第41回NHK障害福祉賞最優秀作品「いとしい日々」〜第2部門〜

著者:横田真司 (よこたしんじ) 東京都

「いつか障害のある人たちと暮らしたいね」
それが妻との合言葉だったような気がする。

出発

その妻に知的障害者生活寮の寮母の話が舞い込んだのは、二人の子どもが生まれて、息子が五歳、娘が三歳の頃だったか。
妻は子どもができるまで台東区の障害者施設で勤務していた。僕はその施設に出入りしていた腹をすかせた学生ボランティアだった。
「よう青年!あたしゃ今日は給料日なんだよ。トンカツでも食べようか」
そんなふうにして結婚した。
子どもを身ごもったその年の年度末で妻は区役所を退職した。未練や躊躇(ちゅうちょ) はなかった。日々刻々と変化するわが子のいつもそばにいたいと言った。保育園に預けて夕方お迎えのときに、我が子がその人生で初めてなしえたことを保育士さんから報告されるなんて耐えられないと言う。少し貧乏しても丁寧に子どもと向き合いたい。妻はそういう人だった。子どもが学校にあがるようになったらまた働きたい。そう言いながらのリタイアだった。

「今度、台東小学校のところに生活寮ができるんだけど、寮母さん探してるのよね。だれかいない? …っていうか、ヒロコさん、あんたがこっちに戻ってくればいいのよ。どう、やらない?」
子どもが小さいうちはおばあちゃんが近くにいるのが良かろうと、茨城に引っ込んでいたときに舞い込んだそんな電話。いずれはそんな暮らしをしたいと願っていたとはいえ、少し計画より早い。子どもたちもまだ幼い。両親の生き方に、もの心付くか付かぬかの人たちを巻き込むのが果たしていいのか…。僕たちは迷った。まあいい、素直に本人たちにきいてみよう。
ある日、子どもらを目の前に座らせて僕たち夫婦も正座して語り始めたものだった。
「親や兄弟がいても、自分のうちで暮らせない人たちと一緒に生活してくれないかっていう話が来ている。そういう生活をするのはお父さんお母さんの夢だった。君たちはどうですか?」
子どもたちが質問した。「そうすると、なんかいいことある?」
「…場所は上野の近くだから、動物園や水族館に行きたいときいつでも行けるぞ」
「やったあ!うん、行く行く。ぼくたち、いいよ」
決まった。

四人

僕ら家族と一緒に住むのは四人。区が建物を建てて、運営は社会福祉法人が担う公設民営の生活寮だ。四人にはそれぞれ六畳一間の部屋が用意されている。冷暖房も完備。リビングとかトイレ・お風呂など共同で使う部分の向かい側に四人それぞれの部屋がある。廊下の向こうにささやかな仕切り程度のドアがあって、そこから向こうが寮母家族のスペースということだ。六畳と四畳半にちょっとした台所。子どもが小さい頃はどうにかなるけれど、さてこれではたして何年持つだろうか。まあ、今はとりあえずそんな先のことは考えるのは止そう。
四人がそろって入寮したのが、年明け早々一月五日。四人の名前は、年齢順にタカハシさん、エッちゃん、ケイコさん、タブチくん。

