第43回NHK障害福祉賞最優秀作品「ここにいたい」〜第1部門〜

著者:西岡 奈緒子(にしおか なおこ、旧姓:伏見) 神奈川県

一、伝えるということ

自分の病気について伝えるのが苦手だった。
病気のことを口にすると、後ろめたさと恥ずかしさがこみあげてきた。
障害を持ったのは誰のせいでもないのに、自分に非があるように感じていた。

筋ジストロフィー。
一言でいえば、全身の筋肉がだんだん弱っていく病気。
進行は人それぞれで、スピードも違えば症状の現れ方も違う。

私が三歳から付き合っている病気。病名を知ったのは十八歳の時。それまでは、筋肉がちょっと弱い病気ということしか知らなくて、進行もほとんど感じていなかった。幼稚園のころから走るのは遅かったし、階段には手すりが必要だったけれど、進行するということは知らなかった。
高校生のころまでは、階段を上ったり、走ったりしない限り、見た目では病気だということが分からなかったから、できるだけ周りに知られないように、病気を隠して生きてきた。

疲れやすい。階段の上り下りに手すりが必要。早く走れない。

当時の症状。説明しにくいし、うまく話せるか心配だし、恥ずかしかったから、学校では先生や親しい人にしか伝えていなかった。「疲れるから休む」と「さぼる」の境界線がどこか分からず、無理しすぎて疲れることもあった。

自分が周りと「ちょっと」違うということで、思春期の中学生のころは葛藤していた。
「何のために生きているのか」
「命はどうやって生まれて、なぜ死ななければいけないのか」
「どうしてみんな同じではなくて、肌や目の色が違う人や病気の人がいるのか」

誰も回答できない疑問が次々と湧いてきて、私は殻に閉じ込められた。 病名は知らなかったが、「現代医療では病気が治らない」ということは知っていたから、絶望していた。

当時はインターネットも普及していなかったため、症状のキーワードから病名を調べることなどできるはずもなかった。同じ病気の人の存在はまったく知らなかった。自分ひとりの狭い世界から飛び出せずにいた。

義務教育が終わって高校へ進学。
「高校は自分の意思で行く場所だから、きちんと自分から勉強をすることが必要」という先生の言葉に従い、いやいやながらも欠席せずに通っていた。
大学には行ってみたいと思っていたため、進学と同時に予備校に入学。
元来、「動けないから勉強で勝負したい」と思っていた自分にはうってつけの場所だった。
病気のことも含めて、進学についてカウンセリングを受けて、俄然やる気になった。

それからの三年間は勉強を頑張った。勉強をきっかけに、クラスメイトと話す機会が増えて、高校生活も楽しいものに変わっていった。
受験という目の前の目標を乗り越えるために、頑張ろうと思えた。
「何のために生きているのか」……という疑問が消えることはなかったけれど。

進路は悩んだ。体力が必要な仕事はできない。勉強を活かせる仕事がいい。
正直なところ、やりたいことが見つからなかった。自分の周りには、同じように病気を抱えた状況で進路を決めている人がいなかったから、ロールモデルを見つけることもできなかった。
「どこかの会社で数字を使った仕事をしてみたい」という、漠然とした考えしかなかった。

高校三年生の時に教育実習で来校した大学生の話を聞いて、「私が勉強したいのはこれかもしれない」と感じた。
「管理工学」モノ/ヒト/お金/情報といった経営資源の管理をする方法を総合的に学ぶ学問。生産管理、人間工学、経営工学、プログラミングなどを幅広く勉強する。就職率も高い。
病気がある自分はスキルを身に着けていなければ、就職が難しいと考えていた。
その先輩が通っていた大学の場所は県内だから、通うこともできるだろう。
夏休みに見学に行って、行きたい気持ちを膨らませ、一層、勉強に励んだ。
秋の推薦入試で見事、突破することができた。

