第41回NHK障害福祉賞優秀作品「いつだって光は見える」〜第1部門〜

著者:林克之 (はやしかつゆき) 和歌山県

1、失明の恐怖

「あれ?どうしたんだろ。見えないぞ…」
居酒屋のカウンターで、私はひとり心でつぶやいた。目の前に置かれた小皿。そこにあるはずの「ダシ巻き」が見えない。ぼんやりとただ白っぽいお皿の輪郭がそこにあるだけ。「こりゃぁまずいなぁ。ついにきたか」
ギリギリ残っていた右目の視力。日に日に落ちていることは自覚してはいた。でも何とかなるように漠然とそう信じてもいた。
先天性緑内障で、二歳で左目は失明。高校の時に義眼にしてしまった。残された右目の視力は、それまでなんとか〇・一たらずを保ってくれていた。でも数か月前からそのわずかな視力にも…。
すでに活字の本は普通には読めなくなっていた。ルーペを使い、拡大読書器を使い、かろうじて活字読書にしがみついていた。一人で歩くことにも不安が増していた。夜などは自動販売機や看板の光をたよりに歩かなければならなくなっていた。
「白内障を併発しています。もうずいぶん濁っていますね。ほとんど見えないでしょう」
眼科医は早期の手術を薦めた。
わずかに残ったささやかな視力を失ってしまうかもしれない。それはやはり恐怖だった。「いよいよ手術しかないかな…」。ビールを口に運びながら、私は静かにそう覚悟した。いつもの三倍は苦いビールだった。
しかし、実際に手術の日を迎えるまでには、それから数か月の時間を費やすこととなった。あれこれと迷いがあった。もし失明するようなことがあったら、家族を守り続けることができるだろうか。 ぼんやりとぼやける視力では、明るい未来は見えなかった。
後輩の結婚式の仲人を「最後の仕事」のような気持ちですませて、私は白内障の手術を受けた。 術後、しばらくは目の前がまぶしいほどの光に満ちた。
「へえ、このカバンって本当はこんな色だったのかぁ。あれ?壁のここんところにシミができてるぞぉ」
活字を読めるところまではいかなかったが、うす曇だった世界はきらめく光にあふれた。
だが、一週間二週間と日を追うごとに、世界はまたぼやけはじめた。
「手術のダメージに角膜がもたなかったようです。白濁が進んでいます。小さいころに受けた何度かの手術で、もう限界を超えるほどに傷んでいましたから…」
医師は気の毒そうにそう告げた。

2、きらめきの思い出

「おはよう。おはよう。おはよう」
小学校までの通学路、私は会う人会う人に挨拶をする子だったらしい。多くの人に記憶として残るほどに。
私は幼稚園には行かなかった。ほとんどの子どもたちは町立の幼稚園に通うのが普通だった。視覚に障害を持って生まれた私は、小学校から盲学校に通うということになっていたようだ。
「行けるところまで地元の小学校に行かせてみてはどうか」
何人かの人の薦めもあって、両親はそれを決断した。いま思えば当時としては勇気ある選択だったのかもしれない。
両親の心配をよそに、どうやら私は学校に通うことが心から嬉しかったらしい。
いま思い出せる風景はいつでもきらめいている。
じっくり考え直してみると、いじめのようなこともなかったわけでもない。
「片目のジャック」などと、はやされたこともあった。当時、私はいつも左目に眼帯をしていた。
そんな言葉も私には「いじめ」にはならなかったようだ。かっこいい呼び名くらいにしか感じていなかった。
ひとつだけ、はっきりと「いじめ」の記憶がある。
あれは三年生の二学期。クラス委員の選挙で私は選ばれてしまった。相棒の女の子はとてもおとなしい子だった。二人とも、とてもクラス委員などできそうにない子だった。誰かが仕掛けた「いじめ」だったに違いない。これにはかなりまいったようだ。
でも、それから中学校を卒業するまで、私はクラス委員や生徒会の役員を務めた。
いまも同窓会の度に「犯人さがし」をしているのだが、皆とっくに忘れてしまっている。
目が悪いことでつらい思いをしたことは、ほとんどなかった。
いやいや、そうでもない。体育の時間にドッジボールやソフトボールをするわけだが、これは苦痛だった。中学校のクラブ活動も、当時は球技しかなかった。私はバレー部に所属したものの、とても競技になど参加できなかった。
高校に入って、私は柔道をはじめた。「運動は苦手」と決めていた私にはとても良い選択だった。もちろん最初は選手になるなどと思ってはじめたわけではなかった。
せめて女の子に腕相撲に負けない体力をつけたい。そんなささやかなチャレンジだった。
三年生最後の試合。団体戦決勝で、私は三番手として畳の上に立った。相手の選手は小児麻痺の後遺症で、片腕が針金のように細かった。とても強かった。結果は引き分け。二対一でチームは負けた。さわやかな悔し涙を流すことができた。
みんなみんなきらめき続ける思い出ばかり。

