第42回NHK障害福祉賞最優秀作品
「100%あるがままでいこう!」圓井 美貴子〜第2部門〜

著者:圓井 美貴子 (まるい みきこ) 徳島県

あるがままを100%出し切る事さえ、人によっては難しかったりする。しかし、彼女はここぞというとき、平気で100%の自分を出すようだ。いや、80%ぐらい出したとしても、不思議と伝わるときには100%、いや120%となって相手の心に響いていく。
また、彼女は自分を表現する事にプレッシャーを感じる事無く、楽しんでいるかのようだ。時には余裕の表情で自慢げでもあり、それが彼女のキャラだったことは、私の大きな発見だった。そして、それが彼女のウリとなりえることは、もっと大きな発見だった。

一 陽子の誕生

平成四年初夏。大きくなったお腹を抱えて県の出先機関で働いていた。仕事は私の生き甲斐だった。だから、お腹の陽子には「いつか、キャリアウーマン同士の話をしよう!」と言っていた。
しかし、九月十日、旋回異常でやっと生まれた陽子は酸欠で仮死状態。二十五分後に息を吹き返したが、そのまま総合病院に転送され、その夜大きな痙攣が彼女を襲った。次の日の夜、私は出産した病院の部屋で夫から「障害」という言葉を初めて聞いた。夫から、「陽子に障害が残るかもしれない」と聞かされた時、私の人生にあり得ない事だと思った。そして、「障害が残るなら、いらない」と恐ろしい言葉を口にした。私は親として、いや人間として最低だった。だから、陽子は私のもとにやってきてくれたのかもしれない。
次の日の夜、分娩室が明々としてお産が始まっていた。私はその騒々しさを目にして叫びたいくらい気が動転し、一人の部屋に戻って泣いた。そして、枕元の冷たく光る蛍光灯をいつまでもじっと見つめていた。
三日目、何とか外出できるようになり、陽子に会いに行った。陽子は未熟児でもないのに窮屈な保育ケースの中に入れられ、体にたくさんの計器を付けられていた。その彼女を目にした瞬間、私は、「神様、奇跡を起こして! 陽子を助けて!」と心の中で叫んでいた。それから毎日病院に通い、ガラス越しに叫び続けた。自分の子供が必死に生きているのを目にした時から、陽子は私にとって必要な子になっていた。小さな陽子からものすごい力が吹き出していた。「死んでたまるか!」そう言っているように思えた。
陽子の脳の中には出血らしき物があり、そのせいで脳が腫れ、やがて萎縮したという経過が伝えられた。私達は祈るしかない無力な人間であったけれど、そこにあった医学も、結局は脳性麻痺に至る経過を追うしかない無力なものだと感じた。
一か月して、保育器を出た陽子を初めて抱き、私は無条件に嬉しかった。しかし、陽子は絞っていった母乳を鼻からチューブで流し込んでいた。医者から、「陽子ちゃんは、赤ちゃんの基本的な能力である吸てつ反応がありません。だから、かなり重い障害が残ると思われます。でも心配する事はありませんよ。鼻から栄養を流し込んで大きくなる事は出来ますから」と言われたとき私は愕然とした。そして「このままでは帰れない!」と思った。
生後二か月から一緒に入院し、陽子と私の戦いが始まった。看護師さんから渡されたブドウ糖でのほ乳練習では味が解らないだろうと、こっそり母乳で試してみたりした。乳首の穴を大きくしたり、焼いた針でたくさん穴をあけてみたり……試行錯誤の連続だった。その思いに応えるように、陽子は飲むミルクの量を少しずつ増やしていった。
平成五年一月十三日。私は、「先生、鼻のチューブを抜いていいですか?」と言った。「そうですね。いいですよ」と先生は言ってくれ、私は自分の手で陽子の鼻からチューブを抜き取った。「もう、チューブは二度と入れない!」と思ったあの日から今日まで、陽子の鼻には一度もチューブは入れられていない。そして私は、「出来ない事はない。何事も決してあきらめない」と思った。
退院後、リハビリセンターに母子入園し、リハビリ浸けの日々が始まった。私は結局、育児休暇をもらって、陽子の治療に専念する事にした。
早期治療が大切と言われ、リハビリセンターには入院中の生後二か月から行っていた。しかし、センターに初めて足を踏み入れた私は、出会った事もない障害のある人たちを見てショックを受けた。「どうして私はここにいるの?」そう口にした。我が子の現実を受け止めていない私がそこにいた。リハビリの先生達は、そんな私の心のケアもしながら、陽子の障害を認識させ、同じ障害の子を持つ仲間も紹介してくれた。
小児専門病院で出会ったO医師も、私が「障害」を受け止める為の大きな示唆をくれた。O医師は、「お母さんは、今は少し遅れているけど、時間が経てばみんなに追いつくと思っているでしょう。でも、この子と障害のない子の距離は、時間が経てば経つほど広がっていくのです。そのことを知っておかないといけない」とはっきり言った。その時、私はひどく打ちのめされたが、振り返れば、本当のことを知らせてもらえてよかったと思っている。「これから先、この子の為に何ができるか考えなさい」それが、最後にO医師が言った言葉だ。そして、療育センターの情報や相談機関のこと、当事者の会があることなどの情報をくれた。目の前の子供を「障害児」としてしか向き合えない親に、明るい将来はない。目の前の「陽子」と向き合い、生活基盤を作る事が家族みんなにとって大切な事だったのだ。こうして、私は「障害」を受け止め、今できる事、今必要な事を前向きに考えるようになった。

