第43回NHK障害福祉賞優秀作品「ねばーぎぶあっぷ」〜第1部門〜

著者:岩下 利行 (いわした としゆき) 東京都

今年の三月で、三十八歳になった。二歳年下の妻と五歳と七歳になる息子の四人で東京都府中市に暮らしている。妻とは二十六歳の時、大学時代の友人が企画した飲み会で知り合い、三年間の交際を経て二十九歳で結婚した。三十歳の時、待望のミレニアムベイビーが誕生し、それを機に三十一歳で家を買った。一方で、仕事は会社の社内公募制度を利用して、自分の希望とする事業部へ転籍していた。子育てや仕事で毎日忙しかったが、充実した日々を送っていた。この時、まさか自分が障害者になるなんて知る由もなかった……。
平成十三年夏、何となく体調の悪さを感じており、体がだるく、歩いたり、走ったりする時に何とも言えない違和感を抱いていた。府中事業所から日野事業所への転勤が決まっていたので、転勤前にどうしても病院に行っておきたかった。夏休みを利用して、脳神経外科に行くことにした。先生に症状を言うと、すぐに頭と首のCTスキャン映像を撮った。写真からは異常は見られず、先生は
「恐らく、運動不足でしょう」
と言った。私は半信半疑であったが、しばらく様子を見ることにした。運動不足解消の為、出来る限り歩くことを心掛け、週末暇を見つけては走ったりもしたが、体調は良くならなかった。むしろ、足の状態は悪くなっていた。私は再び病院を訪ね、先生に相談した。すると先生は、都立府中病院の神経内科で診てもらうことを勧めた。
都立府中病院は、地元の広域総合病院であるが、私は行ったことがなかった。今まで、病気とは無縁の生活を送っていた。初診の受付を済ませて一時間程待った後、看護師に呼ばれて診察室に入った。椅子に座り、先生にこれまでの症状について話した。いくつか先生からの質問に答えた後、ベッドへ横になった。先生は棒の先に硬い樹脂が付いているもので体中の関節をコツコツと叩きながら、数字を口にした。それが何を意味しているのかは、分からなかった。次に先生の指示に合わせて体を動かした。一通りの検査を終えて、先生から
「検査入院が必要です」
と言われた。先生の様子から、何かしらの病気であることを感じた。
「どれ位の入院になりますか」
と尋ねると、
「二、三週間位になる」
と言われた。私は「そんなに」と思ったが、会社の上司と相談してから、後日連絡することを約束した。
私は、上司になんて言えばいいのか悩んだ。やっと転籍先の職場に慣れてきた頃だったので、正直会社を休みたくはなかった。それでも、「もしかしたら、病気では?」という不安が、上司に話すことを決意させた。私は上司の暇な時間をみはらかって、医者から言われていることを話した。すると上司は、
「仕事はいいから、すぐに入院しなさい」
と言い、さらに
「家庭を持ったら、自分ひとりの体じゃないぞ」
と言った。上司自身、癌を克服し今も癌と闘っていたので、私はその言葉に重みを感じた。私は感謝と申し訳ない気持ちで頭を下げ、その後すぐに入院の手続きをした。
年が明けた平成十四年二月五日、私は都立神経病院に検査入院した。都立府中病院の神経内科には病棟がない為、入院は都立神経病院になった。検査項目は尿検査、髄液検査、血液検査(静、動脈)、胸部レントゲン、頭部と首部と胸部のMRI、心電図、筋電図、肺活量と耳鼻咽喉科の検査であった。全ての検査を終えて、担当医師から
「明日、検査結果を説明するので、ご家族を呼んでもらえますか? できればご両親も」
と言われた。私は「両親も?」と思いつつ、妻と横浜に住む両親に連絡をして、来てもらうことにした。
看護師に呼ばれ、会議室へ向かった。母に一歳になる息子を預けて、父と妻と私の三人で話を聞くことにした。先生は簡単な挨拶を済ませると本題に入った。
「検査の結果、運動ニューロン病と思われます」
初めて聞く病名だった。その後、ホワイトボードを使って説明を始めた。退院後、妻から
「あの後先生に呼ばれて、どの位で歩けなくなるとか寝たきりになるとか……。そして呼吸器についての説明を受けた……」
と聞かされた。先生は私のことを気遣ってか、その場ではあまり深刻な話はしなかった。病気についての簡単な説明と退院後の注意事項が主だった。それでも話を聞くうちに、だんだん恐怖と絶望感にかられ、早く部屋を飛び出したい気分だった。一般的に運動ニューロン病は別名、筋萎縮性側索硬化症(略してALS)と言われる。この病気の特徴は、運動神経が死滅して徐々に全身の筋力が弱くなる。三〜五年で寝たきりになり、さらには自分では呼吸ができなくなり、呼吸器が必要となる。致命的なのは、現医療では原因も治療法もないことだ。そして何より問題は、介護する家族の負担が想像を超えていることだ。