推薦入試の時の書類で、診断書の提出が必要だったため、そこで病名を知ることになった。
「筋ジストロフィー 肢帯型」
大学のパソコンでインターネットを使い、検索機能を駆使して病気について学んだ。
「進行性である」ということも知った。
少しずつ体力が落ちていたから、薄々と感じてはいたけれど、病気が進むと歩けなくなって、車椅子を使うようになるかもしれないということはショックだった。

自宅から片道一時間の通学。卒業まで通えるか、不安だった。

三年生の時に校舎が変わって、駅から遠い、山の上になった。普通の人の足で歩いて片道二十分。行きは上り坂だったが、急坂を上りきる体力はなく、行きは毎日タクシーを使っていた。
入学したころに比べて病気は少し進行して、電車の座席から立ち上がるのが大変になってきていた。座る場所を選ばなければ、立てないかもしれない。恐怖を感じつつ、人の目を気にしながら、電車に乗っていた。見た目では病気が分からないから、優先席には、座りたくても座りにくい。
それでも何とか、四年間、通いきった。

通学と授業だけで体力を使ってしまうから、サークル活動に参加することもできなかったけれど、授業はほとんど皆勤だった。研究室は、できるだけ通学時間が少なくて済むところを選んだ。体力を優先してできなかったこともある。しかし、私にとってかけがえのない、充実した四年間だった。

私が障害者手帳を取得したのは、大学三年生の秋だ。
ひとつの目標だった「働く」ということに向けて、「病気をもった人」から「障害者」になった。
「両上下肢機能障害 三級」
自分の病気を示す証明書を持って、ある意味、気が楽になった。何か聞かれた時に伝えやすいと感じたからだ。

就職活動の情報探しにはインターネットを使った。障害者採用を行っている会社を紹介したホームページで、自宅から近い会社を探した。
勤務地は自宅から車で十五分。車通勤可能、社屋もバリアフリーという好条件の場所を見つけて応募した。
仕事内容が自分に向いているかは不安だったが、働いてみないことには道が開けないと思い、入社試験を受けることにした。
面接過程で人事担当者と話をするうちに、病気や障害には関係なく、やりたいことにチャレンジできる環境があるということを実感して、ここの会社で働いてみたいという気持ちを膨らませた。
病名に加えて、当時の病状、「体が疲れやすいこと、こまめに立ち回りできないこと」を伝えた。二度目の面接では実際に働く事業所で面接を行ってもらい、働くことに対する不安が少し解消した。
最終的に、三度の面接を経て内定。働くための門が開いた。

内定後の産業医との面談で、「杖を使ったほうが周りの人も足が悪いと理解できるし、気をつけてくれるだろう」と言われた。
当時はまだ、杖なしでも歩けたのだが、旅行先で、杖を使ってみることにした。複雑な気持ちだったが、確かに周りの人は助けてくれた。電車の段差が大変だった時に、すっと手を貸してくれたり、レストランでは、お座敷でなく椅子席にすぐに案内してもらったりすることができた。
初めて杖を使う場所に旅行先を選んだのは、知っている人に見られた時、何か聞かれるのが恥ずかしいと感じたからだった。
大学では、卒業式で杖デビューした。友人に少し心配されながらも、本当の自分、病気が進行するということを伝えられたのは一歩前進だった。杖によって、見た目で「足が悪いだろう」と想像できることで、病気を伝えやすくなったと感じた。

二、とりあえず三年

二〇〇三年四月。不安を抱えつつ入社の時を迎えた。ちょうど入社のころに、手帳が三級から二級に変わって、私は「重度」の障害者になった。

残業はできない。出張もほとんどできない。
できる範囲で精一杯頑張る。

私の社会人生活が始まった。

始めの一か月半の研修は、同期入社の四十人弱と一緒に受けた。立ち仕事をしなければいけない部分は内容の変更をしてもらった。
自分にできる範囲はどこまでで、どこからができないか、しっかりと把握して伝える必要がある。できるようにするには、どんなサポートが必要か。工夫してできるように考えてみることが大切。研修を通じて学んだことのひとつだ。