二 地域の一員になるために

一年が経過し、両親とともに徳島に帰って私は仕事に復帰した。早期療育が大切と、陽子は母の付き添いで一歳十か月から小松島療育センターに通いだした。
やがて、過敏で泣いてばかりだった陽子は、人と関わるのが大好きな子どもになり、私も、陽子を通してたくさんのことを学んでいくうちに、今自分がもっともしなければならないことが見えてきた。そして陽子が四歳になる春、仕事を辞めて陽子のいるフィールドで頑張っていこうと決めた。送別会では職場の仲間や上司達、みんなが私の前途を激励してくれた。しかし一方で、夫は孤独と親になりきれない未熟さを抱えていたようで、陽子の療育に全力を注ぐ私から、どんどん遠のいていった。夫は決して陽子の事を大切に思わなかった訳ではないが、切れた心の糸は戻らず、平成九年、私は離婚し、住み慣れた家で陽子と両親の四人で新たなスタートを切った。私たちにとって必要なことはまず、「地域の一員になること」だった。離婚したのをきっかけに、旧姓の圓井になったことを近所に挨拶に回った。
地元の上八万小学校に入学するための準備は四歳から開始した。陽子のように重度の障害のある子が地域の小学校に行っているケースは徳島ではなかったので、ありとあらゆる人に相談を持ちかけ、思いを伝えに行った。人と関わるのが大好きな陽子、兄弟のいない陽子が健常な子どもたちと関わる中でたくさん刺激をもらって社会的な適応力をもっとつけて欲しい。豊かな心をお互いに伸ばしあって欲しい。私も普通の親として、地域の中で出来ることをし、友達をつくって生きていきたい。そのことは、将来のために必要なんだと根気強く伝えていった。
幼稚園長、主任の先生との話し合いは何度となく行われ、やっと上八万幼稚園の年少に月一回の交流が叶った。そして、年長では、週一回に増やすことができた。毎月、交流の様子を克明に文章にまとめて、幼稚園、療育センター、小学校、市教委、教育長あてに持っていった。人って捨てたもんじゃない。私の思いを理解してくれる人がいろいろなところに広がり、願い叶って、上八万小学校の一員になることができた。

