第41回NHK障害福祉賞優秀作品
「一緒に働こう 自閉症の息子と始めたパソコンプリント」〜第2部門〜

著者:細川義和 (ほそかわよしかず) 茨城県

「入力の仕事、終わりました」
一週間分の仕事と思っていたのが、二日で終わってしまった。
「すぐに、出力して校正してください」
それも、すぐに終わる。パソコンでの文章入力は、正確さと早さに限っていえば、仕事として役立 つ段階にまで来ている。仕事をしている時の集中力の強さは、普段の生活からは予想できないものが ある。
「次は会員名簿から、一八歳以上の人を抜き出してください」
「ソートを使ってやるよ」
これもすぐに終わってしまう。時間を見ながら、デレデレといいかげんにやることが出来ない。こ れも、自閉症の特徴であるが、はたしてこれは長所なのだろうか、短所なのだろうかと、考えてし まう。
現在、親子三人でパソコンプリントの仕事をしている。MM工房と名付け、最初は個人経営で始め たが、現在はNPO法人の就労支援実践部門になっている。
入力、レイアウト、校正、印刷、丁合、製本、断裁、統計処理、データベース管理、宛名印刷と 仕事の守備範囲も非常に広くなってきた。
仕事の頼み方にはコツがいる。幾つかの仕事をまとめて頼んではいけない。一つが終わったら次を 指示する事を毎回しなければいけない。前に指示を出して出来たからといって、次の時に曖昧な指示 を出すと、必ず失敗が起こる。このような難しさは未だ残っているが、正直言って、ここまで仕事を やれるようになるとは、願望はしていても、実現は難しいと思っていた。

十一年前。「今度の仕事も続けられないみたい。今日、話し合いに行くのだけど」。朝、会社に出勤 するとき、送ってもらった車の中で妻が言い出した。
「定年退職したら、何か一緒に働くことを考えるから、それまで待てないか」
「仕事以外のことで、退屈させないで一日を過ごさせることは、たかだか何週間が限度。なにか考 えなければ」
定年まで二年半、そろそろ、その先のことを考えなければと思っていたが、具体的なことは何も考 えていなかった。息子は、理解のある小さな印刷会社に実習という形で勤めさせてもらっていたが、 それが続けられなくなってきた。
「又、あなたの出番ではないの?」
「………」
何を考えれば良いか判らなかったが、しばらくして口に出てしまった言葉は
「早期定年退職制度というのが始まったらしい。詳しい事を聞いてみる」

自閉症児者の父親の役割は、サッカーに例えるならフォワードの選手のようなものであろう。ゴー ル前で防戦一方のときには、足の出しようがない。チャンスが来たときに、すぐ行動出来るように、 ポジション取りに気を付けながら、待機しているしかない。

