第41回NHK障害福祉賞矢野賞作品「不運に従ってばかりいては幸せはこない」〜第2部門〜

著者:桑原令江 (くわはらはるえ) 徳島県

一九三七年、私が四歳の時はしかを患って失明して、全く明暗も感じなくなったのは十代前半で した。
マッサージの技術を学んで自立するために県立の盲学校へ入学したのは、十歳の時でした。 十四年間寮生活をした後、卒業したのが二十四歳でした。
その翌年の春、マッサージ師として徳島市内で開業したのです。
二十七歳の時、弱視の同業者と結婚しました。子どもが生まれてくれるなら、全盲の女性である私 は、女の子が授かればいいと望んでおりました。一九六一年十月に長女を出産し、美千子と名付けま した。
おしめの取り替え、首の安定しないうちから入浴させること、離乳食づくりなど、生後まもない育 児の大変さを実感しました。お座り、はいはい、よちよち歩きと順調に成長して行き、私たち夫婦は 子育てをとても楽しんでおりました。主人はとても子煩悩で娘を自転車に乗せて方々連れ回ったり、 遊園地まで連れ出して遊ばせておりました。お風呂に入れるのはいつも私でしたが、二歳になって間 もない頃、初めて主人が入れることになった日のことです。娘は男の人のシンボルを見て「ワーイお とうちゃん、しっぽが生えてるネ。美千子もそんなしっぽを後藤さんちでちっこいの買ってね。早く 大きくなってくれるかなー」。後藤さんちというのはいつもおやつや雑貨物を買いに行っているお店 のことです。こんな無邪気で微笑ましい娘の会話を聞いて、私たちは腹を抱えて大笑いしたことで した。
ところが娘が三歳の時、楽しい我が家に思いもしなかった不運という悪魔が忍び寄って来たのです。 それは真面目で人の良い子煩悩な主人は、よほど心地よい天国とも感じる住みかを見付けたのか、 それとも誘惑に負けて酔いしれたのか、我が家へ戻ってこなくなったのです。夫婦縁結びの神様がい るならば、何がわざわいして怒り狂われて私たちはこうなったのだろうか?
しかし、悲しんでいつまでもめそめそして不運に従ってばかりいると、それをとても喜んで益々不 幸の種を運び込むものです。だから不運には絶対従うことなく、忍び寄るなら寄ってみなと開き直っ て戦い続けていると、おのずと居たたまれなくなって退散するものです。
その時には、悪魔神と隣り合わせの福神を一気に呼び込み幸せをつかむことです。
仕事を持ち子どもの面倒を見るということは大変なので、しばらく施設へ預ければ楽でもあるし、 安心できるのではと勧めてくれる人もいました。しかし、私はこのことに反対の気持でした。
それは入学して以来、ずっと寮生活であったので、親兄弟とのふれあいがなくて、とても寂しい思 いをしていました。だから、娘は傍に置いて肉親の肌の温もりと心のふれあいを感じる子育てがした かったのです。子どもの昼寝の時間帯や、元気よく友達と遊んでいる時や、保育所・幼稚園などに 行っている間の時間を見計らって、仕事は予約制にして患者さんに来てもらうようにして、仕事と 子どもの面倒を見ることの両立がどうにか出来たのです。
三歳から五歳位にかけての幼児は好奇心が旺盛になり、記憶力も抜群です。「これは何、あれは何、 どうしてなの」と盛んに聞いてくるようになったのは、丁度この時期であったように思います。視力の ある者がいる家庭では何でもないことでも、私の場合は難問が数多くあって、自分自身が工夫したり、 視力のある人に協力してもらう必要がありました。特に、色を教えることや、物の名前や形などを教 えたり、絵本を読み聞かせるのには大変な工夫が必要でした。色を教えるには教えたい色の品物を 買って来て、赤は歯ブラシのような色、ピンクは靴のような色、黄は手毬のような色などと教える のでした。一つの色が他の色と解け合うと、先の色は変化して違った色の言い方をするので、とても 複雑です。
物の名前や形などは、その絵が付いた積み木を購入して、例えば犬なら犬の絵のついた積み木の裏 側に点字で犬と書いたテープを貼っておきます。このようにしてこれが牛・馬・りんご・トマト・朝 顔・ゆりなどというふうに、遊ばせながら教えるのでした。
しかし、絵本を見せて読み聞かせるのは大変な工夫が必要でした。
友達に協力してもらって絵本の何枚目をめくれば何の絵であり、どんな文を書いてあるのかを点字 で書き取っておくのです。「これは何と書いてあるの、これは何の鳥なの?」と聞かれた時には、点 字と絵本の枚数とを照らし合わせて、例えば三枚目をめくったところを聞かれた時には点字と照らし 合わせてそこを見て、鳩が二羽います、とか、母さん鳶の後から子どもの鳶が飛んで行きます、とい うふうに読み聞かせて、鳥の名前を教えます。
小学校に上がるまでは字を教えない方が生徒に指導しやすいらしいのですが、みんなと言ってよい ほど仮名文字なら覚えていると聞いていたので、入学して最初のうちから一字も知らないと皆から遅 れがちになるかもという心配もあって、友達に協力を頼み、文字の書き順を教えてもらい、入学まで には読み書きできるようになりました。学校で宿題が出た時には、自分で読んで理解しながら答えを 記入して出すことが出来たので、どうにか遅れずに学力がついて行きました。
