第42回NHK障害福祉賞矢野賞作品
「身障者夫婦の現実」〜第2部門〜

著者:佐藤 次郎 (さとう じろう) 福島県

平成十四年十月三十日、午後四時、妻(ハツ子)が突然脳内出血で倒れた。
この日は朝から小春日和のような暖かい日であった。昼食の後、二人で庭先に並べてあった君子蘭の鉢を家の広い南側の廊下に取り入れる作業をしていた。
午後四時。仕事を終えたので、私は二階の自分の部屋に戻ろうと階段を上ったが、何か胸騒ぎがして下りて妻の名を呼んだが返事がない。おかしい、と思って奥の八畳間の襖を開けてびっくりした。部屋の真ん中にうつ伏せになって倒れていた。とっさに妻の口元に手を当てたが呼吸が無い。「落ち着け」と自分に言い聞かせながら、救急車の要請をした。
幸いにも早く来てくれ、そのまま、福島赤十字病院に運んでくれた。車の中で心電図をとってみたが脈はほとんどない。ところが、二、三分も走ったろうか、妻は大きな呼吸をした。隊員が「大丈夫かな?」と言ってフルスピードで病院に向かった。
到着してみると、脳外科では手術中とのこと、それが終わればすぐ取りかかる、ということになり、救急室に入った。
私は家族にこのことを知らせようと、持って来た鞄を開けたが住所録が無い。慌てている時、当直室の電話に邦博から電話が来ている旨を知らされた。
「母さんが倒れたのか、今、病院に向かっている」県内の川俣高校にお世話になっている三男である。
最初に駆けつけてくれたのが隣家の宍戸加代子さんであった。自宅を出る時、宍戸さんに日赤に行きます、と一言話をして出て来た。宍戸さんは民生委員をなさっているが、この家とは古いつき合いである。「邦ちゃんに連絡しておきましたから」とのことであった。
手術が始まったのは午後六時、終わったのが九時過ぎ、そのまま集中治療室に移された。
手術中、急を聞いて集まってくれたのは十数人、及川先生から簡単な経過を聞き、説明は明日にします。急変あればすぐ連絡するから自宅で待機して下さいと言われた。
東京から長男由勝、宇都宮から次男則康が駆けつけてくれたのは夜半になっていた。
翌三十一日、及川先生から病状の説明があった。
「出血が五十有り、搬入時には呼吸停止の状態でした。脳卒中重症型で脳内出血です。薬を使ったところ右手足が動いたので手術に踏み切りました。現状では刺激で目を開け、右手を動かします。手術して止血、五ミリほどの細管を脳内に入れてあります。手術は成功しました。但し、左手足の機能回復は絶望。意識は二週間ほどで出て来ると思いますが、ダメージが大きいので、今、何とも申し上げられません。二、三分過ぎであれば手術も出来ませんでした」とのことであった。