3、視覚障害の苦悩

高校を卒業した私は、鍼灸の資格を取るために盲学校に入学した。
とてもショックだった。
目の前に盲目の人がいる。盲学校なのだから当たり前のことなのだろう。でも、私には大きな衝撃だった。
「世の中には目がまったく見えない人がいる」
そんなことは当然知ってはいた。でも、実際に「そこにいる」となると、私にはうまく整理できない事実となってしまう。
「どうやってつきあっていけばいいんだろう」
そんな不安はすぐに消すことができた。
私のクラスは七人。二人が全盲だった。でも、友達同士の関係で、そんなことはたいした問題ではないことがすぐにわかった。
ただ「視覚障害者問題」という大きな問題、課題は私の心に大きく腰をおろしてしまった。それはまた、自分の問題でもあることにはじめて気がついた。
見えにくいこと、見えないことによる生活上の不自由。
就職や結婚の問題。
視覚障害というものが、生きていくことの「たよりなさ」に満ちていることをはじめて知った。それらすべてがとても不公平で不条理なことに思えた。何か漠然とした「敵」と戦い続けなければならない。
「ぼくには何もできそうにない。自分が生きていくだけで精一杯になるだろう。せめてみんなが笑えるような時間を増やせればそれでいい。力のないぼくには、それくらいのことしかできそうにない」 大きすぎる問題に、私は早々に両手をあげて、「楽しい学校生活」のことだけに心をそそいだ。
三年間はあっという間に過ぎ去り、大阪の病院に就職。
はじめての一人暮らし。楽しい生活が待っているはずだった。
しかし、現実は違っていた。職場の人間関係がどうにもうまくいかない。社交的だと思い込んでいた私には、まったく予想外の悩みだった。
不規則な生活で体調も壊してしまった。最悪の状態。心も体もボロボロ。
目が悪いということ。そこから湧き出てくる将来の不安が大きくのしかかってくる。
少し見えるというのはとても苦しいもので、なんとか人にたよらずに頑張ろうとしてしまう。若さもあったのだろうが、人に頼んだり助けられたりということができない。失敗をするたびに自己嫌悪に陥ってしまう。
そんな私を救ってくれたのは数え切れないほどの友人だった。
相談したり愚痴をこぼしたり。慰められ、励まされる中で、もう一度自分を信じて生きていく勇気を持つことができた。