そんなふうでしたから、友達には色々協力をしてもらって感謝感謝の連続でした。
あの時代には、福祉の制度が今のように充実していなかったので、ホームヘルパーさんやガイドさ んを利用出来ず、日々の食料品の購入にはとても不自由を感じておりました。娘が五歳位になって一 人でお遣いができるようになってからは、とても助かりました。娘は買った品物を我が家へ持ち帰る 途中、いつも歌をうたうので、その歌声が聞こえ出すと近くまで戻って来たことが判り、本人や品物 より声が先に我が家へ戻り着くのでした。
あれは幼稚園の年長組の時であったと思いますが、近所に不幸があってお盆が近付いた時、提灯に 灯りをともして玄関先に吊していました。それを見て娘は不思議に思って、何故そうするのか、と私 に聞いてきました。私は年寄りから聞いていた通り、「お盆には亡くなった人の魂が家に戻って来る ので、灯りを頼りにして迷わず自分の家へ入るのですよ」と教えました。娘は、「それじゃ、母さん は灯りが見えないから、提灯のそばに風鈴を吊しておくから、その音を頼りにして、迷わずに戻って くればいいよ」と言うのです。私はそのグッドアイデアに感心して「そうね、一番いい音がするのを 買って来て吊してね」と頼んでおきました。
もう一つ、私なりの子育ての試みとして、一人で五役を演じてみることにしたのです。 先ず、母親の役としては言うまでもなく、食事と身の回りの世話をすること。後は折りに触れてア ドバイスをすることです。
お父さん役は、仕事をして収入を得ること。口返事をしたり我儘ままをいったりした時などに注意をし て家庭のしつけをすることです。
お姉さん役は、算数の解き方が判らない時や、その他の勉強のことや笛の吹き方を教える、いわば 家庭教師のような役です。
妹の役は、おやつが多いとか、少ないとか、言って喧嘩をしたり、ままごとや折り紙をして遊ぶこ とです。
お兄さん役は、相撲を取ることです。腰を下ろして手を着いて「ヤー」と言う掛け声で立ち上がって かかって行き、勝負を決めます。いつも負けてやるので、娘は「勝った勝った」とおおはしゃぎして 得意げでありました。
ところが、小学校の高学年になると、母さんはわざと負けて私に勝たせてくれるのだと悟るように なりました。その頃の娘の身長は一五三センチの私より五センチ高くて、体重は四十八キロの私より 四キロ重くなっていました。ある日また相撲を取ることになり、今日こそは本気になって勝負をして 勝ってやるぞと取りはじめると、娘も夢中になって掛かって来て思いきり投げ倒されて頭がじーん となったのを感じたのでした。体力からいって、かないっこないやと思うようになりました。それ以 後、相撲は取らなくなりました。
中学・高校と学年が進むにつれて話題も相談事も多くなり、アドバイスをすることも多くなって、 母親役の出番が忙しくなって来ました。
クラスの誰と誰が付き合っているとか、あの子とあの子との付き合いは止まってしまったとか、あ の子は勉強は良く出来るが意地悪だとか、今日、先生はご機嫌斜めであったなどなど、クラスや校内 の話題をこまごまと知ることができて、まるで私自身が学校へ行ってるかのようでした。
また、ある時はボーイフレンドから手紙を貰ったといって、それを読んで聞かせてくれることもあ りました。そうなると母親というより友達のように思っているようで、母親の私も嬉しいような楽し いような気持になって、娘の学校帰りをるんるん気分で待つようになりました。
高校最後の学年になった時、大学へは進まずに看護師の資格をとって病院勤めを将来の職業として 自立するのだと言うようになりました。
そして高校卒業後、看護学校の試験に受かり、病院で見習いをしながら学校に通うようになりまし た。その後資格を取ることが出来て、正式な看護師として就職が決まりました。
この時、私はやっと子育てが終わったのだと実感しました。
二十三歳の時、娘は自分が選んだ男性と結婚しました。私は肩の荷が下りたようで爽やかであり、 嬉しいようでもあり、その反面ちょっぴり寂しいようでもあって、複雑な心境であったことを覚えて います。
一九七三年に新築の住居造りの運が私に向いてきました。決して広くて豪華とは言えませんが、雨 風の凌げる我が家が完成しました。母さんの一人暮らしは不安で心配だから、結婚後も同居するのだ と、娘はいつも言っていましたので、我が家で二児の母親となって頑張っております。
高齢者の仲間入りをしてから、七十歳でマッサージ業を廃業しました。そしてテレビ、ラジオから 報じられる日々変わり行く世界の情勢を耳にするなどして、楽しみながら幸せな余生を暮らしている ところです。また、職場へ、学校へとそれぞれ出掛けていった娘夫婦や孫達が、夕暮れには一人戻り、 二人戻りして家族揃って和気靄々で夕食をすることにも、私はこの上もない幸せを感じています。ま さにこのようなことは、不運に従うことなく戦い続けて勝利をして呼び込むことの出来た幸せである と思っております。

