第43回NHK障害福祉賞優秀作品「生かされている間に」〜第2部門〜

著者:有松 則子 (ありまつ のりこ) 埼玉県

子供の頃は、大人になって、お嫁さんになって、おばあさんになって、と色々ゆっくりとした世の中の動きで、四季折々のカレンダーをめくるのが長く感じられたように思う。しかし今は、足早に季節が変わって行き、移り変わりの早さに、あらためて命に限りがあると感じずにはいられない。今までは、自分で生きてきていると思ってきたが、最近では、命のタイムリミットまで自分は自然や環境や社会に生かされていると感じ、あとどれだけ生きられるのか、命の終わる日を先に知りたいとさえ思う。
小学校入学と同時に、叔母から書を習い、今では、生活の中の一部になっている書道だが、かつて、書をより深く追求していきたいと思う反面、人に鑑賞されるだけの作品作りに明け暮れ、いつかは終わる命の中で、書に向かう意義に迷いを生じていた時があった。
そんなある日のこと、私は、ひとつの書の作品に出会った。それは一見、書とは言いがたくなんともたどたどしい文字であったが、その文字の温かさがすっと心に沁み入り、やがて胸が熱くなるのを覚えた。「なんだろうこの感動は……」私は、目から流れるものを拭いながら、その場のスタッフに、どなたの作品かを尋ねてみた。すると、それが知的に障害ある子どもが書いたものであると知らされた私は、その時まで、知的障害者は、文字の判別はもとより書くことなど到底無理であろうと思っていた。ところが、その書を目にした時、心の中で、何かが崩れるような衝撃を受けた。
すぐさま、私は自分の地域にもいる知的障害のある子たちに出会ってみようと思った。これまで、知的障害者への指導はもちろん未経験であった。それでも私の心を駆り立てたもの、それは、一般の書道塾では受け入れにくい子らに「書をかかせてあげたい」という思いだけであった。
早速私は、車で一時間ほどの所にある、友人が担当している障害者施設を訪ね、また、市の社会福祉協議会をまわり、こんなボランティアをやらせてくださいと、飛び込みでお願いに行った。
「知的障害者が習字?——」
それぞれの担当者は場所が汚されることを心配してか、
「墨は大丈夫ですか?」
と聞いてくる。
「私が責任を持ちますので……」
責任を取れるかどうかもわからずに大きなことを言ったものだと、今にして思う。ともかく、熱い思いで企画書を作り、ボランティア承認申請書類にそれを添えて提出したところ、しばらくして承諾の通知が送られてきた。
私はすぐに募集を始めた。同時に、保護者が子どもを連れて来たらすぐに教えられるように、書の道具は全て買い揃え準備をした。
子どもが硯で墨をすることができないことも考えて、大きな墨入れや握りやすい太めの軸の筆を用意した。紙も一般書道用の半紙ではなく、大きな文字を書かせるために、多少力を入れても破けにくい半切画仙紙を買い、それを半分に切って使うようにした。文鎮を投げたりすることも想定して、なるべく軽いものにした。また、墨をこぼした時のことも考えて、雑巾をたくさん縫い、大きいバケツも用意した。このように、まだ出会ったことのない子たちをさまざま想像し、はたして習いたい子たちが来るのだろうか等々、いろいろ思いをめぐらし準備をした。
そして体験日を迎えた。私の心配をよそに会場には次々と親子連れがやって来た。手本を選ばせ、一人ひとりの机を回って指導を始めたものの、手などに触れさせない子、手本の字を認識できずお絵かきする子、奇声を発する子、人の動きを気にする子、ずっとブツブツ言っている子、全く言葉が通じない子、挙げるときりがないくらい、一人ひとりの違いに戸惑った。
一方で、想定したことが、まったくの想像と誤解だらけで、ほとんどがただの取り越し苦労に過ぎなかったことに気付かされた。それは、墨をこぼしたり、文鎮を投げたり、墨の付いた筆を振り回したり、紙を破くなどといったような心配した行為は一切なく、逆に、紙に墨が一点落ちただけでも嫌がり、指先にちょっと墨が付いただけでも、拭きたがる。それは体験日からこの方ずっと変わらない。今では、文鎮を少し重い物に替え、バケツもたくさんの雑巾も不要となった。
