第42回NHK障害福祉賞優秀作品
「掌のsign」〜第2部門〜

著者:渡辺 りえこ (わたなべ りえこ) 兵庫県

私の両親は耳が聞こえません。
両親の耳が聞こえないことや手話で話ができること、それが普通だし当たり前の事です。日本語を覚えることよりも早く手話を覚えたのです。「なんで手話ができるの?」とよく聞かれますが、それは私が一番聞きたいことで、両親と会話する手段が手話しかなかったから。それだけです。
だからといって「なんで両親は耳が聞こえないのか、他の友達の両親は聞こえているのに」と悲観的に思ったことは一度もありません。
逆に、手話ができること、今まで幸せに暮らせたことなど両親に感謝する気持ちでいっぱいです。
手話は、人間の心の奥深くを身振り手振りで表すことで、感情を深く伝えることができると思っています。言葉だったら、簡単に上辺で言えてしまうけど、それが手話にはないのです。お互い向き合って、その人の表情、手の動かし方、口の動き、目の動かし方、すべてで伝え、受けます。そんな環境で育ったので、私は人の表情や、しゃべり方、動きにものすごく敏感です。感情豊かに思いやりを持って接する音の無い世界はとてもピュアで繊細ですばらしいです。
この作品を通して、耳が聞こえないということ、手話がどれだけ素晴らしいかを少しでも感じていただければ幸いです。

震災

小学校に入学してから、早六年の月日が流れた時の事です。あれは忘れもしない出来事。一月十七日五時四十五分。阪神淡路大震災。
大きな揺れが私たち家族を襲いました。ドーンっと言う爆音と共に、横に何回か揺れて、縦にも大きく揺れて。子供だった私は、ジェットコースターの夢を見ており起こされた時は夢の続きかと錯覚しました。本棚はバタバタ倒れ、横に寝ていた妹と二段ベッドの下でただ事ではないと感じ飛び起きました。
数分後。母が部屋のドアを開け、“りえ、なほ”と呼びました。
聾者の母の言っていることは他の人には理解できないと思いますが、私にはよくわかりました。暗闇の中に響く母の声にすごく安心しべそをかきました。
本棚の山を越えて、私は暗がりの中、母の手を掴んで“大丈夫、大丈夫”と手話で言いました。
昔よく、電気を消しても眠れない時は母の手を掴んで、動かし、指文字で話しかけていましたから、暗闇で話をするのは得意なのです。
母は安心したみたいで、私の手を強く握りました。
“外、外”と、また母の手を掴んで言ったら母は理解して、私を玄関の所まで連れて行ってくれました。ドアを開けると外の非常灯の明かりが射しこんできました。
眩しそうな私の目に、真っ赤になった母の顔が飛び込んできました。
顔中血だらけになっていた母。どうやら、倒れてくるときタンスの扉の角が、母のまぶたを直撃したらしい。
私はなぜか冷静で、母に“顔が赤いから洗ったほうがいいよ”と言いました。
母にその事を伝えると“きづかなかった”と言いました。自分の事よりも、私たちの事を心配して、慌てて部屋に来てくれた母。ものすごく母の愛を感じました。とにかく救急車呼ばなきゃ! と思い電話をかけてみるものの一一九は全然つながりません。
母が顔を洗っている間に外の様子を伺おうと出てみるものの、外は救急車のサイレンがひっきりなしに鳴り、多くのけが人が、私たちと同じように助けを求めていました。
道路は、いままで見たこともないようなひび割れになっており、あちこちに段差ができていました。どこの家も窓ガラスが割れ、電柱もゆがみ、東と西に一棟ずつそびえたつ友達の住んでいる高層マンションは、片方の棟がグニャっと海側によじれていました。
でこぼこ道を歩くとその先に小さい家が出来ていて道は完全に塞がれていました。
あれは今思うと小さい家ではなくて、道に倒れて潰れ屋根だけ道に残っている家の残骸でした。町中がパニックになり、本当に恐ろしい光景だったと思います。
両親は耳が聞こえないためかなりの情報がシャットダウンされていました。
たくさんの人がいる方が安心だと思い、早速近所の情報を両親に伝えて学校に避難しようと提案しました。
そこから約八日間、私たち家族は、小学校の体育館で避難生活を送るようになりました。