とりあえず三年くらいは働きたい。三年後には、病気の進行がどこまで進んでいるかは分からない。
私はひとつの目標を三年に設定した。三年が過ぎたら、五年を目標にしてみようと考えていた。

五年後、十年後のキャリアアップを考えようにも、進行のスピードは予測がつかず、体調が分からないから、将来像を描くことが難しい。その時々にできる最高のパフォーマンスを出していけたらいい。

研修後に配属されて、実務が始まってから、最初の二か月くらいは疲れ果て、二十時には眠ってしまっていた。同じ部署に同期が何名かいたけれど、自分よりもずっとスキルが高いように見えて、劣等感を感じていた。新人が率先して行うべき仕事、会議室の準備といったことも自分には上手く動き回ることが無理なため、できない。周りの人は私が病気ということを理解していたから、手伝ってくれていたけれど、気持ちの上では肩身が狭かった。
できないことがある分、仕事は一段と頑張ろうと思っていた。

一年経って、徐々に仕事も分かり始めたころ、事件が起きた。
いつもどおり、杖を使って社員食堂に行って、ラーメンをのせたお盆を運んでいたところ、転んでしまったのだ。
ラーメンをこぼして、洋服にも浴びた。
上司の計らいで、いったん自宅に帰って着替えさせてもらった。軽い火傷で済んだけれど、病気の進行のほうがショックだった。
社員食堂でトレイを持って移動するのは、もう限界。
社内には私以外にも足に障害を持った人がいて、その人はお盆を載せたワゴンを押して食堂内を移動していた。私も同じワゴンを使うことにした。今から考えると、始めからワゴンを使っておけばよかったのだが、やはりここでも私は人の目を気にしていたから、踏み切りができていなかった。
いったん使い始めると、ワゴンは手放せないものとなった。最初は人の目が気になったけれど、慣れたらほとんど気にならなくなった。転んで注目を浴びるよりは、ワゴンで注目を浴びたほうがずっといい。
仕事でよい成果を出すためには、障害のことを考えずに生活できる必要がある。病気が進行するごとに、問題をクリアしなければならない。
私がぶつかった問題は食堂のラーメン事件にとどまらない。

問題が発生するたびに壁に出会って、限界を感じる。でも私は仕事を続けたい。
病気が徐々に進行してできなくなることが増える度に、続けられるかと心配する。
自分ひとりでどうしようもできないことは、声に出していかなければ伝わらない。
声が聞こえれば、答えてくれる人がいる。
一緒に考えてくれる人がいる。こんなにも恵まれた環境だからこそ、私はここにいたい。

私には仕事の成果で恩返しすることしかできない。
病気があっても、できるだけ挑戦したい。

三、電動車椅子デビュー

入社した時には、車椅子を使うようになるまで働くなんて想像もしていなかった。
その大きな転換期、電動車椅子を使い始めるようになった時も、多くの人に支えてもらった。

入社したときの目標だった三年目の、二〇〇五年の秋。
広い社内を歩いて移動すると、一日が終わるころには、ふくらはぎが硬くなってしまい、筋肉痛が起こるようになってしまった。このままでは仕事を続けていくことが難しい。
車椅子を導入すべきかもしれないと思って動き始めた。

体調のことを上司に相談してみた。「僕は味方です」と言ってくれた。会社で車椅子が使えるように、協力してくれることになった。優しさに、涙が出そうになった。

市役所に相談に行き、会社の視察と療養センターでの診断を経て、電動車椅子が交付されることに決まった。会社生活を続けていく上での必需品だった。

電動車椅子が出来上がったのは、申請手続きを始めてから半年以上たった、二〇〇六年の六月だった。
その間に異動をして、前から働きたいと思っていた「管理の仕事」の部署に配属された。学生時代に学んだ「管理工学」が直接活かせる仕事だ。
新しい部署の上司も、私の味方になってくれて、強力なサポートをしてくれた。病気のことは異動前にあらかじめ、課員に伝えてくれたということで、安心だった。