知的に障害があるだけで、性格の違いは誰しもあって当たり前。ただ持続力に劣ることが多いので、あとは私が指導の方法を工夫し、一人一人の性格に合わせて教えればいいのであり、この子たちに書くことを通して何かを創る感動や喜びを与えたいと思う気持を一層強くした。
次の稽古日から、まずみんな一緒の稽古はやめ、練習室に一人ずつ入れてマンツーマンでの稽古に切り替えた。また、手本もそれぞれの子の特徴を踏まえたものに書き替え、それを半年かけて練習させるつもりで、毎回三枚から五枚くらいを、子どもたちが疲れない程度に書かせて次の子と交代させるようにした。この子たちには半年間でゆっくり文字を覚えさせることと、読めなくてもその文字に慣れさせること、そして筆の筆法云々はいったん自分の中では遠くに置き、まずは自由に筆を動かさせて、白い大きな紙に黒い墨で書いてできた筆跡の面白さを感じさせること、そして、筆を持つ日が待ち遠しくなるような心の充実感を味わわせるようにすることからはじめた。
こうして稽古を始めてから、夢中のうちに早一年を迎えようとしていた頃、私は子どもたちから、あの書に出会った時のような大きな感動をもらっていた。最初の頃歩きまわっていた子が、稽古の時はちゃんと机に向かえるようになった。文字にならないような字が、だんだん書きなれてきて、字の形になっていた。手に触れられるのを拒んだ子が嫌がらなくなったばかりか、逆に私の手を握ってきたり、初めての稽古に不安げだった顔が、今ではニコニコ顔で部屋に入ってくるようになり、自分から抱きついてくる子もいた。たどたどしい言葉でも、それぞれが、「こんにちは」「ありがとうございました」「さようなら」とあいさつをしてくれる。そんな時、「ありがとう」「またね」と私も心からの言葉になる。
一、二歳のまだ言葉を覚えていない幼児を観察していると、言葉が通じなくても、その仕草から、発している片言の意味やしたい行動が伝わるように、生徒一人ひとりをしっかり見ていると、この子にはどんな字が合うか、今どうしたいのか、どんな書かせ方が一番適しているのかがわかってきて、その子の能力に合わせた指導の仕方ができ上がってくる。しかし、もう何年も稽古している子で、その性格もよくわかっているはずと思っても、「あぁ、こういうこともできる子だったのか」と、後で気がつくこともしばしばある。そんな時に、できなかったときのことをあれこれ心配するよりは、まずはやらせてみて、できることを見つけ引きださせることが大切なのだと、逆に子どもたちから学ぶようなことも多い。だから、どんな時も焦らない気持ちで接し続けていこうと思っている。
とある稽古日のことだった。曜日しか知らないという四十を過ぎたある男性に、
「好きな曜日を書いてみてください」
と言ったところ、彼はたどたどしい文字で、「月・火・水・木・金・土」と書いてくれた。 ところが、なぜか日曜日がない。
「おや、日曜日がないですね」
と彼に尋ねた。すると、
「日曜は仕事がお休みだから、暦を見なくてもいい日、彼にとっては覚えなくてもいい字なんです」
と、介護の人が言葉をしゃべれない彼に代わって教えてくれた。凄い! 彼がその必要な文字だけを覚えたということに、なんとも言えない感動を受けた。
またこのようなこともあった。年末も間近なある稽古日、当時六年生だったその子は、文字の読み書きや、会話がうまくできない。入会した時、手本の字が判読できずに、紙に数字の8をいきなり書いた。お母さんは、
「うちの子は字を知りません、ただ8の字が好きなんです、それでもいいですか?」
「大丈夫ですよ」
そんな会話から出発した子だった。
「じゃ、だいすきな8が入ったお手本にしましょうね」