桑原令江プロフィール

昭和八年生まれ 無職 徳島県徳島市在住

受賞のことば(桑原令江)

産声をあげた娘が、成人して自立するまでの子育てを、全盲の母親として、私の努力 と工夫をして参りました事は、とても大変な事でした。肉眼は失いましたが、輝きと潤 いのある心眼で、絶えず娘の成長を見つめながら親子の愛情を大切にして、見守ってお りました。その事を評価して頂き、このような光栄な賞を頂きました事を、とても嬉し く思います。

選評(柳田邦男)

今の世の中、子どもとのスキンシップを大事にしない母親が増えている中で、桑原さ んは目が見えなくても、子どもを安易に施設に預けないで、マッサージ師の仕事と子育 てを両立させる骨の折れる道を選んだ。子どもに色や物の形と名前を教えるのに、どの ように工夫をこらしたか、どれ一つをとってもすばらしいアイディアと実践だったが、 とりわけ心を打たれたのは、絵本の読み聞かせだ。友達の協力を得て、絵本の何枚目は どういう絵と文章かを教えてもらい、それを点字で書き取っておく。その点字を使って 読み聞かせや質問に答えたという。子育ての本質がそこにあると感じました。私の絵本 普及活動の中で、桑原さんのことを多くの人々に伝えたいと思います。

以上