちと、わかりたいという気持ちが、うまくかみ合った瞬間は、とても心地良いものです。
私は四年間の大学生活で、たとえ言葉の数が少なくても、人はお互いのことをわかり合える経験を数多くしてきました。相手のことをわかりたいという気持ちさえあれば、言葉の数が少なくても(たとえ言葉を持たなくても)人と人は、通じ合えると私は思います。大学生活で多くの仲間とそんな心のやり取りができたことは、私にとってかけがえのない経験となりました。それは、私だけではなく、きっと相手にも同じことが言えるのではないかと思っています。LSSが一〇〇人規模の団体になっていることを先ほど書きましたが、それは、ルーテル学院大学で一〇〇人以上の学生と私が、この「あ・か・さ・た・な」のコミュニケーションを用いて、時間をかけ、心のやり取りをしたことの証明とも言えます。
今年の九月、私は四年半過ごした大学を卒業しますが、これから社会に出てもたくさんの人々と、この心のコミュニケーションをとっていけたらと思います。
あなたもしませんか、私と「あ・か・さ・た・な」。

天畠 大輔プロフィール

昭和五十六年生まれ 学生 東京都武蔵野市在住

受賞のことば(天畠 大輔)

私は以前、柳田邦男氏の「犠牲(サクリファイス)」を読み・聞き、深く感銘を受けました。死の淵から生還した私も、いままでの自分史を書き留め、今何を感じ、どう生活しているかを表現してみたい、そして私のコミュニケーション方法にひとりでも多くの方が関心を持ってもらえればという思いで、今回この「NHK障害福祉賞」に応募しました。
この場をお借りして、母をはじめ、今までに私とコミュニケーションを取って下さった全ての方に心から感謝いたします。ありがとうございました。

選評(柳田邦男)

一読して《凄い!》という感動が高揚してきました。《人間って凄い!》と。
天畠さんは、医学の通念を突き破って、意思を伝える独自のコトバ表出法を獲得し、さらに教育界の壁を突き破って大学に進学。そして、天畠さんの時間のかかる断片的なコトバの表出と、そのコトバの奥にある思いを懸命にわかろうとする学生たちのひたむきさ。心と心をつなぐコミュニケーションとは何か、その神髄がここにあると感じました。
脳障害後の知的可能性を否定する医師に呑まれずに、ひたすらわが子の可能性を信じて、天畠さんのコトバ表出の道を探った母の愛も凄い。この愛と汗と友情の賛歌と言うべき手記は、人間が生きるには、自己表現の手段を持つことと他者の愛のある支えが、いかに必要かということを語っています。広く少年少女に、若者たちに、読んでほしい。