フォーラム「東日本大震災 そのとき福祉現場は
--被災経験から何を学ぶか--」抄録4

第2部 パネルディスカッション「何を学び活かすか 〜災害への備え〜」(後編)

目次

                           
  1. はじめに
  2. ビデオ:震災がもたらした施設・地域の変化
  3. 地域とのつながりをつくる
  4. 「居場所」の提案
  5. コミュニティーオーガナイズ
  6. 現在の支援活動は地域づくり
  7. これからへの提言
  • 講師プロフィール
  • フォーラム主催、後援
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    はじめに

    町永

    これからご覧いただくのは、もう一度、内出さんのところのデイサービスです。
    津波の大きな被害を受けたその後、実はこのデイサービスの中で大きな変化があらわれたと。それは一体どういう変化、どういう取り組みが実ったのか、お伝えしましょう。

    ビデオ:震災がもたらした施設・地域の変化

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    ビデオの内容

    津波に襲われた岩手県大船渡市。多くの道は瓦礫で埋め尽くされ、通行不能になりました。 後ノ入(のちのいり)地区は、電気、水道などのライフラインを断たれ、携帯電話も通じなくなり、完全な孤立状態に陥りました。

    デイサービスのお年寄りたちが避難したのは、この地区にある介護事業所です。
    震災当時、ここのホーム長だった高橋 洋喜さんは、デイサービスの利用者たちだけでなく、地域の人たちにも、避難所としてここを使ってもらうことを決断しました。

    (高橋さん) 「地域の人たちが、下からいっぱい上がってきまして、道路の脇とかに20人くらいいたんですよ。寒かったもんですから、いったんその方たちに声をかけて、そのまま土足でリビングまで誘導して、まず待機していただいたと」。

    この事業所は、お年寄りが宿泊する個室と、日中を過ごす共用スペースとで出来ています。その全てを、お年寄りと地域の人たちとで分け合って使ってもらうことにしたのです。

    住民たちの多くは、津波で自宅を流されたり、浸水したりしていましたが、それぞれ残った食料や燃料を持ち寄って、炊事を行い、共同生活を始めました。多いときで100人近くになっていたそうです。

    もともと介護事業所を利用していたお年寄りの多くが認知症をかかえていました。突然の環境の変化に、夜、落ち着かなくなる人も出てきました。

    (吉田さん)
    「何日もここにとどまらなければいけなくなってしまった認知症の皆さんがだんだん動き回ったり、ちょっと奇声を発したりするのを、スタッフの皆さんが、しゃがんでお年寄りに目線を合わせて、おだやかに『大丈夫だよ』って言ってるのを、夜中なんかにも見てて、『大変だな』と思いました。私だったら、ちょっとかーっとなったり、おっきい声だしたりしたくなったかもしれないけれども、ずっと理性的にやってましたから。訓練受けたスタッフの皆さんだとは思いますが、大変なお仕事だなあと思いました。同時に、ありがたいなとも思いました」。

    地域の人たち、職員、そして認知症のお年寄りの共同生活は、道路が通じるまでの5日間、続きました。

    地域の人たちは、この経験を通じて、認知症の人たちや施設を、少し身近に感じるようになったといいます。

    (吉田さん)
    「私の両親は、一緒に避難をしてきて、こういう施設に対する考え方が変わったようです。言葉は悪いですけれども、昔は認知症になったら、どこか施設に入れられる、そういう意識を持ってたようです。今はそんな気持ちはなくなって、自分も足腰弱くなったり、認知症になったときはお世話になってもいいなってことは話しています」。

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    地域とのつながりをつくる

    町永

    津波で大きな被害を受けたデイサービスの利用者がこの小規模多機能ホームへ移ってきた。それはもう、しようがないから地域の人たちと一緒に暮らす。わずか5日間だったけど、そのときの変化が大きく広がっていったという取り組みなんですが、内出さん、地域の人と一緒の暮らしをしたという取り組みは大きかったですか? 