共に生きていこう

私は両親の耳になっていました。
食事の配給などの放送が校内アナウンスで流れると、母にすぐ言いました。
地震の時は、ホントに耳が聞こえないことで、校内アナウンスやラジオなどの情報が眼で確認できないため、父と母は大変困ったと思います。だから、もし災害にあった時には、耳の聞こえない方が近くにいたら、自分で精一杯だとは思いますが、少しでいいので、たとえ手話ができなくても口を大きくあけて、情報を教えてあげて欲しいと感じました。そうしたら、凄く助かりますから。
避難所生活にもなれたある日のこと。ある一人の新聞記者が私たち家族を訪ねてきました。
「向こうにいるおばさんに、耳の聞こえない両親に通訳して頑張っている子がいるよと聞いたのだけど取材させてもらえる?」と言われました。
私は、別に頑張っている訳じゃなくて、普通にしてるだけなんだけどなあと思いましたが、父と母に通訳して、了解を取り、取材を受けることになりました。
後日、その記事は、思ってもみないことに産経新聞の一面に大きく取り上げられました。見出しは“小六少女、一家の大黒柱”写真は、家の玄関先で、両親が私の後ろで手を振って送り出してる写真。
私たちが避難所を後にして家に帰った日、新聞記事を読んだ人なのか、多くのテレビ局の方が私たち家族を取材しに来ました。
テレビが放映され、そのあとテレビを見た人が、本にしたいと言うことで、小学館から本が出版されました。
さらに本を読んだ方が、アニメにしたいと言って、アニメにもなりました。
今思うと奇跡みたいなことで聾の方のことを多くの人に知ってもらえるきっかけをもらったこと、色々な人に関われたことは本当に幸せだなと思います。

その経験の中で、一番心に残っていること。父がマスコミの方にインタビューを受けた時のこと。マスコミの方が「自慢の娘さんじゃないですか?」と質問しました。
私は父にその事を通訳するのに、すごく照れ臭くなってちょっとうつむきました。
“自慢の娘さんじゃないですかって聞いてる”恥ずかしそうにお父さんに伝えました。
すると父は、“自慢の娘です。娘は宝物です”と言ってくれました。
私は思わずマスコミの方に言う前に泣いてしまいました。“ありがとう、おとうさん”
地震を通して、両親の愛をものすごく感じたし、普段全然関わりのない人も家族のように接してくださったことはきっと一生忘れないと思います。両親や周りの人のことが大好きになりました。素直に自分も困っている人を助けたいと思いました。それと災害を目の当たりにして人間は無力な生き物だと痛感しました。最後に残るものは、お金でしょうか? 人の気持ちでしょうか? 私は「共に生きていこうとする力、気持ち」が第一にくると思いました。人は一人では生きていけないこと、周りに支えられて自分が生かされていることがわかりました。だから、もしこうだったら自分の世界はどうなっていたのかを考える必要があるし、実際に不便だと感じている人は意見を言う必要があるし、不便だなって考える人たちへの歩み寄りが必要なのだと思います。不便だと思う方の意見を取り入れて、その方たちは助かる。優しい気持ちで、より多くの人が助かる世の中になっていければ素敵ですよね。

