第41回NHK障害福祉賞優秀作品
『明日こそゴール』と信じて〜第1部門〜

著者:西村美紅 (にしむらみく) 北海道

「あなたの家は生活保護でいいね」
「生活保護って何?」
「何にもしないで、お金を貰もらって生活してること。皆の税金でね!」。トイレ介護をしてくれてい た看護師さんが言った言葉です。当時私は小学校五年生でした。深く、傷ついたのを覚えています。
私は生まれつきの障害があります。脊髄性筋萎縮という病気です。一歳の時に病気が発見され、 母はお医者さんに「この子は四歳までしか生きられません。生きたとしても植物状態でしょう」と言われたそうです。 二十歳で私を産んでくれた母は、絶望の中にいました。父親は母より二歳上でした が、毎日のように母に暴力をふるい、料理をひっくりかえす日々。父の母には「あんたが産んだから、 障害者が生まれたんだ!」と言われ、父は「こんな子はいらない!」と言い、離婚をしました。父の 記憶はほとんどありません。体の弱い母は私をつれて市役所に行くも「若いんだから、夜の仕事でも すれば?」と冷たい態度だったようです。粘り強く交渉し、やっと手に入れた生活保護での生活で した。
私は進行性の病気なので、手押し車椅子から電動車椅子へと変わっていきましたが、命の心配は無 いと言ってもらえるまでになりました。無事に成長し小学生になることが出来ました。しかし、当時 生活保護は車を持ってはいけませんでした。私は小学校から養護学校に通うことになり、入院をしな がらの生活になりました。寂しさでいつも夜中ひっそりと泣いていました。私はそこの学校で小学校 一年生から高校三年生まで生活をしました。生きているということは素晴らしいことでもありますが、 大変でもあります。入院生活では六人部屋で、勉強も食事も入浴も皆一緒の集団生活です。規則の厳し いところでした。小さい頃から社会で働くことを夢見ていました。「社会に出て自由になるんだ!」と。 集団生活では、友達同士の人間関係も大変でしたが、看護師さんとの関わりも辛いものがありまし た。もちろん、優しくて思いやりのある人もいました。お世話になり、とても感謝しています。しか し、母親が若いせいで「お母さんに彼氏いるの?」などと聞いてくる看護師さんもいたりしました。 ひたすら、笑ってごまかしている自分がいて子どもながらに疲れていました。中でも一番傷ついたこ とは、「あなたの家は生活保護でいいね」でした。まだ、意味の分からない十一歳でした。ただ大人 は私の家を、上から見下ろしている気がしてたまりませんでした。その言葉は時と共に忘れていきま したが、高校三年生の時、進路を決める時間にこの言葉を思い出しました。心の中で『絶対負けな い!』と誓い、就職に役立つだろうと、執念でワープロ実務検定一級を取得しました。指の力の無い 私は、本当に努力しました。病院ではパソコンを利用してはいけない決まりでしたので、放課後を利 用し練習の日々。生徒会の仕事もしていたので、本当に忙しく貴重な時間でした。
初め、私は進学を希望していました。『大学に行ってキャンパスライフを楽しんで就職したい!』。 しかし、うちは生活保護。お金はありません。公立の大学に受かっても無理なほど、生活に余裕はあ りませんでした。勉強も出来たほうではありません。落ち込んでいましたが、すぐに頭を切り替え 「就職だ!! 」と思いました。しかし、現実に飛び込むまで私は軽く考えていました。「一人暮らしして、 お金もらって、自由な毎日を過ごそう!! 」と。
私の体の状態を見て、誰もが「難しいだろうな」という表情をしていました。母も「施設しかない ね」と言うのです。考えてみると、今まで看護師さんにしてもらっていた身支度、排泄、入浴。当た り前に出てきた食事。出来ないことだらけです。バリアフリーな世界に居た私は、世の中の厳しさを 知りませんでした。エレベーターだって、電気だって手の届く所にボタンがあるし、段差も無い。就 職し一人暮らしをする夢は崩れる一方でした。
その頃の生活保護の担当者が本当に親切な方で、真剣に私の話に耳を傾けてくれました。皆が無 理だって言うことも「やってみる価値はあるよ」と勇気をくれました。初めは役所の人イコール嫌な 人のイメージでしたが、「こんなに良い人もいるんだ」と驚きました。そして、もう一つ夢が出来ま した。「生活保護を切って自立した姿を見てもらおう!」と。