    内出

    そうですね。この地域は10年以上住み続けた人がとても多い地域なんですね。ですから昔はお味噌がなくなれば隣のおうちから借りてくるなんてことが普通に行われていた地域なんです。それでも最近は、隣は何をする人ぞっていう雰囲気がありました。ですので、こういう小規模多機能という地域密着型事業所は、いかに地域と一緒に歩んでいくかが課題なのですが、施設ができると、どうしても住民がちょっとよそよそしかったり、またケア事業所の職員たちも、どうやって地域に溶け込もうかと、すごくジレンマを抱えていた時期だったんです。そういうときに3・11が起こったっということです。それでビデオのインタビューにもあったように、地域の方の意識の変化はものすごくありました。最初はお話があったように、どこか近寄りがたいということがあったと思いますが、5日間寝食を共にしたわけです。ただ寝食を共にしたというだけでなく、電気も水道も何もかもないところですので、男性陣は井戸に行って水を汲んできたりとか、ご婦人方は被災していない家から冷蔵庫のものを持ち寄って、即席で何かをつくったり、暖炉をつくったり、本当に大活躍していただきました。そういうことだけではなくて、誰かが亡くなったと言えば、皆で一緒に涙を流したりとか、生きてたとわかると、みんなで喜んでまた涙を流したりとか、本当に気持ちの部分も一緒に共有したなということでした。それを重ねることで、地域の方々も、こんなところならお世話になってもいいかなという雰囲気になったと思います。また住民の変化だけでなく、私たちケア事業所も、地域の子どもたちとも一緒に暮らしたので、子どもの名前を覚えたりとか、そういう変化も起こりました。それが1年間ずっと続いてまして、日常の挨拶をしたり、民生委員の会議を1か月に1度はケア事業所の会議室で開いたりとか、婦人部の方々がいろんな昔のおやつを作ってきてくれたりと、自然なお付き合いができるようになりました。

    町永

    内出さんがさっきおっしゃいましたが、事業者は大変なので、どうしても施設の中の利用者さんだけに目が向きがちですが、それだけでは無理だというところも見えてきたのかもしれませんね。

    内出

    そうですね。とかく私たちの仕事は、支援をしよう、支援をしようと、凝り固まってるんですね。今回5日間、寝食を共にしたことで、地域の人たちに認知症のお年寄りを知ってもらったり、私たちのケア事業所を知ってもらえたということもありますが、私たちも地域の人たちのこんなことができたんだ、こんなこと頼めるんだということを知れたことは大きかったと感じます。地域の人たちの力を身にしみて感じました。そして人の力をすごく信じられるようになりました。

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    「居場所」の提案

    町永

    その延長線上に、「居場所カフェ」というのを構想しているそうですね。

    内出

    どうして作ろうと思ったかといいますと、私たちはケア事業所に携わって20年になるんですけれども、最近、疑問に思い始めてきたんですね。何かというと、私たちのやっている施設はお年寄りだけの施設なんです。例えばデイサービスはお年寄りだけが行くところです。特別養護老人ホームはお年寄りだけが暮らすところです。グループホームも認知症のお年寄りだけが暮らすところなんですよ。そこで若い職員さんがお世話するという社会的なイメージです。それは、私たちの暮らしからとてもかけ離れたものだと感じます。
    障害者の施設も例外ではないと思います。どうしても、都合良く効率を考えると、同じような人たちの塊をつくってきたのではないかと思うんですね。それが3・11で地域の方々と寝食を共にしたことで、もっと地域を変えようと思ったんですね。その形が「居場所カフェ」と言いまして、お年寄りが働く場なんです。
    お年寄りにちょっと認知症の症状が出たり、ちょっと体が弱くなると、すぐ「デイサービスに通いましょ」、「ショートステイしましょう」、「どっかに行きましょう」みたくなりますけれども、まだまだ十分力がある。それを若い人たちが支えるんです。これはカフェですので、コーヒーやケーキがメインなので、子どもたちも若い人たちも寄ってくる。でも提供されるのは現代的なものだけではなくて、お年寄りがいれるおいしいお茶とか、漬物とか。70、80、90代のおばあちゃんたちの漬け物は私たちが漬けるものよりおいしいんですよね。それから田舎ならではの本当においしいおやつがあるわけですね。カマもちとか、かんづきとか、羊羹とか。そういうのを地域の腕自慢のおばあちゃんたちが作って、ここで提供して売る。ただ売るだけではなく、コーヒー300円、ケーキ200円の10%は次の被災地に送るとか、そういうシステムづくりをしながら、みんなの力を信じて、みんなで運営しようという動きに今なっています。

    町永

    とりあえずは仮設住宅の中につくろうということですか? 