電動車椅子を使うようになって、会議室などの移動の負担は減った。
しかし、徐々に病気が進行していくなかで、「いつまで続けられるだろう」「私は周りの人にとって負担になっていないだろうか」という不安は常に消えなかった。

数か月に一度、特に病気が進行していると感じることがあって、精神的に落ち込んでしまうことがある。不安が一層強くなってしまった時、上司にメールした。
自分が迷惑をかけていないか、と。
「障害に限らず、困っている人を助けるのは当たり前」と返信をもらった。感謝の気持ちが溢れた。

上司や課のメンバーに助けてもらいながら進んだ、新しい部署での一年間。一年の終わりごろには人事の推薦で、会社の障がい者採用のホームページにインタビューが掲載されることになった。(弊社では、あえて障がいという表現を使い、「害」の字をひらがな表記にしている)
自分のような進行性の病気の社員がいるということを伝えられる機会が与えられて、嬉しかった。
同じように病気などを抱えながら働いている他の社員と出会うきっかけも得られた。

電動車椅子を使うことで身体の負担が減り、病状も安定して調子がいいと思っていたなか、私がいた課の仕事の機能が本社に移転してしまうことになった。「管理の仕事」を続けていきたいという私の意思に沿って、異動して部署が変わるけれど、同じ社屋内で「管理の仕事」を続けられることになった。

四、叫んでもいいんだよ

二〇〇七年の四月から、新しい部署での仕事を開始。
入社してからの四年間は異動があったものの、知っている人が周りにいる環境だった。ところが、新しい部署では知っている人がまったくいない。病気について伝えることも、ゼロからのスタートだ。電動車椅子を使っているため、見た目である程度は想像がつくだろうと感じて、上司以外には、病気のことはあまり詳しく話さずにいた。
私の場合、職場のデスクに座る時は、電動車椅子から通常の椅子に移っている。立ち上がることを重視して製作した車椅子は、座面が高く、長時間座っていると足に負担がかかるためだ。
多少はまだ歩けるため、数メートルの移動は、車椅子に乗り移る時間を考えると、リハビリをかねて歩いた方がよいと思い、歩いていた。会議が多い日は移動も多く、足への負担が大きくなっていたけれど、「ここが頑張りどころ」と思って頑張っていた。

二〇〇八年四月。新しい部署への異動から一年。
ちょっとした移動の負担が大きくなってきて、徐々に無理が生じ始めた。電動車椅子を使う機会を増やす必要がでてきた。入社からちょうど五年。入社した頃の、「とりあえず三年、三年が過ぎたら五年」という目標は達成できた。

葛藤と不安を頑張りで拭いながらきた五年間。「五年」の目標は達成したが、次の目標が見えなくなってしまった。
近いと思っていた会議スペースも遠く感じるようになってきてしまった。
そろそろ辞め時なのだろうか。悩んだ。
「何のために生きているのか」という疑問も再び湧き上がってくる。無理しながらも働くことが自分にとってプラスなのだろうか。

障がい者採用のホームページがきっかけで知り合った、一期上の先輩に相談したところ、
「もっと声を大にして、産業医や人事にも相談してみたほうがいい。無理って叫んでもいいんだよ」
とアドバイスをもらった。
アドバイスにしたがって、産業医と面談することにした。産業医との面談は入社前の面談以来だった。

「筋ジスは見た目で進行が分かりにくいから、理解しにくい病気です。うまく理解されないと、誤解が生じることもあります。でも、仕事をすることで、病気を忘れている時間ができるでしょう。徐々に病気が進行していくなかで、バランスが取れなくなって精神的に少し疲れてしまっているかもしれない。無理しないようにしながら続けていけるようにしましょう」

産業医の客観的な意見を聞いて、自分の考えも整理ができた。気が楽になった。
本当の自分はやっぱり「辞めたい」のではなくて「続けたい」のだということを認識できた。無理が続くと辞めたくなってしまうから、問題をクリアにして、続けていけるようにしようと感じた。