秋に、障害者の集団お見合い面接会がありました。私は新しいスーツを着て、担任の先生と面接に 行きました。綺麗な履歴書を持参で張り切っていました。しかし、そこで現実を目の当たりにしまし た。障害者の多さに比べ、一社の採用人数は一.二人。私の場合車椅子からの移動も出来ない為、施 設的にも整ってなければなりません。身障者用トイレや玄関にスロープがなければいけない等です。 そうすると、五十社のうち十社残ればいいほうです。障害者枠があると聞いてはいたけど、狭き門だ と知らされました。一人の面接時間は五分程度なのですが、歩ける障害者は三十分位行い、車椅子の 人はまとめて五人一分という企業もありました。心の中で「バリアフリーと言いつつ心はバリアだ」 と思っていました。四社受けましたが、見事に不合格。障害があっても、大学卒もいれば高卒もいま す。学歴の無い私はさらに落ち込んでいました。公務員試験もその年に限って障害者枠が無く、一般 枠で受験。見事にまた不合格。焦っていました。周りの子は進学を決めて遊んでいる子もいました。 「どうして、私だけ!」と悔しくて辛くて投げ出したくもなりました。そんな時に『行政実務研修生 試験』があると聞き一生懸命勉強しました。それは、不景気で就職難の北海道が考えたものです。十 八、十九歳の子(高卒未就業者)を対象にしているもので、実際に社会で働き就職先を見つけるとい う目的の制度です。一年契約の仕事でした。必死に勉強し、一次試験を合格し、面接も受け高校卒業 後すぐに内定を頂きました。すると、次の問題が出てきたのです。『通勤はどうする?』でした。夏 は電動車椅子で行くにしても、冬は…。雪の降る北海道を車椅子で走ると埋まります。進めません。 絶望の文字が頭をよぎりました。
今の外出介護の制度では「美容室・映画・買い物」等は使えても、「通勤・通学」は認められてい ないのです。でも「諦めない」と気持ちだけは熱いままでした。
とりあえず春夏は通える!とJR通勤を考えました。しかし「JRは朝混雑するので利用をやめて ください」と言われたのです。十五時で仕事が終わるので帰りは了承をもらえたのですが…。問題は 朝です。保護課の方に相談し、タクシーでの通勤を許可してもらいました。しかし給料は通勤費でな くなります。なので、通勤費を引いた残りの金額を収入と考え、足りない分を保護で頂く形だったの ですが、私の中ではすっきりしてはいませんでした。「自立したいのに…お世話になってる」とどこ かで思っていました。
実際職場に入ると今までとは違う、健常者ばかりの世界にも違和感を感じていました。自分で自分 の心にバリアをかけている気もしました。「自分はどこかで違う」と。でも、上司は仕事を教えてく れ私はそれをこなしていく。「働いているんだ」と嬉うれしさの方が大きくなりました。初めての給与も 涙が出るほど嬉しかったです。しかし、通勤費がかかって仕方ありません。そんなことから、会社の 近くへ引っ越しをしようという話になったのです。母も体が弱いので一緒にいれないと思い、一人暮 らしを決意しました。その頃母は入院し、一人で引っ越し準備を始めたのです。それと同時にヘル パーさんの手配、役所での申請、分からないことだらけでしたが、相談員の方や保護課の人など、た くさんの人が助けてくれました。お弁当を作ってくれた方や、掃除機・炊飯器をくれた方等、心から じーんときて涙が出ました。
部屋もなんとか見つけ、生活を手伝ってくれるヘルパーさんとも契約をし、念願の一人暮らしが叶 いました。一人暮らし・就職を果たし幸せな反面、一年間の契約の仕事に不安を感じていました。 夜は自分でお金を払い公務員の塾にも行きました。仕事の合間にハローワークや就職セミナーにも 出かけました。私が興味を持ったところはコールセンターでした。重たい書類を持たなくても大丈夫 そうだし、電話の仕事にも興味があったからです。しかし、ハローワークに行くと百件くらいの障害 者求人はありましたが『車椅子不可』ばかり。職員の方が「分かったでしょ?これが現実」と言いま した。その態度を見て悲しくなりました。さらに彼は「公務員が一番いいんでない?」。あまりにも 失礼な態度でした。それから、私は恒例の秋の就職面接会で面接を受け、念願のコールセンターの就 職が決まりました。行政事務の契約が終わる月だったので、とてもいい時に職が決まり嬉しく思って いました。二十歳になれば障害年金を頂くことが出来るので「生活保護は切れるね」と言う話になり、 より一層一生懸命働く決意をしました。