    内出

    仮設は限定なので、仮設から高台に移るときに違和感のないように仮設と高台の中間。どちらからも関われるような位置を考えています。

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    コミュニティーオーガナイズ

    町永

    内出さんはとてもやわらかな語り口でお話くださっていますが、言っていることはとても大きな問題。とかく私どもメディアの人間もそうですが、高齢者の問題は高齢者、子どもの問題は子どもの問題と分けて考えがちです。しかし社会はそういうものではないですよね。私たちは機能で高齢者、認知症、子ども、あるいは貧困というふうに分けてしまうのですが、みんな通底するような課題が横たわっているじゃないかなと改めて知らされましたが、湯浅さん、いかがですか?

    湯浅

    すばらしいですね。私もずっとこういうことを考えてきたんです。内出さんのお話は、震災はいろんなものを奪ったけれども、震災と津波が出会わせてくれたものもあった。それは施設の人と地域の人。いわば「強いられた出会い」。でも一緒にいざるを得ない5日間にいろいろ新しい関係が結ばれて、それが今回、居場所カフェまで発展していったというお話だったと思うんです。こういう人と人との結びつき方、あるいは関係の取り結び方をどれだけつくれるかっていうのがコミュニティーづくりだと思うんです。英語ではコミュニティー・オーガナイズと言ったりしますが、いわゆるコミュニティーづくりですね。

    すごく乱暴な言い方をすると、日本の地域コミュニティーって、「あるもの」か「要らないもの」かだったんじゃないかと。つまり、古い村、共同体ではずっとおじいちゃんのおじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの代から住んでる人たちにとって、おぎゃーと生まれたそのときから、そこにコミュニティーは「あるもの」。他方、都市部の人たちにとっては、そういうものは「要らないもの」、しがらみで面倒くさいもの。そういうふうに日本社会って、「あるもの」か「要らないもの」のどちらかだった。つまり、何が無かったのかというと、新たに自分たちでつくるということがなかったんじゃないかと思うんですね。そう考えると、例えば、住み慣れたコミュニティーから離れて暮らしている仮設の中とか、あるいは都市部でもどこでも、いま必要とされているのは、人と人とを結びつけるコミュニティーづくりのいろいろなノウハウ、手法なんじゃないかと。日本は家族と会社、いわゆる「地縁・血縁・社縁」が日本のコミュニティーとしてあったのですが、会社のコミュニティー力もだいぶ落ちてきたし、家族のコミュニティー力もかなり落ちて、そういった家族も増えている。そういう中で私たちは別の結びつきを自分たちでどう作っていけるかというところに、いよいよ来ている。内出さんたちの実践とかは、これまでの地域コミュニティーに変わるものとして、とても参考になるんだと思うんですよね。

    人と人とはこうやって結びつくことができる、こういうふうにすれば、支え手と、支えられ手が入り交じって、誰が支えて誰が支えられているのかよくわからなくなる関係がつくれる。そういうことは、今回は、震災と津波が、いわば外からきたきっかけだったけど、私たちはそれがなくても施設を地域に開いていったり、人と人との結びつきをつくっていったりをやっていかなくてはいけないですよね。それはどうやったらできるのか。私たちはそれをやるときの、どれぐらい手持ちのツールがあるのか、ノウハウがあるのかを検証していく。そしてつくっていく。またいろんな地域や外国から学んでいくことが、震災という話に限らず、これから日本は社会をまわしていくうえで、極めて重要なことじゃないかと思っています。

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    現在の支援活動は地域づくり

    町永

    そうですね。まさに反貧困ネットワークの原点といったお話を伺った気がします。私たちがいま手にしているのは、「絆」というふわふわしたおぼつかない美しい言葉だけですが、本当に地に足がついた実態を持った取り組みができるかどうか。それがツールになっているかどうかであります。湯浅さんは、震災は何もかも奪ったけれども、奪うだけではなく何かを出会わせたと。そんなところをこれから見ていきたいと思いますが、井上さん、「たすけっと」では石巻で若い障害のある人が動き始めたということですね?