ぎこちなく奇妙な八人の生活が始まった。。
寮母の朝は早い。五時に起きて朝ごはんの準備。それに加えて四人とも弁当持ちだ。六時には四人を起こす。もちろん機嫌よくさわやかに起きてくれる御仁ばかりじゃない。
ダウン症のケイコさんは低血圧で毎朝決まってグズる。朝の準備でおおわらわの寮母を見かねて僕が布団を引っぺがしに行かねばならないことも再三のことだ。
エッちゃんも朝は比較的ボーっとしてることが多い。それにしても、エッちゃんの髪の毛の寝癖ときたらどうだ。寝ぼけ眼で洗面所の鏡に向かって歯磨きしてる姿を見て、小学生の息子がよくはやし立てたものだ。「わあ、エッちゃん今日もあたま、爆発だあ」
それに比べたら男二人はまあまあすんなり起床していたようだ。タカハシさんはもう五十も半ばだからよく痰(たん) が絡む。食事の支度をしている寮母の耳に「カアーッ、ペッ!」という音が聞こえてきていつも一瞬ゲンナリしていたものだ。
もう一人の男子タブチくんはちょっと自閉的な傾向があって、常に「ムームー、ウーウー」みたいな唸(うな) り声を出している。朝、洗面所を使うとき自分が一番じゃないと気に入らなく、僅差で二番になりそうになったら一番の人を威嚇したりもする。「そんな割り込みおかしいでしょ! 」。寮母にしかられるともう食事の時間ずっとブスーッとしている。
朝の身支度がすんで、みんなで朝ごはん。
「いただきまーす」
ケイコさんは足が悪くて、リビングの床に座れない。一人だけいすと机を出してそこで食べている。その傍らに台東区立の幼稚園生になったばかりの娘が座っている。ケイコさんは頻繁にてんかん発作が起きる。
「ウ、ウウー」
発作が始まるとケイコさんは脱力状態になって、そのとき手にしてた味噌汁のお椀とかをぶちまけてしまうから、すぐ近くにいる娘は気が気じゃない。
「あ!おかあさん、ケイコちゃん発作だよ。あーあ、また制服にかかっちゃったあ」
何年か後にしみじみその娘がつぶやいたものだ。
「あたしんちには、なんでよそみたいにおばあちゃんとかがいなくて、こんなたいへんな人ばっかいるの?」
そう愚痴るときのキメ台詞はこうだ。
「あーあ、普通の暮らしがしたい」
そんなときは父親たる僕の出番だ。
「一応、民主的に話をして決めたんだけどなあ、この暮らしを始めるときは」
「それって、動物園とか水族館にいつでも行けるよって話でしょ。んなのズルだよ」
「まあ、そのうち好きな人ができて、その人とどこでも好きなところで生きていけばいい。君たちは自由だ」
金子みすずじゃないけれど、明るいほうへ明るいほうへ話を持って行ってやると、娘はもうバカバカしくなってそれ以上は言わなかった。彼女の兄貴は無邪気に順応していた。

しばらく過ぎた頃、動物好きの娘の提案でオウムを一羽飼うようになった。名前をみんなで考えてピーコと付けた。洗面所の前の電子ピアノの上に鳥かごを置いたせいか、毎朝みんながオウムに挨拶するのがおかしかった。
「おはようございます」
あの嗄(しゃが) れ声はタカハシさんだ。
「おっはよう!いつも元気だね」
タブチくんの能天気な声。
「…(おはよう)」
エッちゃんはいつも通り寝ぼけ眼で声もはっきりしない。
「あーら、ピーちゃん、いたのね。おはよう。…あら、お返事はないの?やあねえ、喋(しゃべ) れないの? 外人?」
おやおやケイコさん、やけに今朝はご機嫌さんだ。けど、言ってることがシュール。
ピーコは喋れないどころではなかった。いろんな言語をインプットされたようだ。なかでもやはり寮母の言葉を一番よく聴いていたようで、よく真似をしていた。
「ケイコさん、なにやってんの!」
「タブチくん、早くしなさい!」
寮母たる妻は、だからピーコの声真似をあまり楽しそうには聞いていなかったようだ。
四人は日中それぞれ通う場所がある。タカハシさんとケイコさんは区立の福祉会館。エッちゃんとタブチくんは民間の作業所。彼らのような知的障害のある子を持つ親御さんたちの会が運営している作業所だ。作業所だから毎日軽作業をする。お菓子の箱折り、おもちゃや風船の袋詰め。作業工賃は小一万というところ。それに障害年金や区の家賃助成制度を活用して、ようやく生活寮の費用をまかなっている状況だ。例えばエッちゃんは、毎月生活に必要なお金を引くと、本人の手元に残る自由なお金は五千円程度。それで好きなCDを買うか美容院に行くかどっちにする?という会話が毎月寮母との間で交わされていたものだ。ただ一番身近なところで彼らを見ていて救われるのは、そんな自分の暮らしをことさらに惨めなものだと本人自身感じてないような様子だったことだ。
貧しくも心優しい彼らは、ともに暮らすうちの子どもたちに、作業所で出たおもちゃや塗り絵本の不良品を夕方持ち帰ってきてくれるのだった。いつかエッちゃんが持ち帰ったものに、袋入りの風船があった。なんでも、袋が汚れてて不良扱いになっただけで、風船はなんともないと言う。おいおいいいのかよ、風船は商品になるんだろ…。エッちゃんは風船遊びが大好きなうちの娘を自分の部屋に招き入れて、
「マサミちゃん、これね、お仕事でマサミちゃんにもらってきたんだよ」。その誇らしげなこと。
わーい、遊ぼ遊ぼ。はしゃぐ娘。普段から赤い顔をさらに真っ赤にしてほっぺたを膨らませるエッちゃん。
美しい光景。
僕はそのとき祈った。この瞬間がこの娘の胸に永遠に記憶されますように。同時に思った。僕たちはこの人たちからすでにたくさんなものをいただいている…。
毎朝四人とうちの子二人はピーコに挨拶して出掛けた。
「いってきまーす」