掌の音

それから、私は中学、高校と進みました。
変わらず両親の耳となり、家族と一緒に過ごせる毎日が幸せでした。私は歌を歌うことが好きだったので、高校の学園祭でオリジナル曲を全校生徒の前で披露して好評だったこともあり、路上で歌を歌おうと決めました。JR大阪駅の前で、歌っていた時のこと。
何やら向こうのほうに、手話をしている四人組を発見!
中年男性二人、中年女性二人の四人組が手話で話をしているのが見えました。
私は、慌てて自分の歌を手話で聞いてもらいたいと思い、その四人を引き留めました。
“すいません、わたしの歌を聴いてもらえませんか?”
“ごめんね、旅行帰りで疲れているから”と断られてしまいました。
すこし落ち込んでいると、なんとその四人組が戻って来てくれました。
その時はじめて手話を使って歌を披露しました。曲が終わった後に一人の男性が、すごくいい歌だったと目に涙をためて言ってくださったのです。もちろん、私の声や流れている伴奏は、四人には聞こえていないはずです。けれど、私の思いは伝わって四人の心の中には、確かに私の音楽が流れたのだと思います。たとえ耳が聞こえなくても、音楽を感じ感動することができるのだということに気がついた瞬間でした。
その日から私は、【歌を歌う女の子】でなく、障害を超え、たくさんの人に歌を通じて、音楽の本当の良さを、本当のすごさを、伝えられるsign(手話をやりながらより美しく表現することをsignと呼んでいます。)シンガーになろうと決心しました。
十九歳の夏でした。
聾の方に、音楽の感動を伝えたい…とにかく歌のオーディションをいくつも受け、ドラマの主題歌の最終選考に残ったり、人気投票一位になったりしましたが、歌の世界はきびしく、なかなか前進することができませんでした。
「両親になにもしてあげられていないし、私はなにも伝えられていない。」無力な自分を感じ辛い日々でした。
そんな時、小学校六年生の時の阪神淡路大震災の経験が、十年の年月を経て、再度産経新聞の一面に取り上げられました。その見出しは“歌声、障害者に響け”。私が歌手を目指していること、手話で歌が歌えることなど、阪神大震災の経験に加えて書かれてありました。その新聞を通じて一通の手紙が届きました。それは、聾の大学生の方からのお手紙で私の主宰している手話サークルでぜひ歌ってくださいという内容でした。
胸が飛び上がるくらいうれしかったのを覚えています。路上でスカウトされて、色々なところに歌いに行ったこともありましたが、手話サークルに歌いに行くのは初めてだったのでワクワクしていました。しかし、ある出来事を思い出しそれ以上に不安な気持ちを持っていました。
それは私のオリジナルのsignソングを母に聞いてもらった時の事。
母はこう言いました。
“良かったけど、お母さんには、りえちゃんの歌声きこえないよ”
この世の中の光が一瞬にして、真っ暗になったかのように、私の心は暗闇で包まれました。いっぱいいっぱい目から雨粒が落ちていきました。“そんなこと分かっているよ!”
母に手話できつくあたりました。お知らせランプ(音をキャッチするとピカピカとランプが光る機械。離れたところに居る時これで両親を呼びます。)はピカピカ光りっぱなしでした。私はお母さんの声が聞こえても、私の声はお母さんには聞こえない。
分かっているようで、分かっていなくて、その現実を突然目の当たりにし、私は心も体も、涙でいっぱいになりました。それは空想の世界じゃなくて悲しい現実でした。私の声は本当にお母さんに届かないのでしょうか?
“お母さん一度でいいからりえちゃんの声が聞いてみたいな”
母はこの言葉をどんな思いで私に言ったのかはわかりません。
“ホントにりえの声聞こえないの?”分かっていることなのに、こんな残酷な言葉を母に投げかけました。
“ホントに聞こえないよ。響きならわかるのだけどね”
“ねぇ、お母さんはりえの声を聞くことは絶対にできないの?”
“できないと思う”
思うの言葉にかすかの光を感じたけれど、きっとそれは、母の優しさだと思う。
“お母さんはどんな声をしているの?”と母は聞いてきました。
“お母さんは高い声をしているよ。なほとりえこの声に似ている”
“お母さんの声はいい声だよ。もし、お母さんが聞こえていたら、歌めちゃうまいと思う”
母はニコって寂しそうに笑ったのを覚えています。
聾の世界では、手話で歌を歌うことはあまり賛成はできないという方が多いようです。特に聾学校で音楽を取り入れていない両親世代の方にとっては。
この言葉に、ものすごく落ち込み悩みました。私のやっていることは本当に人を幸せにするのだろうか? と。
“ピアノ教室に通わせたり、普通の聾の親はしないことなのだけど、りえちゃんがやりたいって言ったからお母さん習いに行かせたの。だから、自分のしたいように生きたいようにしなさい。手話で歌を歌うことは、なかなか聾の方に、特にお母さんの世代の人に受け入れられないかもしれないけれど、りえちゃんのやりたいようにやりなさい”
私の母はいつも、私の思ったように、後悔のないように責任を持って生きなさいって、必ず私が迷った時に言います。
私はその言葉に勇気づけられて、緊張感をもってライブに望みました。
百名近いお客さんが、私の歌を聴きに集まってくれました。聾の大学生数名と、健聴の大学生数名とが主催となり、会場は若者でいっぱいになりました。私は同世代の聾者と接したことがなかったので、すごく緊張しましたが心を込めて一生懸命歌いました。
聾者の方も、健者の方も凄くすごく喜んでくれました。本当にうれしかった。
その後、そのステージを見に来ていた、手話団体“オール”の方から手話ライブの依頼をいただき、初めて手話の講演やらせていただいて、両親のこと、地震の体験について、自分自身について、自分の夢のことを話しました。その後、手話でいつものオリジナル曲“幸せに輝くように”をsignで歌いました。この事を通じ、手話サークルに通うようになりました。手話の先生をしている聾の同い年の女の子二人組とは、年も近いこともありすぐに打ち解け仲良くなりました。みんな若いこともあり性の話になったのですが、私は性的な手話を一個も知らなかったのです。家に帰り“こんな手話習ったよ”って、母にみせたら凄く怒られたのを覚えています。
手話のサークルの先生は、力のある聾者の方がいるように、力のない健聴の方がいると教えてくれました。誤解しないでいただきたいのですが、力のあるというのは、自分で何でも自発的に行動し達成する人、社会で価値を高めていく人の事です。障害は関係なくきっと魅力ある人になる為に、努力している人は世に出るのだと思います。人間はいつの時代も、中身で決まるのだと思いました。同世代の人間関係が増える中で、いままで親には教わらなかった手話の世界を知ることができ嬉しかったし、私も負けずに頑張ろうと刺激されました。