    井上

    そうなんです。私たちは去年から障害のある仲間たちの自立生活支援をやってきたのですが、仙台市から草の根が広がっていくのはなかなか大変で、また地元の人でなければわからないニーズもあるので、各地に拠点をつくりました。それで石巻にも支部ができまして、障害のある当事者の人たちが活動し始めたという動きがあります。その中でやっぱり一番大切だなと思うのは、地元の人たち、その地域に住んでいるからこそのニーズ、あるいは困っていることがたくさんあるはずなんですね。それは外から見ててもわからないし、外から、「これが必要なんじゃないか、もっとこうした方がいいんじゃないか」といくら言ってもなかなか変わっていかない。やっぱり内側からのパワーがとても大事だなと思いました。

    町永

    菊池さん、もともと石巻は、町には障害者があまり姿を見せない地域だったのですか?

    菊池

    そうですね。もともとバリアフリーも進んでいなかったし、社会資源が足りなくて、家に閉じこもりきりになるか、施設に通ってその中で生活をしているかが中心だったものですから。
    うちの代表は重度で言語障害もあって言葉を聞きとってもらうのも大変なのですが、石巻の当事者は、重度の人が自分たちを支援してくれたとショックを受けて、じゃあ自分たちも支援ができるんじゃないかと感じてくれたんです。また関西とか東京から来た大勢のボランティア、特に社会福祉に関わった人たちに出会って、いろんなサービスを受けていいんだ、権利なんだということをすごい感じたらしくて、自分たちの町にないのは、なぜなんだろうと。ないなら自分たちがつくっていく一歩になってみようではないかと考えてくれて、いま拠点をかまえて活動を始めています。

    町永

    石巻での障害者の活動ぶりはNHKでも放送しました。たいへん若くて意欲があって、バリアフリーの視点から、まずは段差はどこだろうか地道に探り当てていく活動を始めました。ある意味で、障害のある人自身の意識も大きく変わっていったという感じがしたのですが、菊池さんはどう感じていますか?

    菊池

    コミュニティーという意味では、もともと閉鎖的な部分もあるんですね。特に障害者がいる家族は、周囲とはちょっと一線を引いてしまって、家族の中だけで囲い込んでしまって、あまり表に出さない、知らせないといったこともあったんです。でも自分たちから発信することによって、支援を受けられることもある、手助けしてもらえることもあるってわかった。これから町を復興させていく中で、自分たちがコミュニティーの一員として社会参加すれば、障害者の視点を取り入れた誰もが住みやすい町づくりができるんじゃないかと考えたわけですね。それで積極的にバリアのある町に出て、広報紙を作っているんです。それはいわゆる団体を紹介するような広報紙ではなく、障害者の視点で町を紹介していくものなんです。障害者の視点でいまどういう復興ができているか情報発信をしていこうと取り組んでいます。

    町永

    立木さん、先ほど当事者の声をちゃんと受け入れるチャンネルや会議などが、もっと設定されるべきだとおっしゃいましたが、当事者自身の声を発信していく取り組みをどう思われますか?

    立木

    ものすごく大切ですね。それと、先ほどの内出さんの話とも絡みますが、地域の人が小規模多機能施設に集まって、一緒になって数日暮らした。みんながつながっていることで生き残ることがたやすくなった。1人1人がバラバラに暮らすのではなく、みんながつながることが生き残りに直結していた。そこから、つながりって大事だという意識が出発したように思うんですけれども、これだと思うんですね。湯浅さんの言葉の中にも、コミュニティーをどうやってつくっていくのかというとき、災害自体がコミュニティーをつくったという側面があって、これはどんな災害でも起こることなんです。いま、そういう風がまだ吹いている。でも窓はずっと開いているわけではない。こういう追い風のときに、もっと意識的にみんながつながっていくことが、これからの復興、1人1人の生活の再建を進める上で、ものすごく大切なことになっていく。
    菊池さんや井上さんの話の中で、この人と出会えたことによってその人の見方が変わり、自分には被災した体験がこんな意味があったのか、1人で地域の中で障害があっても生きていってみようと思えるようになったということがありました。そういった自分の被災体験に対して、これには何か将来に向けて肯定的な面もあるんだというふうに思えるかどうかが、1人1人の被災者が、もはや自分は被災者ではないと思えるようになるために、ものすごく大きなステップになると思うんですね。この人と出会えてよかった、この人を通じて私は一歩踏み出せる、そういう機微が働く。こういったことは実は、災害のたびに私たちは、車輪の再発名のようにやっているわけです。中越のときも、中越沖のときも、阪神・淡路大震災のときも同じです。人と人とのつながりは直後だけではなくって、10年、あるいはそれ以上の期間にわたって人々の生活の再建を進めていく上での、一番大きな資産になる。そしてそれを高めていくには、数多くの知恵や技術や経験を、実は日本の社会には蓄積されているんですが、それをちゃんと大切に評価して、使えるものは使っていきたいと思います。