三 地元小学校で紡ぐ友達の輪

小学校低学年の子供達は興味津々だ。陽子のSRCウォーカー(歩行器のようなもの)や、車いすにも乗りたくて仕方ない。陽子についても質問攻め。「どうやって食べるん?」「どうやって寝るん?」「お風呂入る時は?」……陽子に関しては、そんな生活のなかの普通の事も不思議なのだ。
そして、興味は学校から家へと移る。「陽子ちゃん、今日遊べる?」毎日のように私は友達から聞かれた。私は、家事等そっちのけで子供達と遊んだ。私にとっては最優先事項だった。一緒に公園へ行ってシャボン玉を飛ばしたり、楽器演奏をしたり、ゲームやパソコンをしたり……。陽子は一個のスイッチで楽器演奏やゲームが出来、工夫次第で一緒に楽しむ方法はいくらでもあった。友達はそんな陽子の遊びテクにも興味津々で、いつしか陽子と一緒に遊ぶ方法も考え出す。小さくて無邪気な子供から、当たり前の「地域に生きる実感」を私達はもらった。
陽子が四年生のとき、小学校の障害児学級を通して出会った仲間で、障害のある子もない子も楽しく遊べる遊び広場「なかよしランドZOO」という活動を始めた。やがて陽子の学年の友達がボランティアをしたいと言い出した。そこで「ZOOメイト」と称して我が家に集まり、活動のチラシ作りをしたり、出し物の練習をしたりした。こうして、六年生になっても、女の子も男の子も我が家に集まってきた。陽子も含めてみんなが成長するのを見つめられる幸せを感じながら、楽しい放課後を過ごした。
一方、私はPTA本部や、読み聞かせボランティアの会でも活動した。いつもどんな時も、誰にでも笑顔を絶やさず、みんなの支えをもらいながら、私にも出来る事を精一杯しよう! といつも思っていた。活動をともにする地域の仲間達とは、正面から向き合って語り合え、みんなは陽子の成長を喜んでくれた。
六年になった春、中学は養護学校かと思い、見学に行ったが、今の学校の雰囲気と全く違う空気に困惑して納得できずに悩んでいた。そんな時、読み聞かせボランティアの昼食会が開かれ、この悩みを話すと、「そんなん、陽子ちゃんも上八万中学に行ってあたりまえやん!」と声が上がり、続いてみんなが「そうだ! そうだ!」と激論になった。その瞬間、私の中に立ちこめていた霧がスーッと晴れ、代わりに涙があふれたのを今も忘れられない。「こんなすてきな仲間と離れたくない」陽子と同じく、それが、私の親の思いだった。
小学校の六年間、地域の仲間達との当たり前の生活がここにあった。当たり前なのに、毎日が本当に貴重に思え、とても幸せだった。仲間達にとって、陽子の存在は特別ではなく、柔らかな頭で陽子の特質を理解し、遊びを創造し、出来る事を認め、喜び合っていた。卒業式の前日、同級生のみんなへ手紙を渡したが、「陽子ちゃんが上八万小学校に入学するのが大変だったって初めて知った。私達と同じ年だから、同じ小学校に入って当たり前だと思っていた」と言った子が何人もいた。卒業式の日、小学校六年間一番仲良くしてきたSちゃんが、陽子と私に手紙を書いてくれた。そこには、「陽子が普通の生活をするのが大変な事に、正直はじめびっくりしたこと」「でも陽子がそれを必死でやっている姿を見るのが好きだったこと」「陽子のように苦手な事でもやらなくてはいけないと思ったこと」「陽子が自分にとって、一時の安らぎの時間、応援の言葉を与えてくれていたのだと思うこと」「陽子が自分たちにとって必要な存在だということ」「小学校での陽子との思い出は忘れないこと」が書かれていた。家族みんなで、この手紙を読んで胸が一杯になった。卒業式では、友達に車いすを押してもらい、成長した陽子の姿があった。保護者代表で謝辞を読んだ友人は、「小学校六年間の始まりは、すばらしい先生方との出会いとともに圓井陽子さんとの出会いでもありました」と思い出の初めに陽子のことを取り上げ、「(陽子とともにいろいろな経験をすることで)人間として一番教えなければならない、周りの人を思いやる気持ち、認め合い、支え合う事、ともに生きる心を育てる事が出来ました」と語ってくれた。
こうして、感動の小学校卒業式を経て、陽子は晴れて上八万中学にみんなと一緒に入学した。中学校の制服を着て、家を出る前に写真に納めた陽子の姿は頼もしく見えた。