4、もう一度みんなの中へ

生まれ育った町に帰り、治療院を開業。そして結婚。三人の子どもが生まれた。
ごくごく普通のおだやかな生活が続いた。このままずっと続くものとどこかで信じていた。
だが、結婚七年目にして、完全失明という厳しい現実が早足で迫ってきている。私にはなすすべが見つからない。ただただ「家族を守らねば」というあせりだけがつのった。
そんなある日、我が家に数人の訪問者があった。幼稚園の役員の方々だった。来年の役員をお願いしにまわっているとのこと。次男が幼稚園に入ることになっていた。
「ぜひ来年会長を引き受けてもらいたいんです」
私が失明したことを知っている人はまだ少なかった。
「とんでもない。実は目が見えなくなってしまって。とてもそれどころじゃありません」
三十分もかけて身の上話をした。やっと帰ってもらえた。
ところが数日後、その人たちがまたやってきた。
「これからは障害者も積極的に社会参加する時代ですし」
わけのわからない説得に、私は苦笑してしまった。だが、どうやら承諾するまで帰らない覚悟のようだった。私はやむなく引き受けることにした。
もとより不安だらけの会長。副会長には同級生にうけてもらった。
人と話すことが大好きだったはずの私が、手術後は億劫に感じるようになってしまっていた。引きこもりとまではいかないまでも、よほどの用がないかぎり家を出なくなっていた。何よりも一人で出かけられなくなったことが私をそうさせてしまったようだ。
何もすることなんてない、との説得で引き受けた保護者会会長だったが、その年、うちの幼稚園は県下の幼稚園保護者会の議長役が当たっていた。出かける機会も多くなった。
会議の資料を作るために、遠ざかっていたパソコンも使うようになった。音声ワープロで資料づくりに四苦八苦。
「まだまだできることもあるのかもしれない。少しは人の役に立てるかもしれない」
くずれかけていた自信が少しだけもどった。

5、新たなる挑戦

見えなくなってできなくなったことは多い。
本が読めなくなった。テレビが見られなくなった。自転車に乗れなくなった。それどころか一人で出歩くことさえできなくなった。家族の顔も見えなくなった。
折に触れて絶望感が重くのしかかってくる。
だが、負けるわけにはいかない。私には守らなければならない大切な家族がいる。
「できなくなったことをあれこれ数え上げるのはもうやめよう。できることをひとつでも増やそう」 そんな当たり前のことがやっとわかったのは、失明して一年もたってのことだった。
私の反撃ははじまった。
まずは「盲人用グッズ」をいろいろと集めた。トランプやオセロで子どもたちと遊んだ。時計や体重計など、音声を使った便利なものがたくさんある。パソコンでできることも日に日に増えている。
それまで興味すらなかった料理にも挑戦した。使いやすい器具もあれこれそろえた。居酒屋仕込みの味付けは子どもたちには好評。でも後片付けが大変と、妻には不評のようだ。
あきらめていた点字読書にも「だめもと」のひらきなおりで挑戦。独学できる教材をとりよせ、暇にあかせて紙をなぜつづけた。おどろいたことに、二週間ほどで五十音が読み取れるようになった。 どうやら点字は見えなくならないと身につかないらしい。一年もたつと、あこがれの点字読書ができるようになっていた。
もうひとつ、どうしてもとりもどしたい「自由」が私にはあった。それは、気ままに一人で出歩ける自由。
白杖での歩行はとても無理に思えた。私は盲導犬との歩行を選んだ。
失明して三年、新しい世界につれていってくれるパートナーとの出会い。それはまさに新しい光だった。
真っ黒のラブラドールとゴールデンのハーフ。新しい恋人の名前はベッキー。