    町永

    つながりっていうのは与えられるものではなく、私たちが汗や涙をかいくぐりながらつくり上げていく、結びつけていくものだと思います。ただ、こういう話を聞いていると、なるほどそうなのだと思う反面、青田さんの報告にもありましたように、南相馬では目の前でつながりがどんどん切れていく、薄れていく。どう結び直していいかわからない現実に向き合っているわけで、青田さん、これからっていうのはどんなふうにお考えになっていますか?

    青田

    マスコミも含めて遠くから応援に来てくれた人は被災地に入ってくると、「頑張ってますね」と言って、こちらのほうも何となく「頑張ってます」と言わなければいけないみたいな空気があるんですね。最初はそうやっていたんですけれども、本当にわかってもらうためには、いまのことをちゃんと言っておかないといけないんだろうなと思い始めたんです。一番大きく思うのは、やっぱり原発で水素爆発して、そこに住めない場所ができてしまったことです。そこはとても危ないところで、恐らく何百年と人が全然入ってこられないところが出てくるんだろうと。そうすると、その近くはやはり危ないところなんですよ。放射能が高い低いじゃなくて、事故があったところ、人が入れないところのそばは危ないところ。そこには南相馬市も入ってくるんですね。でも、そこには人がずっと住み続けるだろうなって思います。
    福島から避難している人たちは全国にいます。その避難している人たちは戻ってきたいんです。自分の地元に戻ってきたいんです。中に残っている人たちは、本当は避難したいんです。中に残っている人たちの方が放射能についてものすごい詳しいです。それでも中にいなければいけない。いろんな事情があって中にいるんですね。すべての生活、生き方が、残念ながら放射能のスクリーニングを頭の上にかけられて、それを全部通しながら判断しなければならないっていう生活に変わってきました。ご飯食べるとき、「この野菜はどこの産地なのかな」、「何ベクレルあるのかな」、「それを子どもに食べさせて大丈夫なのかな」、「水は、国では大丈夫と言ってるけど、水源は放射能の一番高いところなので、本当にこの水飲んでもいいのかな」と。「食」だけでもそうです。 家だって、本当にここの地域に住んでいいのかどうか、将来大丈夫なのか。子どもさんを育てる人たちは自分の子どもがこの地域にいて、将来どっか遠くで結婚するときに、本当に子どもたちに、さらに次の世代に影響がないのかどうか。結婚するときに、例えば、お嫁さんにいくとすれば、相手の旦那さんの親御さんに、そんなところの人と結婚して大丈夫なのって言われないかなって思いながらずっと育てるわけですよ。南相馬市の小学校6年生、中学校3年生、高校3年生、この人たちの多くが卒業のときに、学校の籍を移動しました。将来、南相馬市の卒業という履歴が残らないようにと。それは子どもを思う親の気持ち。すべての生活がもう放射能の網から抜けられなくなったんですね。でも、そうやって暮らしていかなきゃいけない地域なんだということなんです。自分たちがこの地域で暮らすということは、過去、現在、未来、それをすべて壊されたと思っています。そんな中でも、自分たちの未来をどういう未来にしていかなければいけないか、つくり上げなくてはいけないと思います。でも、まだそれを描くことはできません。でも、描いていかなきゃいけないんだろうなって、考えようと思って生活しています。

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    これからへの提言

    町永

    いろんな現実があります。一直線に私たちは解決に向かうわけにはいかない。今日のフォーラムを聞いて、私たちはいかなる現実に向き合っているのか、その難しさ、困難を思い知らされたのではないでしょうか。1年3か月たってようやく、ここから取り組みを希望へつなげていくという道のりの前にたたずんでいるわけで、そのことも含めて、このフォーラムの中で何を感じたのか、何をこれから考えていこうとしているのか、お考えをそれぞれ伺っていきたいと思います。まず内出さんお願いします。