祭り

この生活寮のある場所はお祭りの多い土地柄だ。ことに春から夏にかけては毎週どこかで祭りが行われているような勢いだ。 五月の連休が終わると浅草のほうは三社祭で盛り上がる。その騒ぎをこの町会の人たちは「こっちももうすぐだもんね」ってな感じで眺めている。この辺は鳥越神社のエリアなのだ。いつだか三社の神輿(みこし)を担ごうとお祭りの格好で寮の玄関を出ようとしたところを町会のお歴々に見つかってしまった。悲しそうに言われたのが実にこたえた。
「あらあら、そんな格好して…よそのも担いじゃうんだねえ」
そうか。この辺の昔からいる人は自分たちの祭りが一番だという自負があって、おいそれとよそに借り出されたりしないのか。 じゃあ、今度からそっと見つからないように出掛けよう…。

鳥越の祭りのときは生活寮の前で宴会を開いて、誰でも顔を出せるように準備した。生活寮の四人もお祭りは好きだった。といっても、タカハシさんは高齢、エッちゃんは強度の近眼、ケイコさんに至っては、てんかん発作持ち。これでは神輿を担ぐどころの話ではない。ひとりタブチくんだけは担ぐ気満々。担ぐとなると、いつものうなり声も普段以上に大きくなる。ウー、ウー、ウー !
タブチくんのうちは同じ区の橋場にある。池波正太郎の「剣客商売」の舞台のあたりだ。両親と弟がその家にいる。じゃあなにも親元を離れて暮らさなくても一緒に生活すればいいと思うところだが、事情はなかなか込み入っている。タブチくんの弟もタブチくんと同じ障害がある。そのうえこのごろ弟に対してタブチくんが何かと攻撃的になってきているというのだ。それで弟のほうがタブチくんを怖がってしまって、狭い家の中でにっちもさっちも行かない状況になって生活寮入寮となった次第だ。 だからタブチくんの心にはいつも釈然としないものが存在するのだ。「なんで僕は自分のうちで暮らせないの」。身から出たさび。自業自得。そういう、事柄の責を自らに帰するべき思考回路も能力も悲しいかな持ち合わせていない。そんなタブチくんだが、生活寮で暮らすようになって少しずつ、ああ自分が家にいられなくなる状況を作り出してきたんだなということが了解できてきたようだった。そうなると、もとより家族への愛情はいじらしいほどにあるタブチくんだから、家族のことをポツリポツリと話すようになってきた。家族といて今まで一番うれしかったことは?という質問に、
「お父さんと一緒にお神輿を担いだこと」
そうか。お神輿か。担ごうじゃないか。鳥越の千貫神輿、一緒に担ごうぜ!
「えー、いいの?」
いいも悪いも、君は今はこの町内の若い衆だ。若い衆がその町内の半纏(はんてん) 羽織って神輿を担ぐ。そのいったいどこが悪いんだ?
鳥越祭りの土曜日の夜に僕はタブチくんと町会神輿を担いだ。タブチくんは興奮の極みだった。ウーウー唸る。最後まで練り歩かずに早めに切り上げた。寮に帰ってきてタブチくんの部屋で汗みどろの着替えを手伝った。三階の窓の外ではこれからが宴たけなわ。火の入った十八の町会の神輿がそちこちの路地から出てくる。男たちの荒々しい雄たけび。僕も叫びたくなった。ちらちら揺れる無数の提灯(ちょうちん)に語りかけていた。
「鳥越の神様は…天照大神と日本武尊だったよな…、神様、ここにこういう暮らしをしている人たちがいることを、どうぞ分かっていてください。無垢(むく)な魂たちです」