次の週、上司も一緒に産業医と面談した。

「社会参加することが伏見さんにとって、プラスになっています。今後はこういう(重度の障害を持っている)人が社会進出する機会が増えるから、ハードでもソフトでも環境整備が重要です。職場の人にも病気のことを伝えたほうがいいでしょう」

その日、産業医の言葉を受けて、上司が課のメンバーに病気のことを話した。
席替えをして、椅子に座ったままで移動できる場所に会議スペースを作ってもらった。
課のメンバーも、一層支えてくれるようになった。続けやすい環境を整備してもらい、感謝が絶えない。

今後の働き方を考えるために、人事とも面談をした。
入社以来ずっと気になっていた、「進行性の病気の人で、働き続けてキャリアを築いている人がいるか」という質問の答えを聞いた。答えは「今まではいない」ということだった。
逆に私がパイオニアだと言われた。

徐々に病気が進行していて、徐々に働くのが大変になっていくかもしれない。今後の目標を考えるのが難しい。自分の気持ちを素直に伝えた。

「昇進とかを考えるよりも、続けていくということが伏見さんの目標でもいいかもしれない」

そう言われて、目の前の道が開かれた気分だった。

「問題が生じたら、ひとつずつクリアできるように会社としても取り組んでいくので相談してください。今は障がいを持った人が在宅で働く制度とかが、うちの会社にはないけれど、今後必要になったら考えていかないといけないと思っています。働きたいという意思があって、アウトプットが出せる限り、サポートしていきます」
と言ってもらった。あらためて、ここにいたいと思った。

五、ありがとう

「何のために生きているのか」という疑問に対する答えはまだ、見つかっていない。
ひとつの目標は働き続けること。
私が続けることで、同じような病気の人がもっと働ける環境が広がっていけばいいと思う。微力ながら、続けることでアピールしていきたい。
応援してくれる人がいる限り、続けていきたい。

自分の病気のことを伝えるのが、少しは上達したと思う。
病気のことを口にしても、恥ずかしいと、ほとんど感じないようになった。

「君が頑張っているのをみて元気をもらえる」と言ってくれた上司がいた。
「守る」と言ってくれた上司がいた。
「もう限界かもしれない」と思う度に支えてくれる人がいる。

身体が弱い分、多くの人に支えてもらって、その分、出会いも多い。一人では当然生きていけないけれど、弱さゆえに感じることができる、人のあたたかさがある。

これからも病気がどのように進行していくかは、分からない。
自分なりの形で、働き続けていきたい。社会と繋がっていたい。
自分が仕事を頑張ることで、支えてくれる人たちに感謝を伝えたい。

ありがとう。
できる限り、ここにいたい。
ずっと、ここにいたい。

西岡 奈緒子プロフィール

昭和五十五年生まれ 会社員 神奈川県藤沢市在住

受賞のことば(西岡 奈緒子)

ここまで仕事を続けてこられた感謝の気持ちを文章に残したいと思って書いたので、障害福祉賞を通じて、自分の経験を多くの人と共有できることを嬉しく思います。
会社の人、友人、家族、その他多くの人の支えがあってこそ、自分のチャレンジを実現することができています。
一緒にいて、必要なときに手を差し出してくれることに、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます!
これからも自分の夢にチャレンジし続けたいです。

選評(松原 亘子)

御自分の病気が進行性であることを知って約十年、その間ずっと「働く」という目標に向かってひたすら努力した西岡さん、貴女は、病気を抱えながら、働くためにスキルを磨き、働きやすい会社を探し、そしてそこに働く場を得た素晴らしいロールモデルです。「仕事を続けたい」「仕事の成果で恩返し」という西岡さんのひたむきな態度が職場の皆さんのサポートをより一層引き出したのだと思います。
障害者の雇用を進める上で、本人の意欲と努力そして企業の支援が不可欠であることを改めて認識させられました。