上京

嬉しいお知らせが届いたのは手話サークルに通いボランティアをしているある日でした。お天気キャスターのオーディションに合格しました。両親もすごく喜んでくれました。けれど、私は一つ心配事がありました。このまま親を妹に任せて一人夢を追いかけていいのだろうか? 母は“そんなこと気にしない! りえちゃんが居なくても大丈夫!”って目をウルウルさせながら言ってきました。
“いつでも帰っておいで”と見送ってくれました。
でも私の方が「本当はきっとお母さんが居ないと寂しくて、きっと家が恋しくなってしまうよ」と心で思っていました。迎えに来た新幹線が東京へのエールを送るように出発の合図がなりました。
そっとドアが閉まり、ドアの向こうの母の顔が滲んで見えました。
“お母さん、東京で頑張ってくるね。”
ドアの向こうの母に言いました。母は“いってらっしゃい、また帰っておいで”
母の素敵な笑顔が見えました。
私の夢と希望をのせて新幹線はゆっくり走り出しました。
お母さん…… 小さくなったお母さん、まだ手を振っている。溢れ出した涙が床に零れ落ちました。
“両親を幸せにするため、signを伝える為、絶対頑張ってくる”そう心の中で誓いました。
東京ではお天気キャスターをした後、メジャーでCDデビューを果たし、福祉団体や手話サークルイベントで歌ったり、自動車メーカーの福祉車両展に手話通訳として少しでもお役に立てるようお手伝いをしました。
二〇〇七・一・十七 私の人生にとって深く関係のある阪神淡路大震災が起こった日。NPO法人の「音の羽」の協力の下、着うたサイトmusic. jpさんから、日本初の手話着うたムービーを配信して頂きました。その売上の一部は聾唖協会に寄付されました。
携帯から自分の歌が流れて、映像で手話をしている自分がいるのです。たいしたことはないけれど、やっと聾の方のお役に立てることができたのです。母に報告して、着ムービーを登録してあげるとすごく喜んでいました。いままでで一番かわいい笑顔でした。

Sign

これからも手話のあったかさ、心の壁をいとも簡単に取り払うことができる音楽の魔法を、たくさんの方に知ってもらい、聾の方のお役に立てるよう頑張っていきます。
私の経験と歌と手話で、たくさんの人の心のかけ橋となれればいいなと思います。これを読んでくださった方が少しでも優しい気持ちになってくれたら、温かい気持ちになってくれたら嬉しいです。
いつ自分が助ける側、助けられる側になるかなんて分からない。
理解するということはお互いに歩みよっていくと言う事だから。
毎日私に出会う人に、優しいsignを送りたい。優しくなるということ、それは、その人を理解すると言うこと。難しいことではなくて、きっと日常の何気ないsignをキャッチする事からだと思うから。

あとがき

このたびは、本当にありがとうございました。
これからも自分ができることをたくさんやって生きていけたらと切に思います。
私自身も、これを書くうちに、何か大切なことを自分は忘れていたんじゃないだろうかと再確認できました。自分自身、母との切ない思いを思い出し、自分を見つめなおすことができました。父、母への感謝、周りの人への感謝の気持ちはいつも持っているつもりだったけれど、もう一度振り返ることができてよかったです。
こんな素敵な機会を与えてくださり本当にありがとうございました。

渡辺 りえこプロフィール

昭和五十七年生まれ シンガーソングライター 兵庫県芦屋市在住

受賞のことば(渡辺 りえこ)

この度は優秀賞という立派な賞を頂きとても光栄です。受賞した事を心から嬉しく思っています。しかし、この作品を書くのに、“四百字を二十ページ”なんて、もの凄い量だろうと思い、無我夢中で書き綴っていると、気づいたら約三万五千文字を書き綴っていました。
なので、伝えたいことは全体の半分以上書くことができなくて少し残念ですが、残りの半分はこれを機に本に出せたらなぁなんて目標ができました。
たくさんの方に、聾である事、健聴者である事、そして何よりも手話のすばらしさ、人と人とのつながりのすばらしさ、家族のありがたさ、そして、共に歩んで行くということを、ぜひ実感していただけたらなぁと思います。
これからもソロでメジャーデビューの夢を叶えるため、自分の活動をどんどん広げて、たくさんの方に暖かい気持ちになっていただけるよう頑張って生きていきたいと思います。
すべての方に感謝の気持ちを込めて…。この度は本当にありがとうございました。

選評(江草 安彦)

聴覚障害の両親のもとに生まれ、日本語より早く手話を覚え、両親の耳になった。自慢の娘である。そんな環境で人の表情やしゃべり方、動きに敏感で感情豊かに育った。手話をやりながら美しく表現するsignのシンガーになる。お天気キャスター、手話通訳など多方面で頑張っている。考えられないほど出会う人にやさしくエネルギッシュな活躍に驚くばかり。いつも内省的であることに頭がさがる。

以上