私の出番はその前にも一度あった。
さらに八年前、息子が高校を卒業した年のことである。自閉症特有のコミュニケーション障害が強 い息子は、社会に出るだけの力はついていなかった。息子の得意な暗記力や数値へのこだわりを伸ば し、時間をかけて成長させ、職業に就かせたいという妻の意見で、予備校に入れ大学受験を目指して いた。
「あなたの出番ではないの? 予備校の授業には全くついて行けてないみたい。今までの経験から 言えば、一対一で教えれば、力がつくと思うのだけど。学生時代にアルバイトで受験生の数学を教え たことがあるんでしょ?」
それまで、私は息子に勉強を教えたことが全くなかった。小学校入学と同時に、母親は毎日勉強を 教えていた。知識的なことは好きであったが、偏りがあり、自分本位の関心のみで、人から教えられ ることを受け入れられなかった。母と息子の格闘が始まった。それを見た姉娘が「まるで巨人の星ね」 という位、大騒ぎして教える日もあった。
その積み重ねの結果、人に教えてもらうという意識を持つようになり、関心の幅も学習の幅も広 がってきた。しかし、自分一人では、必要な学習は出来ないことが多かった。
英語は小さいときから関わってくださった方が、教えてくださることになった。私は毎日午後九時 から十時まで一時間、数学と理科を教えることにした。一度やると決まると、彼の方が熱心になり、 毎晩九時になると私を迎えにきた。
最初に、昔、家庭教師の時にやったように、数学の易しい問題を出して解かせてみた。全くできな い。それではと、基本的なことを言葉で説明したが、これも理解できない。教える糸口がなくなって しまった。教えようとして、怒鳴り声をあげればあげるほど、息子も奇声を張り上げる。親子共々混 乱状態に陥ってしまった。
しかたなく、聞いているのかどうか判らなかったが、説明しながら、紙に解答を書いていった。書 いた数式には興味を持ったようなので、真似して書いてみるように言うと、すぐ書き始めた。次に解 答例を隠して書くよう言うと、これも正確に書けた。短時間の間に、解法を暗記していた。次に数字 を少し変えた問題を出すと、少し困っていたが、ヒントを出すと、これもきちんと解けた。類似題を 数題解くことで、完全に解法を暗記してしまった。
彼にとっては、易しい問題も難しい問題も同じであり、概念としては意味を理解できなくても、解 法として手順を暗記することは、簡単にできることであった。
別のタイプの問題に対しても、まず難しい問題の解答例を教え、類似問題を数題解かせて暗記させ た。それから必要に応じて、基本になる易しいルールを教えることにした。基本から積み重ねて教え るという常識的な教育方法には反することであるが、パターン化したことを暗記する力が強い自閉症 児者に対しては、有効な方法であったと思っている。
理科の方は、私自身が物理の出身であったので、物理を教えることにした。ところが、物理の問題 の多くは、文章を長々と書いた応用問題であった。息子には問題の真意を理解する国語力はついてい なかった。時間をかけても問題を理解させることはできなかった。
思い切って文章問題が少なく、暗記問題の多い化学に変えてみた。
最初に元素の周期律表を教えてみた。私の最も苦手とする分野である。ところが三日で完全に暗記 してしまった。それも、希土類といったなじみのない元素を含めてである。そこで、暗記を中心に教 えることにした。しかし、教えるパターンは多く、また暗記だけではすまない部分も多かった。小さ な混乱を繰り返しながら、約九か月続いた。
志望校には面接試験があった。面接があればすぐ障害を持っていることが判る。そこで、自分の口 で「僕は自閉症という障害を持っています」と言うように教えた。この効果があったようで、補欠合 格後の教授会で議論され、「受け入れてみよう」という結論になったと後で知った。
三月三十一日午後六時、あきらめかけた時に、大学から合格通知の電話があった。親子三人で飛び 上がって喜んだことを覚えている。この経験が私の自信になった。相手の長所や関心を持っているこ とを活かして教えれば、かなり難しいことでも、教えることができる。