手術後の経過

同年十一月二十三日、ハツ子は目を開け、医師の質問にうなずく。二十七日からリハビリでベッドに座る訓練をした。鼻から流動食を入れていたが、飲み込みがいいので夕食から粥になった。十二月十四日「夜」と字を書いた。私は夜が寂しいのか、と言うとうなずいた。二十六日、突然「ビビビ」の発声があった。図を描き示すと耳鳴りを気にしているらしい、と思った。
翌十五年一月一日、午後二時、字を書きたい合図。書かせてみると「送 送 死」と書いた。私は一瞬、死を考えているのか、と驚いた。その後三日間、食を取らない。死を覚悟したとしか思えない。懸命に生きる事を説得したが、二月十四日、リハビリも拒否した。
私は、大動脈弁閉鎖不全症で人工金属弁を装着した身。今まで私の事を中心にして過ごして来た。これらの事を考えての事、とも思った。
説得が効き、二月二十八日「ありがとう」の言葉が出た。同時に訓練士に支えられベッドの側に立った。
すでに病院側からは三月一杯で退院するよう通告があった。治療はここまで、これからはリハビリだけだから、との理由であった。
私は障害を持つ身。息子達は遠い地で家族を持って生活している。自宅に連れてくる事が出来ない。私は老人保健福祉施設七か所、介護老人保健施設五か所を訪ね申し込みをした。驚いたことに、どの施設も待機者が一○○人、二○○人となっていることであった。
訪ね回っても入所の見込みがない。思案の末、いわき市にある、社会福祉センター「太陽の里いわき」に入所させていただいた。
この施設は完全な総合福祉施設で、私が国立大学を定年退官した後、この施設を持つ理事長田久孝翁氏の短期大学の学長職を務めたことがあり旧知の関係があった。
この中のケアハウス「日之出荘」に四月一日、家族とともに出立し、夫婦で入所した。
しかし、どうしたことか、入所四日目から食事も取らず、点滴、注射すら拒むようになって来た。施設内の診療所だけでは済まされない事態となり、市内の市立K病院の診療を受け、生命を維持するには「胃ろう」だけだとの話であったが、この病院に入院出来ず、市内のT病院に入院した。T病院に入り、「胃ろう」の話を出したところ、この病院では手術をしない。するとすれば他の病院に移るほか方法が無い。当人の衰弱も見る見るひどくなり、移すことすら危険な状況となって来た。食を取らず吐き気が多く、見るにしのびない状態となった。
ここで静かにねむらせようかと思い、迷いに迷った。同じねむりなら家族の近くで、と思い福島市に帰ることを決心し、この事を担当医師に話すと、この状態で動かすことは死を覚悟せねばならぬ、とのことであった。
ここまで福島から来て、と思い迷ったが、この状態では一刻も早く福島に帰ろう、途中の危険は覚悟し、夜半であったが、日赤(福島赤十字病院以下同じ)での主治医及川先生の自宅に電話を入れ事情を話した。
「先生、もう一度、ハツ子を生かしたいのです。先生の所に再入院させて下さい」
「とにかく詳しい様子を聞きますから、福島に来て下さい。とりあえずベッドは一つ用意をしておきます」
私は三男の邦博に日赤に行くから迎えに来てほしい旨を連絡した。
「なにかあったのか、親父無理するな」と言いながら朝七時近々、日之出荘に来てくれた。
福島市からは自動車で三時間はかかる場所である。
「母さんを移したいのだ。及川先生のところにすぐ行きたいから、頼む」
邦博も母の容態は充分承知していた。
「父さん、あきらめては駄目だ。最後の最後まで手を尽くそうよ」
日之出荘からT病院に行き、妻の容態を確かめ、看護師に事情を話し、連絡先を邦博の携帯電話にしておいた。
日赤に着いたのは午後一時過ぎであった。
「渡部部長先生がお待ちです」と受付で聞き、すぐ部長の外来診察室に通された。
私がハツ子がこん睡状態に入る前、「ハツ子俺だ、わかるか?」と問いかけた時、右手を小きざみに上げながら、まぶたの所に持って行きたい様子、そっと手を添え目に当ててやると、親指と人指し指で目を開けようとしている。私はまぶたを開けてやった。
「母さん、俺だ、見えるか?」少し目が動いたな、と思ったときコクリとそのまま眠りに入ってしまった。
「これが最後か」と口にしながら、何としても生かしてやりたい。その時の様子を含め「先生、どうかこの病院で眠らせて下さい」と懇請した。
「父さん、ここは病院です、やれるだけの治療をしていただきましょう」と邦博が口をはさんだ。後で考えてみれば病院は治療する場所であって「ホスピス」ではない。