6、新しいきらめき

盲導犬は私に歩く自由をくれた。そして新しい出会いをかぞえきれないほど。
住み慣れた町をドキドキしながら毎日探検する。覚えているはずの地図が、案外あやふやなことに気づく。何本目の道を曲がればいいのか。何度も何度も迷子になった。
でも、それすら楽しい。楽しんでしまう。
これまで声もかわしたこともない人から話しかけられることが増えた。わがパートナーは凄腕の外交官。
「お利口だねえ」
「かわいいねえ」
「きれいだねえ」
新しい出会いがどんどんひろがっていく。
講演をたのまれて小学校などにも出かけた。子どもたちとのふれあいは本当に楽しいものだ。
そして盲導犬ユーザーたちとの出会い、交流。みんなとてもエネルギッシュ。
あるイベントで「世界の名画展」が開催された。私はなぜかとても行ってみたくなった。とはいえ、ただ絵を見に行くというのはつまらないにきまっている。
「そうだ。専門の人に説明してもらえれば楽しいかもしれない」
お願いしてみると学芸員の方がサポートしてくださるとのこと。
せっかくの機会だからと、何人かの視覚障害を持つ知り合いに声をかけてみた。でも誰も話にのってくれなかった。
「そうだ。もしかしたらあの人なら面白がって遊びにくるかもしれないぞ」
盲導犬ユーザーの会の会長をしているSさんに電話してみることにした。Sさんとはたった一度の面識しかない。
「おもしろそうですね。妻や子どもといっしょに行って良いですか」
Sさんはご夫婦とも盲導犬使用者。まだ幼い子どもをつれて広島からわざわざ来てくれることになった。
さすがに三歳の子どもには退屈だろうと、結局見えない者三人と盲導犬三頭で美術館に行くことになる。
はじめての「聞く絵画鑑賞」は想像以上に面白かった。丁寧な説明で、目の前の絵が目に浮かぶよう。そして何より私を喜ばせたのは、見えない者が絵を見に行くという企画に興味を持ってくれた人がいたということ。
このことをきっかけに、私は「全日本盲導犬使用者の会」の理事になった。
また新しい出会い、新しい世界が広がった。
ベッキーと二人、見知らぬ町に出かける機会がふえた。

7、世界は光に満ちている

二○○五年、愛知で「愛 地球博」が開催された。そして、イベントのひとつとして「市民パビリオン」での市民活動のアピールが公募された。わが「全日本盲導犬使用者の会」もこれに応募。そして見事に企画が採用された。
その日、万博会場には百頭を超える盲導犬が集結した。全使用者の一割強。もちろん初めてのことだった。
そして四百人が収容できる市民パビリオンのホールでは「盲導犬フォーラム」が開催された。
私は名前だけの総合プロデューサーということで、ずっと舞台裏にいた。
韓国初の女性盲導犬ユーザーさんとのトークショー。津軽三味線や琴の演奏。
そしてバンドネオン&ピアノ演奏によるソプラノの歌声。訓練士やボランティアを交えてのパネルディスカッション。
三時間にもおよぶ舞台は大きな拍手につつまれつづけた。感動が胸にあふれた。
「ありがとう。こんなところまでぼくをつれてきてくれて」
足元には静かにベッキーがいてくれる。
私の目にはもう光はもどらないだろう。それはやはりとても寂しいこと。
でも、たくさんの人が私に光を投げかけてくれる。私は光をもとめて世界中を迷いながら歩こう。
そして、いつか自分のこの五体から励ましの光を放てるような、そんな人間になれたらなどと、果てしない夢は広がり続ける。
ささやかな希望とわずかばかりの勇気さえあれば、いつだって光は見える。私はいま心からそう思う。

林 克之プロフィール

昭和三十二年生まれ 自営業(接骨院) 和歌山県広川町在住

受賞のことば(林 克之)

ぼくは文章を書くのが大好きです。それなりの自信もあったりします。でも、真面目に自分のことを書くというのは苦手。
書き上げて出してしまってからも「出さなきゃよかったかなあ」と思ったりもしました。
失明して十年を過ぎて、これまでのことをきちんとふりかえってみる。この機会にそれができたことがとてもよかったです。
多くのみなさんの眼にふれることになるかと思うと、顔が赤くなる思いですが…。

選評(柳田邦男)

視力ゼロの視覚障害者が美術館に出かけ、「聞く絵画鑑賞」を楽しむという事実に、私は圧倒されました。林さんは、「丁寧な説明で、目の前の絵が目に浮かぶよう」と書 いている。その想像力のみごとさに比べ、自分の想像力は何と貧しくなっていることかと思い知らされたのです。もちろんそんな楽しみ方ができるようになるまでには、幼少 期から先天性緑内障によるさまざまな苦しみがあったことは、文章から推察できます。しかし、そういう中で、「できなくなったことを数え上げるより、できることをひとつ でも増やそう」という生き方を見出し、次々に新しいチャレンジをしていたことが、「聞く絵画鑑賞」の発想に繋がったのでしょう。その生き方の背景にある、家族への熱 い思いやりにも感銘を受けました。

以上