病室には、心配そうな母と息子が待っており、息子は疲れたのか母に抱かれて眠っていた。息子の寝顔が、何だか愛おしくて愛おしくてたまらなかった。息子と一緒にいたい。妻と一緒にいたい。家族と共に生きたい。心の底からそう思った。息子が、妻が私に生きる勇気と希望を与えてくれる。「私にはくよくよしている時間はない」と自分に言い聞かせた。私からは特に話すこともなく時間だけが過ぎた。私は皆に礼を言い玄関まで見送り、帰り際に妻から小さい紙袋を手渡された。病室に戻り袋を開けると、手作りチョコレートが入っていた。今日は二月十四日、バレンタインデイだった。
退院後、私はなるべく普通の生活を送っていた。それが妻の願いでもあったし、私が家族の為にできることだった。普通の家族でいることが何よりも幸せだった。自分で出来ることは、多少時間がかかっても諦めずに自分でやることを心掛けた。まだ子供が小さかったので、自分でやるしかないところもあった。特に会社では、なるべく自分からはギブアップしないことを決めていた。家族を守りたい気持ちと、何より会社を首になるのが怖かった。その頃の体調は、決して良いとは言えず、足の状態はかなり悪かった。階段の上り下りでは、手すりを使わないと危なかった。その手すりを持つ手も次第に力を失っていき、通勤ラッシュ時の階段の上り下りは恐怖だった。背中に「私は、足に障害があります」とはり紙をしたい気分だった。会社の行き帰り、よく転んだ。雨の日は最悪だった。雨に打たれ、道路にうずくまりながら自分を責めた。それでも休まずに会社へ行くしかなかった。私にとって会社に行くことは、普通の家族でいることの象徴だったからだ。
職場の上司は、私の病気について理解してくれた。病気の進行具合で仕事の内容や執務場所を変えてくれた。転籍して間もない出来事に、私は申し訳ない気持ちと悔しい気持ちでいっぱいだった。退院して半年が過ぎた頃、突然総務部長に呼ばれた。悪い予感がした……。上司に付き添われて総務部長の所に行き、体調や仕事について色々と話した。そしてこう切り出してきた。
「自宅近くの事業所に移ったらどうだろうか……。所属は今のままで、机だけ借りる形で……」
思いもよらない言葉だった。私は「そろそろ休職したらどうか」と言われる覚悟でいた。上司も賛成してくれ、私は新しい職場に移ることになった。
新しい職場は、自宅から三十分位の所にあり、初めは杖をつきながら電車通勤していたが、そのうち妻に車で送り迎えをしてもらうようになった。新しい職場は教育センターの管理室で、センター長と私の二人だけだった。以前の職場とはまるで違い、綺麗で落ち着いた雰囲気だった。会社の施設内であれば仕事に必要なシステムもメールも使えたので、以前とあまり変わらない環境だった。センター長はかつて総務部長の上司で、今は嘱託として働いていた。人柄が良く、人生の先輩として色々相談にのってくれた。恵まれた環境の中で仕事ができることに、私は喜びを感じていた。ただ一つ気がかりだったのは、八か月後にセンター長が退職し、管理室がなくなってしまうことだった……。
この頃、私達夫婦には悩みがあった。それはもう一人子供をつくるかどうかで、お互いに子供が欲しかった。しかし、周りの人の多くは反対だった。
「わざわざ苦労を増やすことはない……」
とか
「一人いればいいじゃないか……」
とか言われた。私達のことを心配してのことだったが、それでも私達は子供が欲しかった。ある日、妻が私に言った。
「やっぱり、子供が欲しい。子供がいればどんな苦労も耐えられる。新しい命があなたや家族に希望を与えてくれる」
私は嬉しかった。私は私で、違うことを考えていた。もし私が死んだら、妻と息子の二人になってしまう。もし私が寝たきりになったら、介護する妻の心を支えるのは子供だ。何よりも、一人息子に寂しい思いをさせたくなかった。だから妻や息子の為にも、もう一人子供が欲しかった。結局、私達は子供を諦めることができなかった。そして、平成十五年六月二十六日新しい命が誕生した。ガラス越しに初めて目にした我が子のことを私は決して忘れない。
子供が生まれてから妻の負担はますます増えていった。私は妻を手伝ってあげることが出来ず、妻が下の子の面倒をほとんど見ていた。さらに、下の子が生まれるのをきっかけに、上の子が妻に甘えだした。私の心残りは、下の子に何もしてやれなかったことだ。おむつ交換や入浴は勿論のこと、抱くことさえ出来ず、この時ほど病気を恨んだことはない。この頃の私は、なんとか一人で身の回りことは出来てはいたが、いつも危険と隣り合わせの状態だった。また、仕事はセンター長の退職を機に在宅勤務になっていた。下の子が生まれて半年が経った頃、階段の上り下りが出来なくなり、寝室と仕事場を一階に移した。そして家の中で車椅子を使うようになり、生活のほとんどに妻の手を借りるようになった。あの頃の私達は若かったせいか、誰かに相談するとか誰かに頼ることが出来なかった。しかし私の病状が進むにつれて、妻一人ではどうにもならなくなり、私達は市役所へ相談に行った。福祉課で病名と病状を言うと、すぐに身体介護の認定がおりて介護士の派遣が認められた。