私はすぐさま手本を書き変え、8の字を使い、ほかの字は丸みをおびた簡単な画数の字を集めて、「8人のゆめ」という手本を作った。稽古の初めの頃、その子にとって8の字だけはわかったが、あとは判読できない字だったものが、繰り返しの練習の成果で、文字の形をまねられるようになった。半年間練習をつんできて、いよいよ最後の仕上げの一枚を書き終えようとしていた時、手本では横長の紙の真ん中に横書きで「8人のゆめ」と書いてあるのだが、本人は、それを紙の上半分に書いてしまった。紙の下半分は空白になっている。それでも、特に違和感を感じさせないほどの空白だったため、これで終わりにしようとしたその瞬間、私の目が固まってしまった。折角書き終えた作品のその空間に、なんとその子は、いつものお絵かきをはじめてしまったのだ。私は心の中で、「あぁ、折角これまでで一番良く書けたのに……」とがっかりはしたが、まあ、もう一枚書かせればいいかと思い直し、そのまま続けさせた。その子は小さな丸をひとつ書き込んだ。その丸の中に目らしき小さな点を二つと、鼻の小さな縦棒と口と思える横棒が書き加えられた。どうやら人の顔のようだ。
「それはだれですか?」
「ママ!」
彼はどんどん顔を増やしていく。その都度私は、
「これはだれですか?」
と聞く。
「あかちゃん」
「それはだれですか?」
「おねえちゃん!」
「ほぉー、じゃこれは、パパ?」
「うん」
それは、お姉ちゃんより遥かに小さい顔だった。
私は気づいた。これはきっと、この子の中で存在の大きな順番から、顔の大小が決まっているのだと。
「じゃ、もっといっぱい書いていいですよ」
すると、彼は同じような大きさの顔を四つ書いた。
「これはだれですか?」
「○○ちゃん」
どうやら学校のお友達らしい。
「こちらはだれですか?」
「○○先生」
大好きな担任の先生らしい。
「これは?」
「ぼく」
「あっ、そうなんですかー、かわいいですね」
自分の顔だけは丸ではなくほぼ丸みをおびた四角で、大好きな先生とぴったりくっつけている。
「こっちは?」
「○○くん」
やはり、仲良しのお友達のようだ。気がつくと丁度8つの顔が並んでいた。私は胸が熱くなった。そうか、この子はもしかすると、「8人」という言葉を理解していたのかもしれない。
私は子どもたちと話す時は、ほとんど敬語を使う。また、けっして「駄目」という言葉は使わない。そして、子どもたちが書いたものは、朱墨では直さない。朱墨は手本を書くときだけに使う。指導する時の言葉は、文字の撥ねの時は「ピョン」、押さえる時は「ギュッ」といった擬音を使って指導する。書いたその文字の一部分を直してあげたいときは、直されることが理解できる子には、「ここを直していいですか」ときいてから、本人に朱の付いた筆を持たせ、同時に手を添えて書かせる。直されるということが理解できない子には、別の紙を使って、直したい文字の部分を、子どもに手を添えて擬音の言葉とともに一緒に動かしながら何度も反復練習させて、体で記憶をさせることにしている。
あるダウン症の女の子は、
「私大きくなったら、お母さんのようになるの」
と言った。私はこの言葉を聞き、そのとおりの言葉を手本に書いて見せると、とても喜んで、一文字一文字、言葉に出しながら書いていた。きっとこの子は、お母さんからいっぱいの愛情で育てられ、お母さんをとっても信頼しているのだと感じた。障害を抱えて生まれた子の親は、少なからず「なぜに、うちの子が」と自責の念にかられたり、周りから偏見や興味の眼差しを感じてやり場のない日々を過ごして来たと思う。子どもの将来を案じ、一緒に消えたいとさえ思い悩んだ経験も少なくはないだろう。そういうお母さんたちが、自分に強くなり、子育てに奮闘してきた姿を想うとき、普通に言葉を通わせて健常の子どもを育てた私の苦労話などは、このお母さんたちに及びもつかないことのようにも思う。