寮母は基本的に土日が休みだ。そこにアルバイトが入る。登録アルバイトの中から順当に見つかればいいが、どうしてもいない場合は僕が入ることもしばしばだった。料理、掃除、洗濯、四人の服薬管理、鳥の餌やり。普段の寮母の業務のすべてをこなすのは当然だ。加えて、タブチくんのインキン田虫の治療などという寮母でさえやらないことまでやった。夕方一緒に風呂に入り、 「…ほらほら、ここの裏のところ、ここをよく洗わなきゃ…」
などと教え込んだりするのは僕にはまったく苦痛ではなかった。楽しかった。
四月の下旬の休みの日、みんなそれぞれになすべきことを終えてもぞもぞとリビングのテレビの前に集まってくる。みんな予定は無いらしい。お金も無いという。日曜の朝から一日テレビはキツイなあ…。
「上野に散歩に行こうか。遅まきながら長屋の花見とシャレ込もうじゃないか」
わあい、花見、いいですねえ!
ノリが良い。
寮から上野公園までゆっくり歩いて三十分。常に発作の恐れのあるケイコさんの腕を取って歩き始める。ほかの三人もユラユラと付いてくる。タブチくんは前のめりの独特な歩き方で、やっぱりウーウー言っている。
上野広小路を抜けて不忍池の畔(ほとり) に着いた。桜はもうほとんど葉桜になっている。そんな季節だから思ったほどの人けは無い。幅の広い道を五人横になってゆったり歩く。晩い春の風が吹く。桜の花が舞う。エッちゃんの髪に花びらが付いている。向こうに弁天様の赤い屋根が見える。池の淵の柳がいい風情だ。
「いい天気だねえ…」エッちゃんが誰にともなく話しかける。
「うん明日もいい天気かなあ」タブチくん。
「明日もいいんじゃない?」エッちゃん。
「あさっては、どうかなあ」タブチくん。
「あさってはそろそろ崩れるんじゃないの?」おっと!嗄れ声のタカハシさんの意外な参加。
天気のことをそんなに長々と…生涯、天気の心配していなさいねキミタチ。
僕は柔らかな笑顔を浮かべながら青空を見上げる。今の僕には欲も得も無い。あるとしたら、この瞬間が永遠に続いて欲しい。それだけ。
そのとき僕はきれいな人になっていた。この四人の存在によってきれいにされた。そのことを白い雲を見ながら確信していた。

それから

四人と僕ら家族の生活寮での暮らしはちょうど十年続いた。五歳と三歳のときに動物園に釣られてやってきた子どもたちも、それぞれ高校生と中学生になった。仲の良い素直な心根の優しい子に育った。
妻の所属している法人が運営を拡張して、新たなタイプの生活寮が近くにできる運びだ。そこに妻の経験なり知識なりが必要だという。
十年間暮らした生活寮を僕ら家族は出た。
今から五年前だ。