平成十六年八月から介護士に身の回りのことを頼むようになった。初めは、食事介助と入浴介助、トイレ介助が主だった。その後、病状が進むにつれ時間数が増えていき、今では朝七時から夜八時のほとんどの時間に来てもらっている。今は胃ろうから食事を摂っているので、入浴介助とトイレ介助、ベッド上のケア、吸引が主になっている。吸引は、まだ気管切開してないが、嚥下機能が落ちているので誤嚥を防ぐ為に行っている。私が今でもそれなりの生活が送ることができるのは、介護士のおかげである。私にとってそれなりとは、人間らしくという意味だ。健常者であれば唾液や鼻水が垂れれば拭き取り、人前で垂らしっぱなしにはしないだろう。もし汗をかけば汗を拭い、体が臭ければ体を洗うだろう。排尿や排便がしたければトイレに行き、我慢しきれず垂れ流すことはめったにないだろう。もし介護士がいないで妻一人だけだったら、私がそれなりの生活を送るのは難しいだろう。私にとって介護士は、家族以上の存在かもしれない。去年胃ろうをつける為に入院した時、突然体調が悪くなり呼吸確保の為に鼻から挿管した。医者からは、気管切開を勧められた。その日の夕方、介護士が来てくれた。彼の顔を見た途端、涙が溢れてきた。彼は私にとって初めての介護士で、これまで献身的に介護してくれた。できることは続けたいという私のわがままにも似た願いに、可能な限り応えてくれた。ほとんど毎日お風呂に入れてくれ、トイレも便座に座らせてくれた。他人には、小さなこだわりに見えるかもしれないが、私にはできることが嬉しかったし、何よりも自信になった。これまで、出来る限り寝つかないように介護士と一緒に頑張ってきただけに、悔しくて悔しくて堪らなかった。彼の顔を見たら、その思いが込み上げて涙が止まらなかった。帰り際、彼が私に言った。
「家に戻ったら、また一緒に頑張りましょう」
私は失った声で叫んだ。
「こんなことで負けない。必ず元気になって家に帰る」
私は医者の勧めを断り、気管切開しないで退院した。退院後は以前よりもベッドにいる時間が長くなってしまったが、今でも私を支えてくれるたくさんの人達と一緒に頑張っている。
病名告知されてから今年で六年が経ち、この間に色々なことがあった。当時一歳だった長男は小学二年生になり、悩んだ末誕生した次男は幼稚園の年中になり、二人とも元気に育ってくれている。妻は、私の世話や子供達の面倒等、相変わらず忙しい日々を送っている。妻には、感謝の気持ちでいっぱいだ。また、横浜に住んでいた私の両親が近所に引っ越してきてくれた。何かあればすぐに駆けつけてくれ、いつも私達のことを見守ってくれている。本当なら親孝行しなければいけない歳なのに、今でも甘えてばかりでいる。病状が進み、初めて車椅子に乗って街中に出た時、周りからいわれのない冷ややかで突き刺さるような視線を感じた。障害者になって初めて、社会の不便さに気が付いた。三十一歳まで健常者として生きてきたが、障害者とかかわることや障害者について考えることなどほとんどなかった。障害者になって、自分の無力さと無知さに気付かされ、障害者として社会で生きることの難しさを痛感した。今は会社も休職扱いになり、ほとんどの時間をベッドで過ごす。それでも家族や介護士、地域スタッフ等たくさんの人達に支えられて生きている。妻から家族という宝物をもらい、子供達から生きる勇気をもらっている。世の中には、自分ではどうしようもできない不平等なことや理不尽なことがある。それでも前を向いて生きるしかない。私は諦めない。たとえ体の自由が奪われても、私は諦めない。私が私である限り、私に家族がある限り、私は決して生きることを諦めない。いつの日か、子供達を抱きしめるその日まで……。

岩下 利行プロフィール

昭和四十五年生まれ 会社員 東京都府中市在住

受賞のことば

「もし障害がなかったら、こんなこともあんなことも出来たのに……」と、今の自分ともしもの自分を比べてしまうことがあります。今回、体験談を書いてみて「障害があっても出来ることがある」「障害があるからこそ伝えたいことがある」と、感じました。障害者になって気付いた「喜び」や「感謝」の気持ちを忘れずに、これからも生きて行きたいと思います。
私を支えてくれるたくさんの人達、本当にありがとうございます。

選評(江草 安彦)

幸せ一杯の生活を、筋萎縮性側索硬化症の告知により破られ、徐々に進行する厳しい病状と困難の度を増す日常生活。原因も判明しない上に治療方法も明らかでないこの疾患は、この上ない深刻なものである。
それにもかかわらず、会社もよく理解して職場で可能な限り配慮された。奥さん、ご両親のご心労と日常介護のご努力はいかばかりであったか、想像に難くない。介護士が加わることによって、いくらか軽減されたのであろう。公的援助の役割があったことをほっとした気持で読ませてもらった。
身体の自由が奪われても生きることを諦めないという強い心。家族がある限り生きることを諦めないという祈り、願いに心から応援をしたい。