私が教えているクラブでは、ただ書を習うというだけではなく、墨で書くことで集中力を養うことや、字を一つひとつ覚えていくことで自分にもやれるという喜びや意識を育むことなど、社会参加への訓練のひとつと思って子どもたちと接している。自発的に何かを発見するという行動ができにくい子どもたちであるので、親たちが子どもの能力開発に積極的にかかわらなけば、子どもの能力はそこで止まり、なかなか広がらないと思う。そのため、ただ書を上達させる目的だけではなく、潜在的な能力や可能性を見つけ引き出させるため、反復して何かをさせてみる努力が必要であると感じている。
ところで、通常は右側に硯など書道具を置き、左に手本を置くのだが、自閉症で十五歳になる男の子は、なぜかなかなか書きだそうとはしなかった。ところが、何気なく筆を左手に持ち替えたことで、彼が左利きであることがわかった。すぐに書道具を全部反対に置き替えた。すると「こうしたかった」と言わんばかりにどんどん書き始めたのだ。しばらくの間は左手で書かせ、私にもそして環境にも慣れてきたある日に、
「今日はこっち手で書いてみましょう」
といって、右手に筆を持たせ、少し一緒に動かしてみせた。当初は不安げではあったが、今ではもうすっかり右手でも書けるようになっている。右手に持ち変えさせたことで、文字も一層力強くなった。
また、当時十五歳のダウン症の男の子の場合は、
「もうちょっと大きい字で書いてほしーんですけどー」
というと、
「ヤダ」
という。
「えー、ここのところ、もう少し太く書いたら、先生はいいなーと思うんですけどー」
「ヤダ、先生うるさい、だまれ」
私はすぐ
「あら、どうもすみません」
と返す。いつもの会話である。彼はけっして怒っているわけではない。学校などで聞き覚えた言葉をすぐに使ってみたいらしいのだ。それが証拠には、黙って見ていると、次の紙にはちゃんと大きな字で書いてくれる。ことごとく一度は「ヤダ」と言うが、彼の「ヤダ」は「ハイ」の代わりなのだということがわかってきた。
最初からこの子はできないのだといった先入観は捨てて、時に子らの性格を見極め、焦らずタイミングをはかることで、解決していくことも結構多いと知った。
時には、子どものとびぬけた記憶力におどろかされることがある。現在小学五年の男の子は、おしゃべりがとっても得意で、歴代総理大臣の名前はおろか、テレビ番組の出演者の名前、それも、たとえ数か月前の番組であっても、何月何日何時の何という番組のレギュラーとゲスト出演者は誰々と、その名前をはっきりとしかも間違いなく言うことができる。テレビを見る時間の少ない私としてはついていけないが、一応話を聞いて
「ふーん、へぇー、よく覚えていますねぇー」
などというと、筆を止めて一気にしゃべりまくる。
「はーい、手が止まってますよー」
と言っても聞かず、とにかく知っていることを話したいらしい。
さらに、手本の字や周りの物などを一瞬見ただけで、そのとおりに書や絵を描くことができる青年もいる。特に絵は、描く対象物をしっかりと捉え、確かな構成力に、彼の独創的な色遣いで描いてみせる。どの色にも無駄や無理がなく、心の模様をそのままにカンバスに映し出すのである。
また、別の面で凄い記憶力をもつ女の子もいる。一度聞いた音は、その音を外すことなくすぐに口ずさむことができる。その子は言葉を話せないので、こちらから言うことがよく理解できないのではと思いこんでいた私は、本人を目の前にして、お母さんとこんな話をしていた。
「うちの子にはこれ書けるかどうか……」
「一応書かせてみましょうか……」
すると彼女は筆を握ろうとしない。どう話しても筆を持たなかった。しかたなくその日は諦めることにした。次の稽古の時だった。
「○○ちゃんなら、これ書けるんですよね」
と言ったところ、迷うことなくすっと筆を持ってくれた。「えっ!」と、無言で母親と目を合わせた。その子は、一画、一画ずつではあるが、最後までちゃんと書いてくれた。その間は
「○○ちゃん上手、すごいですねー」