鳥越祭りふたたび

子どもたちは二十(はたち) 歳と十八になった。同い年の僕ら夫婦も五十路に近い歳になってしまった。妻は今の家から自転車で三分くらいの新しい生活寮で働いている。「世界一楽しい仕事」そう妻は自分の仕事を語る。日勤に週二日程度の宿直も入る。そんなときは僕が台所仕事をする。あの十年で僕の家事能力もずいぶんスキル・アップしたものだ。
あれから、前の生活寮の四人にはいろいろな変化があった。三年くらい前、タカハシさんが体に変調をきたして多摩のほうの老人ホームに入った。まもなく亡くなった。若い頃、親の財産分与で手にした数百万円をほとんど残したまま。 ずっと疎遠になっていた兄に連絡した。すぐに遺留金を引き取りに来た。
ケイコさんも体が弱って、もっと介助の手の厚いタイプの生活寮に移って行った。
その二人の後には代わりの人が入っている。

今年の鳥越祭りの宵宮は六月九日だった。くしくも妻の誕生日。翌十日の土曜日は氏子十八町会の連合渡御。僕は夕方五時過ぎから担いでいる。薄暮の時を過ぎて神輿に火が入る。闇にユラユラ揺れる提灯をつけて担ぐ気分は勇壮だ。
おや、この通りは…このお寺、この印刷屋さん…ああ、やっぱり前にいた生活寮の近くだ。あの建物の前を通るかな。三階の窓からみんな見てるかな。まさかね…。
神輿がガソリンスタンドの角を曲がり、パン屋さん、紙屋さんと進んでいく。生活寮はこの隣りだ。
三階に四つの窓。誰かいるか。
おお!四人とも窓から首出して見てるじゃないか!一番右がタブチくんの長い顔。その隣りは知らない顔。その次の窓からは牛乳瓶の底のようなエッちゃんのメガネ。左端は、カンちゃんじゃないか!そうか、新しい二人の中に昔なじみのカンちゃんもいたのか…。
僕は戯れに三階に向かって手を振ってみる。
わかりゃしないよな。
おーい!大声で呼んでみる。二度三度。
タブチくんと目が合ったような気がした。
まさかね…。
次の瞬間また三階に目をやってみると、タブチくんがいない。
「シンジさん!」
タブチくんが僕の半纏を引っ張っていた!
そうだ、タブチくんは目は良かったんだ。
僕と分かるや、すっ飛んできたんだ。
次に僕のなすべきことは、そうだ、僕のこの汗に濡れそぼった半纏を彼に羽織らせて、この神輿を担がせることだった。

横田真司プロフィール

昭和三十三年生まれ 地方公務員 東京都台東区在住

受賞のことば(横田真司)

望外の栄誉に歓んでおります。
障害のある人たちと暮らしたいなどという願いが思いがけず早くにかなえられ、その暮らしの中で経験したことをいつかまとめたいという思いをずっと抱いていました。良い機会を与えてもらった。そう感じています。
あの十年で僕は、ゆっくり丁寧に生きることの大切さを学びました。彼らが教えてくれたのかも知れません。そういう意味では、この作品は彼らへのオマージュなのです。

選評(江草安彦)

そんなに楽しい日ばかりではなかったろうに、公設民営の生活寮での障害のある人四人と親子四人の大きな家族の生活が書かれている。
生活寮は障害福祉の新しい理念に基づくものだが、現実はなかなかに容易ならないこともある筈だ。二人のお子さんが「普通の暮らしがしたい」と言われれば、明るいほうへ話を持っていったという言葉にも伺われる。町内でも生活寮の人々も若い衆の一人と して融け込むことが出来ている。すばらしいことである。時は流れ、人は年を重ね、障害福祉のすがたも変容している。こうした激動の中でこの人々に幸あれと祈りたい。

以上