四 大人への一歩、中学生になって

中学生を実感したのは、いつまでも子供でない生徒に対する先生の関わり方であり、それは陽子に対しても同じだった。呼び方も、授業中は「圓井さん」「陽子さん」、時には「圓井!」と呼び捨てにして、「寝るな!」と怒ってくれる先生もいた。障害児学級での学習は、担任の先生と一緒に相談しながら内容も工夫し、他の先生方にも陽子の授業を担当してもらった。「今日は校長先生をゲットできたから!」と対応教員を集めてSRCウォーカーで歩行をするときには、陽子もやる気満々。教室を出て、廊下、玄関、保健室まで。途中で友達の声援も受け、他では見られない、頭を上げて地面を蹴って頑張る陽子がそこにいた。
クラスのみんなと一緒に授業を受ける時間は少なくなったが、体育や学活、給食などは一緒だ。体育の授業の時は一番嬉しいようだ。給食は小学校同様、その日の給食の献立を見て同じメニューを作り、食べやすいようにペースト状にして持参した。食事介助は訪問看護師さんを週三回頼んだ。陽子は食べるのが苦手で、泣きながら食べることもあるが、小学校から知っているみんなは別にどうってことはない。中学生にもなれば、すべき事がちゃんと出来る仲間になっているので、陽子の体育祭の参加の仕方も友達が考えてくれるし、班で何か検討する時も「陽子ちゃんはどうですか?」と聞いてくれる。
また、私は、勉強や部活で忙しくなった友達とのコミュニケーションの機会になればと、「Yokoのおしゃべり広場」と「おしゃべり箱」を作って玄関に掲示させてもらった。そこで、陽子の思いや、学校生活で楽しかった事等、いろいろな情報を書いたり、「おしゃべり箱」に入れられた質問に答えたりした。
部活では茶道部。スイッチを使っておもちゃの扇風機を回し、その先に付けた茶筅を回して抹茶を立てた。食べるのが嫌いな陽子なのに、お抹茶は大好き。男子部員二人にサポートしてもらって自分でたてた苦い一服を、彼女は美味しそうに飲む。
中学二年では、もう修学旅行。早朝からバスに乗り込み出発。広島から山口、福岡、阿蘇、大分を回る二泊三日の相当な強行軍だ。私も一緒に同行したが、陽子は、長いバスの行程を車いすで座ったままでも文句一つ言わなかった。陽子が一番楽しかったのは、スペースワールドで同じ班の友達八人で乗ったボートのアトラクションだろう。「これなら、陽子ちゃんと一緒にみんなで乗れる。」という友達の提案で乗り込み、みんなでびしょ濡れになった。陽子にとって、この修学旅行を楽しんで行けた事は大きな成長になったと思う。