そして二回目の出番である。
その頃、私は企業内の研修所で、製造現場のリーダークラス(三十歳前後)の教育の仕事をしてい た。入社して三十年近く研究所にいた私にとって、製造現場は全く知らない部門であった。激しい勢 いで技術革新が続いている現場の中で、キーマンに必要なスキルは何か、必要なマナーは何か。毎日 そんなことを考えていたので、職業教育全体に関心を持つようになっていた。会社で経験してきた職 業教育を、職業につけない自分の息子に適用して仕事をさせたい。さらに、その経験を基に、自閉症 者の就労問題について何らかの貢献をしたいという心境になっていた。
バブルのはじけかけた時期で、リストラという言葉を耳にし始めた時期である。試行的に期間限定 で始めた、早期定年退職制度にのって、ほんの少数の応募者と共に、比較的有利な条件で退職するこ とができた。
最初、私は教育用ソフトのプログラム開発をメインの仕事にしようと考えた。息子にもプログラム の作り方を教えようと思っていた。ところが、プログラム言語は、感情表現のない言語であっても、 文法に従い、論理的に構造を組み立てて行くものである。息子の国語力は、文字は読めても、文章を 作ることや、論理的に論旨を展開することは、到底できないものであった。言語である限り、国語も プログラム言語も変わりなく、プログラム言語を組み立てていく作業を教えることは、できないこと が判った。また、私自身が最新の構造的プログラミング技法を使いこなすのに困難を感じ、なかなか 進まなかった。
そんな状況で一年たった時、あるきっかけで、商店街の中に、お菓子作りの工房と一緒に、店舗を 持てることになった。その一年前、緊急の受け皿のため印刷業を開く事を考えた母親が、簡易孔版印 刷機をリースで借り、印刷の仕事を細々とはじめていた。その印刷の仕事をメインにすることにした。 自宅には、最も簡易的な物であったが、印刷機、製本機、断裁機など、一通りの印刷の仕事に必要 な機器が、リースで設置されていた。商店街の店舗は狭いので、パソコン、プリンター、スキャナー 等の小型機器を置き、両方で仕事を進めることにした。
印刷は、仕上がりが綺麗で、工芸的な品質の高さが得られるオフセット印刷が主流であるが、その ためには高額な投資と高い技術力が必要である。謄写版が進化した孔版印刷は、仕上がりが悪く、写 真も鮮明に出ないので、長年、印刷機として認められていなかったが、その後の技術進歩で、かなり 仕上がりの良いものが出始めていた。そこで、印刷物を安価に提供することを基本戦略と考え、孔版 印刷とインクジェットプリンターを使った印刷のみを行うことにした。
技術的には、マッキントッシュとウインドウズが競合している時期で、棲み分けがなされておらず、 両方の可能性を注目する必要があった。また、ソフトも新しい物や、新しいバージョンが次々と売り 出され、何が使いやすく、目的に合っているかを選別するのが難しかった。そこで、最初はなるべく 簡単で安価な機器やソフトを購入し、時期を見ながら新しい物を導入することにした。投資金額は当 初予定した金額より増えたが、それほど多くはなかった。最初に高額な製品を揃え、その後簡単には 補充できないのでは、時代の変化に追随していけないと思った。
息子に対する教育は、レイアウト用のソフトの使い方である。単なる文章入力なら十分にやれる力 を持っていたが、印刷物を作るとなると、それだけでは仕事にならない。仕事としてやってもらうた めには、実際の仕事をやって見せ、繰り返し自分でやらせなくてはならない。
自閉症特有の新しいものに取りかかる時の、不安感を軽減し、理解、関心の方に意識を持っていか せるには、どのような物を作るかを示すことが重要になる。
教える側が、使用法を完全に覚えて、模範作成例を見せ、相手の理解度に合わせて、あらゆる段階 の、どこからでも教えることが出来なければならない。指導者が間違えたり、あやふやな理解では、 教えられる側の混乱は大きくなる。指導者として信頼してもらう大変さを、身をもって経験した。
私自身の理解力をつけるために前もってかなり調べておくことが必要であり、時間をかけなければ ならなかった。
しかし、これも最初の時であり、ある程度使えるようになり、どのような物をつくるかが見当つく ようになれば、模範例を示さなくても、一緒に作ることもできるようになった。苦しい時に、全力で 対処すれば、後は楽になることは、最初の出番であった受験勉強の時と同じである。
仕事の一つとして、オリジナル性の高い年賀状づくりを取り入れたが、お客様に満足されるように 作るためには、イラストや文字をバランスよく配置することが必要になる。しかし、その指示を理解 させることが難しい。「右上に配置しなさい」と言えば、余白を取らずに右上に配置する。「もう少し 左に移動させなさい」と言っても、どれだけ移動させれば良いか判断出来ない。