「わかりました。T病院の了解が必要です。すぐ紹介状を書きますから、それを持って行って話を聞いて下さい」
この日は緊急の手術があり、紹介状が出来たのは午後七時頃であった。
「父さん、俺が行ってくる。T病院に電話を入れて置いて下さい。先生に会えない時は看護師に頼んで来る」
邦博がそのままいわき市に向かった。
夜の十時過ぎ、彼から電話があった。
「こちらも手術中で先生には直接お会い出来なかったが、看護師長さんに事情を話し、無理なお願いですが、親父が明朝九時にこの病院に来たいと言ってます、その時まで紹介状をいただきたい。とお願いしました。母さんは吐き気が続いているが大丈夫だ。すぐ帰る」
三男が自宅に戻ったのは朝三時過ぎであった。私は朝六時五分の高速バスに乗りT病院に着いたのは九時頃であった。有難いことに紹介状をいただいた。
私は午前十一時の高速バスに飛び乗り、午後二時、日赤に着き及川先生にお会いし、T病院からの紹介状をお渡しした。
「わかりました。移しましょう」
五月五日、午前十時、寝台自動車でT病院を出発、午後一時三十分、日赤に着いた。
妻をベッドに移してすぐ及川先生に改めてお願いした。
「こんな状態になるとは……」先生も驚いた様子であった。
胃の中を調べると胃潰瘍であることがわかり、内科で治療をし、その結果で手術をすることになった。
十日ほど過ぎ、潰瘍の完全な治療を待っていられない、と「胃ろう」の手術に踏み切った。
日赤で「胃ろう」のためリハビリを受けられるまで回復した。
平成十五年八月一日、日赤から市内にある「リハビリ南東北福島」に移った。ここも老健施設である。
入所したその日、施設長の笹沼弘一医師から診察を受けた。
「ハツ子さん、べろ、舌を出してみて?」
妻は笹沼医師の顔を見て、ほんの少し舌を出した。
「ウン、大丈夫だ。口から食べ物を入れるよう訓練しよう」と付き添って来た看護師に経口摂取訓練する旨を告げた。
ゴム管で流動食を注入していたが、三週間目から「飲み込みがよいから昼食から粥にしてみよう」となり、日赤から持って来た栄養剤を使い切ったら、三食全部を粥ときざみ食にしようとのことであった。
昼十二時、食事が始まった。見ていると動く右手を使い、スプーンで掬い上げるが半分ぐらいこぼしてしまう。気にしている様子なので側に行って、「大丈夫だ、後できれいにしてやる」と勇気をつけてやると、安心して懸命に口に入れた。三か月目頃から、おしめをパンツに代えトイレ訓練に入ったが、二週間後、脚力が無く危険だとして逆戻りになった。
平成十六年三月二十七日、市内にある老健施設「聖・オリーブの郷」に移った。
四月五日、部屋に入ってみると妻は布団をかぶったままでいる。すぐ右手を高く上げ左右に振る。「これか?」と問うと窓を指す。レースのカーテンを閉めてくれ、と言うことがわかった。白内障で目の手術をした妻には南側のガラス越しの光は目に眩しいので、それを防いでいた。言葉さえ出れば、と思いながらカーテンを閉めてやった。
五月二十日、朝部屋に入って声を掛けると「ハイ」と返事があった。今日は調子がいいなと思い、今まで一度も話さなかった病気になった経緯を話した。私の目をジーと見て聞いていたが「……だからここにいるんだよ」と語り終えると、顔いっぱいの涙を流し号泣した。「早く元気になって花園町の家に帰ろうな」と慰めるのが精いっぱいであった。
施設での日課に十時のお茶の後、体操がある。その後、風船バレーや缶積みなどのレクリエーションがある。
体操は車いすに乗ったままだが、指導員が「右手を上げて」「左手を上げて」「右足を上げて」と号令がかかる。妻はいつも右手だけ、時には他人が下ろしても上げている時がある。駆け寄って教えようか、と思うが、指導員の号令に反応している。これでよいのだと思い返した。
レクリエーションで、空缶積みがある。先日、積み上げが終わり、拍手を得て涙を流していた。
四月十六日、散髪のため午後一時から四時までの外出許可を取って自宅に帰った。施設にも理髪室があるが、ここでの散髪を拒む。
自宅に帰り、以前からの美容師さんに散髪していただくと、気持ち良く出来る。この日は散髪を終えると部屋を見回わし、施設に帰りたい様子、確かめてみると帰ると言う、自宅だとわかっているようだが、入所している施設がいいのか、何とも複雑な気持ちになった。
六月二十日、日曜日、思いもよらぬ出来事があった。自分で胃ろう器具を引き抜いてしまった。医師、看護師さんが来て処置をしていただき、二週間の入浴禁止で事は治まったが、なぜこんな行為をしたのか心配であり、いつどんな事態が出てくるのか不安である。