五 エイドとの出会いから、将来の夢へ

乳児の頃、陽子はおもちゃを見ず、持たせて遊ばせても少しも楽しそうでなく、「させられたって面白くないよな」と私は思い悩んでいた。
そんな中、二歳の時に手作りのスイッチに出会った。「これなら、陽子が自分で遊べるかもしれない!」と飛びついた。陽子が押しやすいスイッチが一つあれば、様々なおもちゃを接続して、おもちゃ遊びを楽しめるのだ。その楽しさを知らせるために、私はスイッチとおもちゃを使った遊びの工夫に没頭した。能動的な活動が生み出す楽しさの経験こそが彼女の意欲につながると信じた。
やがて、スイッチ遊びからコミュニケーションへ可能性を広げていった。言葉を話せない陽子だって意思も、伝えたい思いもあるはずだ。
そして、四歳頃から、複数のメッセージが録音できるVOCA(音声出力型コミュニケーションエイド)を使い始めた。一つのメッセージを録音し、スイッチを押して発信できるだけでも陽子のコミュニケーション環境は一気に変わった。特に、学校でその効果は顕著だった。自分から「おはよう」とVOCAで声をかけることも出来る。クラスでのスピーチ、歌やジャンケンでのゲームなど、VOCAは陽子の主体的な活動の有効な手段となった。同時に、彼女は様々な意思表示(表情、手の動き、体の緊張、そしてVOCAでの表現)をはっきり示すようになってきた。
中学校での彼女の成長と可能性を発見したのは、毎年十二月に行われる人権文化祭での発表だった。担任の先生が、「人権文化祭では、地域の人も含めた大勢の方々の前で、各学年ごとに人権について学んだ事を発表します。陽子さんも、自分の学校生活や頑張っている事を発表したらどうでしょう?」と提案してくれた。担任の先生は、陽子の学校生活や友達との関わり、時には学校外の活動についてのビデオや写真を編集し、発表DVDを作成してくれた。発表は、陽子がVOCAを使ってナレーションを入れながら行う。最後にはみんなに当てた、陽子からのメッセージをしたためた。彼女は堂々と、正確にスイッチを押して発表をやりきった。そして何より嬉しかったのは、それを見た生徒達、保護者達に反響が大きかった事だ。涙をこぼして、陽子のがんばりを自分の事に映して奮起した子供達もいた。そして、みんなの期待を受けた二年目も、余裕すら感じられる陽子の発表ぶりだった。
また、学校での取り組みと並行して、学校以外でも彼女の役割は広がり始めた。中学一年になって間もない頃、医療福祉専門学校作業療法学科の特別講義の依頼を受けた。陽子を連れての講義は初めてで不安でもあったが、陽子は自分の出番まではじっと傍らで待ち、必要な場面ではVOCAで自己紹介をし、学生達とコミュニケーションゲームを楽しみ、三時間の長丁場での役割をしっかりと果たした。それ以降、毎年講義に伺うことで、私達も貴重な経験をさせてもらっている。
また、今年の春、「重度障害者の介護ヘルパーの養成研修に使うビデオ出演」という厚生労働省からの依頼が舞い込んだ。まさに、彼女のあるがままが役立つ場だった。カメラマンを含めた八人の人たちに囲まれて、意思表示をする様子や、彼女がお抹茶をたてて接待し、VOCAで会話のやり取りを楽しむ様子等を収録した。ここでも陽子は一人でしっかりと役割を果たした。
こんな経験を通して、陽子が自らの存在で、その情報を必要としている人たちの学びに貢献できると知ったとき、彼女の重度重複障害そのもの、そして支援機器を活用して豊かに生きる生き様そのもので、将来、社会の役割を担える気がしてきた。もっと広く言えば、彼女のように重度重複障害があっても工夫次第でこんなに楽しくみんなと同じ環境で生きられる、そして、社会の中で役割を持ち、自分を高める努力をして頑張れるのだということを知らせる事は、社会の多くの人の生きる活力を高める事につながると思う。
100%重度重複障害の自分の姿を生き生きと社会に提示していくことが、彼女にしか出来ない役割ならば、この「重度重複障害」は社会の大きな「値打ち」じゃないか!? 何事も発想の転換! 幼稚園交流から「将来のために」と地域での生活と学びを選んだ結果が、いろいろな人との温かいつながりや理解を伴って、少しずつ確かに陽子の将来に実を結びつつある。
そして今、高校進学に思いを馳せている。地域の仲間達と成長し、共に学んできた実感が、将来を目前とした高校への素直な願いとなっている。この難題にどんな発想の転換で取り組むか? 応援団に勇気をもらいながら、陽子と私の新たな挑戦が始まっている。これまで会った人たち、これから会う人たちと、深い感謝と陽子のとっておきの笑顔でずっとつながっていきたい。これから先どんなことがあっても、決して「しゃあない」と言わない人生を力強く歩んでいきたいし、歩んでいける気がする。

圓井 美貴子プロフィール

昭和三十八年生まれ 主婦 徳島県徳島市在住

受賞のことば(圓井 美貴子)

今回の受賞の喜びは、私達を支えてくれた沢山の人たちと分かち合いたい思いで一杯です。
私は陽子のお陰でとっておきの人生をもらいました。工夫次第で人生を楽しみ、がんばれることに幸せを感じ、人と人がともに生きる喜びを知りました。陽子を通して広がった地域の仲間達と、様々なNPO活動を今後も続ける事で、社会をもっと元気にしていきたいと思います。
そして陽子は、この賞をまたチカラにして、社会の一風変わったネウチとなって将来に羽ばたいて欲しいです。

選評(柳田 邦男)

脳性麻痺のわが子に対し、早期治療、早期療育に全力を注いだ母親のかかわり方、その根底に据えた「何事も決してあきらめない」という決意はすばらしい。障害児と言う眼でネガティブに見るのではなく、この子のために今、何ができるかを考えるという生き方に感銘を受けました。母親が家事よりも子どもと遊ぶことを最優先にしたから、周囲の子どもたちも自然に一緒に遊ぶようになる。「地域に生きる」とはこういう歩みで実現できるのだと実感させられました。卒業式の日の級友の手紙、いいですね。級友の心も育てたこの証でしょう。

以上