仕事は順調に進みました。同僚の紹介で路上やバーでギターを弾いている男性とも知り合い、詩や シナリオ等を書くことが好きな私と呼吸が合い、恋人になってくれました。体の事を理解してもらえ るまで喧嘩もしましたが、一番の理解者に出会えて幸せでした。彼のご両親は、「障害者と付き合う なんて……自分の息子が…」と理解はしてもらえていませんが、諦めないで頑張ろうと誓える相手で もあり、私は幸せの中に居ました。
そんなある日、生活保護の担当者に「離婚した父から養育費をもらうように頼んでください」と言 われたことがありました。「一歳で離婚をし、記憶の無い父に連絡する苦しみを分かるのか?」と反 発をしましたが「指示に従ってください」と言われ、泣きながら「好きで生活保護を受けているん じゃない!」と言ったことがありました。生活保護は受ける権利があって受けるものなのに、私は小 さい頃から見下されている気がしており肩身の狭い思いもしていました。私は、その言葉で一層「保 護をきる!」と決意が強まりました。
しかし、コールセンターは時給スタッフでした。私の体力では風邪をひくとすぐ入院をしてしまい ます。すると、全く収入が無いのです。生活保護を受けている間は安心でしたが、生活保護を切った 後を考えると不安な部分もありました。でも、気持ちは揺るぎませんでした。十八歳で高校を卒業し、 社会に出て、一人暮らしをして…という日々から二年が過ぎようとしていました。「もうすぐ保護が 切れる」という三月。私は車椅子から転落し足を折ったのです。ただでさえ動けない体なのに…、半 年は働けないと医者から言われました。「あと、一歩で生活保護切れたのに…」と病室で泣いていま した。不幸は重なり、会社の同僚が昼間からお見舞いに来ました。
「うちの部署潰れるって」。私の頭は真っ白になりました。「じゃ、どうなるの?」と聞くと車椅子 の私の行ける部署は無く、いつまたそこの部署に仕事が入るか分からなかったのです。退院後私は退 職手続きをしました。保護課に行き、退職の報告をしました。私は足が治るまで家で、ただぼーっと 過ごしていました。友人には「仕事しないで、生活出来るんだもん!良いじゃん!」と励ましてくれ る人もいましたが、逆に辛い部分でもありました。そんな気持ちも数か月過ぎると忘れてしまい、毎 日インターネットばかりの生活。友人にもなかなか会わないで、ただ時間を過ぎるのを待っていまし た。人とのコミュニケーションはチャット。でも、一時の物でした。唯一、彼が来てくれるのが楽し みでした。彼のためにももう一度社会に復帰したい!まだ一度も会ったことの無い彼のご両親にも認 めてもらいたい。母親も安心させたいと就職試験の勉強に励みました。昔通っていた公務員塾の教科 書を引っ張り出し勉強。合間にはインターネットで仕事を探していました。しかし十一月の公務員試 験はみごとに不合格。仕事も車椅子対応がなかなか見つからず、落ち込む日々でした。「このまま、 体がもっと動かなくなって施設に入って死を待つのかな…」。いくら、性格の明るい私でも鬱ぎみ になっていました。でも“らしくない”と真剣に話を聞いてくれる人もいなかったのです。
「二十歳も過ぎ、障害年金も頂いているので、仕事をすれば確実に生活保護は切れる」
「そうすると、冬の交通費はどうなるんだろう?」
「このまま、何もしないで生活していれば楽なのかな?無理しなくていいよって言われるし…」 悶々と考える日々でした。雪が降って、さらに外に出られなくなり落ち込む日々。部屋中を眺めて 「この部屋ともお別れかな」と泣いたりもして。
そんな二月のある日。相談室の方から『働いてみない?』とメールが来たのです。私は企業の名前 を聞いて驚きました。大手旅行会社です。障害者枠が空くとのことでした。とても良いチャンスです。 しかし、一年間のブランク。体力や冬の通勤のこと。本当に悩んでいました。そんな時、小さい頃に 言われた看護師さんからの言葉を思い出しました。「あの時、悔しかったな…」と記憶が蘇りました。 そしてどこかで聞いた言葉を思い出しました。
『社会には三種類の人間がいる。居ては困る人。居ても居なくてもいい人。居てもらわなければ困 る人がいる。絶対に居てもらわなければ困る人になってもらいたい』