ただ、機嫌のいい時は、私が側でウトウト仮眠をすると、ベッドを叩き、寝て休め、とのしぐさをする。この時にホッとする。
年が改まり平成十七年、四月頃から妻の気持ちが荒むようになって来た。注意して対応して来たが、七月二日、お茶の時間になり、「茶を飲みに行きましょう」と介護員のKさんが迎えに来た。妻は横を向いたまま。再び声をかけられ、起きるしぐさをした。Kさんが丁寧に妻の右手を自分の背中に当て起こそうとすると妻はKさんの髪の毛を強く引っぱった。慌てて私が妻の手を押さえてみると、ますます不機嫌になった。優しくなだめられ、車いすに移され部屋を出て行った。
妻は気が荒くなり、反抗的な態度が出て来て心配していた矢先のことであった。
私の妹が面会に来た時、同じようなしぐさをする知人を知っているが、心療内科にかかって落着いている、との話を聞き、私はもう一度、日赤入院時に実施した、文字を見せ話せるように、また、カルタ、筆談をしてみようとしたが、どれも受け入れない。強制はかえって逆効果だと思い中止した。
看護師長さんに改めて、今までの妻の行動を聞き、改めて日赤の渡部部長先生にご相談したい旨を話し、改めて紹介状を施設からもらい渡部先生にお渡しした。
「佐藤さん、あなたの目で、この様子をみていますか」「はい、その通りです」と申し上げると、「薬を使ってみましょう。その処方を書きます。施設に渡して下さい。投薬後は動作が少し鈍くなりますからね」と言われ、処方箋をいただき施設に渡した。
十月二十二日、施設から改めて「施設サービス計画書」が渡された。
十一月二十八日、妻の誕生日で八十歳になり施設からお祝いの色紙をいただいた。
クリスマスの日が近くなり、ホールにはモミの木を模した飾りに、赤、青の光が点滅し、妻もどうやらこの年を過ごすことが出来た。
平成十八年九月七日、高熱が出て日赤に入院、二十一日に退院した。
平成十九年四月二十日、尿路感染による敗血症で更に日赤に入院、六月四日、新しく胃ろう器具の交換をし、二十四日退院となった。
どうしたことか妻は胃ろうの穿孔口を閉めておくボタンを気にする。右手が自由であるためだ。栄養剤を流す間は手袋をするが終われば素手になる。この胃ろうが気になるのであろう。看護師長さんに相談すると、そのような人もいたことがあって、これを使ってました、と長い下着を見せてもらった。二枚の下着を使い一枚は下半分切り取り、他の下着の下に縫いつけたもの、これなら下から手が入らない。
私も二枚の下着を買い、使った事もなかったミシンを使い、手縫を加えて出来上がった。これを見た介護師さん達が「フフフ」と笑う。縫い目が何本にもなり、ジグザグ、手縫の場所は目が飛んでいる。だが、「よく出来ましたね」と。家族が作ってやる、と言うが、これも老化防止のためとうそぶき、あきれられた。
妻が発病してから五年になろうとしている。
言葉が出来ず、歩行も出来ない妻。この妻の幸せとは何なのか、と迷う毎日。
私は大動脈弁閉鎖不全症で人工金属弁を心臓に持つ一級身障者で要支援を受けている八十五歳。妻も脳出血で一級身障者で八十一歳。
八十五歳の夫が八十一歳の妻を介護する。
これが現実なのである。妻は生きようと病に向かっているに違いない。私も頑張る。同行二人、それが人生の輪廻であろう。
私は光栄ある現世を撤退するまで、優しかった妻を一日でもいい、長く生きていてほしいと願いながら、現実の厳しさを克服したいと祈り続ける日々なのである。

佐藤 次郎プロフィール

大正十一年生まれ 無職 福島県福島市在住

受賞のことば(佐藤 次郎)

思いがけない受賞の栄をいただき、本当にありがとうございました。私どもがここまで来ることが出来たのは、ご近所、家族、病院、施設、そしてヘルパーさんたちの温かいご支援の賜物で、改めて皆様にお礼を申し上げたく思います。
私と妻は同行二人、戸惑いながらでも、この名誉の感謝を忘れずに頑張っていきたいと思います。有難うございました。

選評(北村 真征)

一級障害者である八十五歳の夫が、一級障害者となった八十一歳の妻を介護する。その厳しい現実を、簡潔に描いている力作です。佐藤さんの抑制された筆致の裏には、話すことの出来ない奥さんとの見事なコミュニケーションなど奥さんへの深い愛情と理解、家族や地域の人たちとの信頼関係の強さを感じ取ることができます。また全編をとおして社会や制度への批判的な記述が一切ないことが、逆に老老介護のあり方を深く考えさせられる作品となりました。

以上