とほめ言葉の連発。特に私より、お母さんがいう言葉のほうによく反応しているように感じた。その時、はたと気が付いた。そうか、きっとあの日は、お母さんの「うちの子には書けないかも……」という言葉にとても傷ついたのだ。彼女なりに小さな反抗をしていたのだと。以来、「これ書けるかなー」という言葉は、だれにも使わないようにしている。 私は、これまでの感動をみんなにも共有してもらえたらとの思いから、
「同じ障害を抱えた子たちが各地にいます。その子たちや家族に勇気や元気を与えられるきっかけになると思うので、是非展覧会を開きましょう」
と保護者たちに提案をしてみた。保護者の意見はいろいろだった。金銭的な面をはじめ、親の負担がもっと増えるのでは……などの意見が多く出たが、
折角の子どもの作品をそのまましまい込んでは、ただの紙ゴミで終ってしまいます。もっと子どもの能力を信じてあげてください」
「大変なことや、金銭的なことはできる限り私が頑張ります」
そう言ってしまった手前、もう後戻りはできなかった。
まずは、無料で借りられる会場探しから始まった。企画書作り、そして会場の申込み、名義後援の申請、チラシや案内ハガキの作成と宛名書き、さらには展示作品の名札作り、そして、作品の運搬、搬入搬出、会場の設営等々、最初はほとんど一人で頑張った。また、作品の表装も、急遽プロの表具師から手ほどきを受け、全部自分の手で完成させた。こうして、ささやかながらも手作りの展覧会を二回、三回と重ねるに従い、少しずつ保護者の理解や協力が増えるとともに、作品展を観たといって、多くの方から感動や温かい励ましの言葉をいただくようになった。さらにはボランティアの申し出もあって、今では、稽古や展覧会などでは、たくさんの心ある人たちに支えられて行うことができている。こうして、今年で六年目となる展覧会を終えることができた。さらに今年は、NHKふれあいホールギャラリーをお借りすることができ、皆様に作品を観ていただくことになっている。
私は、自分の意思だけでは行動を起こせない知的に障害のある子どもたちのため、親が元気でいるうちに、書を通して少しでも自立と社会参加ができるようになればいいと願っている。
生かされているこの生命であれば、私に突然終わりの日が来ないとも限らない。その時に、この稽古も展示も終わるのではなく、そのような日を迎える前に、この活動を継承してくれる人も育てなくてはならないと常に思っている。しかし、現実は簡単ではない。ただ書が書ければよいというだけでは済まない。並行して、知的発達障害のある人たちを理解すること、そして何より、障害も含めてその人の個性であるということや、個々の心もわかってあげることができなければならない。どれだけの思いをこの人たちに対して寄せられるか、だと思う。私は、これからも、この生かされている自分の時間を可能な限り有効に、少しでも長く、この人たちのために消化して生きていきたい。

有松則子プロフィール

昭和二十年生まれ 書道家 埼玉県上尾市在住

受賞のことば(有松 則子)

この度は、「優秀賞」という、思いがけない賞をいただき、大変幸せな気持ちでいっぱいです。私にとってこの賞は、障害にも負けずに頑張って練習に励んできた子らへの、励ましの賞だと思っております。
子どもたちの純粋な心と感性で書いた作品は、障害の壁を乗り越え、彼らの喜びや、自信に繋がり、また、作品を観た人の心に強く訴えるものがあると信じ、これからもこの活動を続けてまいります。

選評(山口 薫)

一芸に秀でると、それは他の分野にも広がっていくのでしょうか。
書道家である作者が、たまたま出あった優れた書が知的障害の子どもの作品であったことがきっかけで、この分野では全くの素人であった作者が、試行錯誤しながらボランティアとして知的障害の子どもたちに書を教えるうちに、ダウン症、自閉症など異なる障害の子どもや成人の、一人一人の個性を捉えた指導法の極意とも言うべきものを体得された過程が見事に描かれています。