私は、社会に居てもらわなければ困る人になりたい!と強く思い、面接を受けることにしました。 受かれば、体力も通勤もなんとかするしかない!挑戦してみよう!とすっきりした気持ちで面接を受 けました。面接は緊張も無く、元気に出来ました。将来の上司になる人かもしれないと思うと、なん となくワクワクしました。通勤の話題になり、私は正直に話しました。冬は六.七万かかると。する と「雨のときはどうしていたんですか?」と言われたので「傘はさせないので、カッパみたいなもの を羽織りました。しかし、濡れるんです」。心の中で、落ちるだろうな、でもまた頑張ろうと決めて いました。
「一生懸命頑張ります!!!」。私の面接は終わりました。家に帰りお礼のメールをしました。「面 接させて頂き、ありがとうございます」
それから数日後、メールに返信が来ました。ドキドキです。本当に働きたい気持ちで一杯でした。 「一緒に働きましょう」でした。頭が真っ白でした。働くこと、生きることについて一年間考え、自 分でお金を得ることは本当に素晴らしいと心から思える自分になっていました。
その後、通勤費の事を福祉課に相談に行くと「…その体で働く必要はあるんですか?」と聞かれ、 私は「働くことは当たり前でしょう?」と言い返しました。担当者はきょとんとし「今の制度では駄 目です」としか答えませんでした。『なんとかしよう!』と決意はしていたので、落ち込みませんで した。再び会社からメールが来ました。冬の通勤費全額支給、雨の日のタクシー通勤を認めてくれた のです。安心して通勤できる、感謝の気持ちで一杯でした。実際に働いてみると皆親切にドアを開け てくれたり、手が上がらないので電話のヘッドセットをつけてくれたりと感謝しきれない思いで一杯 です。体調も昔より気をつけ、風邪をひいてもすぐに治せるようになりました。強い心が大切だと実 感しました。
私は保護課に「保護停止」の手続きに行きました。保護課の人は「本当に良かったですね!西村さ んのような障害でこのような形になるのは本当に素晴らしいです。障害を持った方の希望になります ね!」とおっしゃってくれました。私は「限界になるまで頑張ります。またお世話になったらごめん なさい」と言ってその場を立ちました。働いても障害者自立支援法の一割負担を払えば、生活保護と ほとんど変わりないですが、『充実』はお金に代えられないモノです。贅沢も出来ませんが、友達や 彼と食事に行ったりは出来ます。彼にも「顔つきが違うね!」と言われました。働くことが大好きな んだと思います。高校生の時、お世話になった保護課の方にも挨拶をし「本当に、良かったね!」と 優しい笑顔で喜んでくれました。
通勤を制度で認めてくれれば、社会に出られる障害者は増えると思います。障害者枠が少ないのは ありますが、『挑戦しよう』と思える障害者も増えると思うのです。少しでも、自分で収入を得て生 活すると『生き方』も変わると思います。日本の国がまだまだ成長途中なんだと思います。だから、 私は負けないで働いて行きたいのです。私が、こう思えるようになったきっかけは、あの看護師さん の言葉やハローワークの人の言葉のおかげです。今、思いだしても心苦しくなりますが、でも「感謝」 です。私を、強くしてくれた言葉です。苦労や悩みの種は、いつの日か大きく花咲くと信じて生き ます。
私は今、生きています。苦しいこともまだまだあるでしょう。でも『楽観主義』で毎日を暮らした い。希望に満ちた人生を送りたいです。そんな簡単に夢は叶いませんが、たくさんの目標を作って生 きたいです。
私の夢。
「詩集を出し、勇気をあげたい」
「職場でも、必要とされる人になり恩返ししたい」
「ギターを弾く彼と曲を作り、喜びをあげたい」
「どこに居ても希望を与えられる障害者になりたい」
まだまだ、数え切れないほど夢はあります。
簡単に叶わないかもしれません。でも、毎日少しずつ前進していると信じて。
目に見えてはいないけれども、『明日こそゴール』と毎日を一生懸命生きていきたい。何事にも負 けない人になりたいです。

西村美紅プロフィール

昭和五十九年生まれ 会社員 北海道札幌市在住

受賞のことば(西村美紅)

今回の賞のご連絡を頂いた時、思わず頬をつまみました。本当に光栄です。この賞は 私一人の物ではありません。お世話になった方皆の代表で頂いたと思っております。私 が元気で働いている事が恩返しだと思います。
これからの人生、色々な壁はあると思いますが、いつも「楽観主義」で生きていこう と思います。この作文を読んで一人でも「諦めないでもう少し頑張ってみよう」と思っ て頂ければとても幸せです。

選評(山口 薫)

昔は施設に入所するしかなかった人たちが、社会で自立するためにはどんな困難があ り、その克服のためにどんな支援が必要か—特に「働く場」の確保がどれほど生きがい なるのかをつぶさに教えてくれる作品です。
見事就職して「生活保護停止」を勝ち取った逞しい生き方に脱帽すると共に、これか らの「詩集出版」「職場で必要とされる人になる」「彼とのギターのための作曲」「障害の ある人たちに希望を与えられる人になる」等いっぱいの「夢」の実現を祈っています。

以上