その反面、数値には強い。座標値Xいくつ、Yいくつとか、Y方向に何ミリ移動させるという指示 はすぐに入る。
そこで、数値で入力、修正しやすいソフトを探す事から始めた。
一般のビジネス用ワープロソフトでも、文字やイラストを配置する機能は持っている。しかし、数 字を使って、イラストや文字を配置したり、移動したりすることは、簡単にはできず、何段階かの複 雑な手順が必要である。
レイアウト用のソフトは沢山あるが、それらを比較検討した結果、数値で配置をコントロールする のに最も適している専門家向きのレイアウトソフトが見つかった。操作方法が若干異なっているため、 最初混乱があったが、すぐに慣れ、そのソフト特有の便利な機能を使いこなせるようになっている。
現在のMM工房は、母親が、企画、計画、デザインを、父親が技術開発、指導を、息子が入力、レ イアウト、校正、図書の製本、断裁を担当しているが、忙しいときには、全員で息子の担当業務を手 伝う。
各々異なった力を持つ親子三人が役割分担をし、補い合いながら仕事を進めている。
息子に関しては、感覚的に判断することや、お客様等の対応はできない。
また、決まった作業が沢山あれば良いが、仕事が無いと自分の考えに耽る時間が長くなり、奇声を あげ、手を細かく震るわせる動作が出てくることもある。また、仕事内容や予定を急に変えたときに も、うなり声をだす等、軽いパニック動作をする。
このままでは、大勢の人の中で仕事をすることはまだ難しいと感じているが、四十に近い年齢に なっても成長しており、少しずつではあるが、社会適応力も伸びている。色々な社会的、文化的刺激 を与えて、まだまだ発達を促すことは可能であると、考えている。
これまで、一緒に色々なことを教え、学んできたが、こちらのペースを押しつけてうまく行ったこ とはない。彼のペースをつかみ、彼の考え方を理解して、それにうまく乗せてきたのが、続けてこら れた原因だと考えている。
自閉症者は、偏ってはいるが、大きな潜在能力を持っている。しかし、その力を社会的能力に育て ることが難しい。そのため、学齢期を過ぎてしまうと、教育や社会参加の機会が与えられず、そのま ま右肩下がりの状態になりがちである。
障害の特徴を知り、強い所を伸ばし、弱い所をカバーすれば、生き生きと生活でき、社会に貢献す ることができると信じている。彼らは、将来を期待できる人間である。このことを、実証して行きた い。また、同じような考えを持つ人たちと連携し、この考え方を共通の基本理念として、社会の中に 定着させたいと考えている。
息子の幼児期、私は母親の話を聞くこと以外手も足も出せず、ほとんど何も出来なかった。それが 今、こうして毎日家族で仕事をしていられる事を、大きな幸せと感じている。自分のできることで、 息子の支援をする機会はそれほど多くない。
息子たちは、週一回のパーカッション主体の音楽活動や、三十年近く続いている月一度の水泳教室 等の、集団での余暇活動を、沢山の支援者に支えられて行っている。私は父親として見に行くことは あるが、支援者や指導者として関わるだけの力は持っていない。
一人の人間の出来る事はさほど多くない。自分の出来る範囲内の事で、自分の息子に関わり、その 経験をその他大勢の自閉症者の支援に役立てて行きたい。現在、その夢を実現するため、自閉症者の 就労を目的としたNPO法人の一員として、活動している。

細川義和プロフィール

昭和十三年生まれ NPO指導者 茨城県常陸太田市在住

受賞のことば(細川義和)

歴史のある賞を受賞し、力づけられた思いをしております。私共の考え方や、やり方 は極めて特異的ではないか、との思いを抱いていましたが、現在六パーセントいると判 った発達障害児者、自閉症児者が社会で生きていくため、このような考え方もあって良 いのではと考えています。障害のタイプや、支援者の立場は各々異なっていますが、多 くの方々と連携し、議論しながらお互いを認め合い、夢を共有していきたいと考えてい ます。

選評(山口 薫)

高機能自閉症—知的障害を伴わない自閉症—の息子さんの学習を両親で支援して大学 に合格、さらに父親の職業経験を生かして親子三人でパソコンプリントの店を成功させ た就労支援—試行錯誤しながら自閉症の人の特性を見事に生かし、予想もしなかった成 果を挙げるに至るまでの父親の子育て奮闘記です。
「親こそ最良の教師」を文字通り示したすばらしい実践例で、自閉症の療育関係者す べての人に学んでほしい宝物いっぱいの貴重な記録です。

以上