    内出

    時間の流れというのは、過去から現在、未来に流れていきますけれども、人間の希望とか波長とかは、逆に未来から現在、過去に流れていくと言われています。
    先ほど、南相馬市のお話を聞くと、まさに今を一生懸命みんなと生きることによって、過去を笑うことはできないけれども、肯定できたらいいなと思っています。
    それからもう1つ。原発もそうですけれども、文明はいろんな恵みを与えてくれましたが、ちょっとした幸せに気付くことを私たちから奪ってしまったと思うんですね。でも3・11でそれを私たちは知ることができたおかげで、いろんな面でとても謙虚になっています。ですので、この経験をずっとずっと活かしてつなげていかなきゃいけない。そのためには、何か形になるものを残しながら、ずっとずっと伝えていかなければと強く思っています。

    町永

    ありがとうございます。 井上さん、まだまだ大変な日々が続くし、自立生活の方も、まだまだこれから震災があろうとなかろうと続くと思いますが、これからの「たすけっと」の活動、あるいはご自身のこと、どんなふうに考えていますか?

    井上

    ほんとに毎日大変で忙しかったのですが、震災があったからこそ出会えた人たちがいたこと、また全国のつながりで助けていただいたことが、本当に良かったんですね。障害者団体をはじめとして、その関係団体の皆さんであったり、わざわざ車を出して物資を届けてくださった方が多くいました。ご近所の方々にもほんとにいろいろな支援をいただきました。そういう一度できたつながりを大切にしながら、これから防災とはいわずに減災に自分たちが取り組めることは何があるのかをみんなと一緒に考えて、そういう地域作りをしていけたらいいなと思っています。

    町永

    ありがとうございます。井上さんが事務局長をなさっている「たすけっと」の活動は多くの人の力になりました。障害のある人たちが、私たちに大きな支援を与えてくれたと思っています。菊池さんはどんなふうにとらえていますか。

    菊池

    実は私たちは自立生活センターという、障害者が地域の中で生活していくというメッセージを発していたつもりでしたが、今回の活動を通してまだまだ仙台のそれもごく一部でしか伝わっていなかったなと思い知らされました。
    宮城県内には、まだまだ多くの問題が各市町村ごとに残っていて、それが今回の津波によってあらわにされたというか、もともと潜在していた問題が出てきた。それに我々は出会ってしまった、まざまざと見せつけられてしまったんだなと。地域の社会資源の少なさ、例えばある市町村だと、1つの大きな社会福祉法人しかなくて、そこのサービスを得られない場合は、自宅にいるしかないとか。行政に「私たちも困ってるんです、助けてほしい」と声をあげても、「みんな困っているんだから、あなたたちの問題は個別性なので、みんなの問題が終わった後」というふうに後回しにされたりとかいろいろあります。
    そうではないんだということを伝えていくために、地元のニーズに沿った形で、地元で働ける雇用の拠点なんかも生み出しています。そうやりながら、その地域の意識改革であったり、障害者は自分の生きやすいように生きていいんだっていう、そういう権利があるんだっていうことを、どんどん伝えていく運動を広げていきたいなと思います。

    町永

    青田さんはいかがでしょうか?

    青田

    調査したときに、一番大きな声、多くの人の声は「ようやっと人につながった」と言ってくれたことでした。「誰も来てくれなかったけど、ようやっと人に入ってきてもらった。あなたたちとつながったら、私はここにいて大丈夫なんだね、何かあったときに、生きていけんだね」と言っていただきました。その声が一番大きかったです。そのときのホッとした笑顔。それから、事業所を再開したとき、うちの利用者さんやその家族が本当に安心してくれたあの笑顔。今もそうです。私たちはあの笑顔を見られたから、まだつながっていけるんだなと思います。これからもきっとあの笑顔のために、もうちょっと頑張れるんだなと思っています。

    町永

    ありがとうございました。現地報告も含めて、話し合いを進めてまいりました。立木さんはここまでの話し合い、どんなふうに受け止められましたでしょうか?

    立木

    いま置かれている福島の状況は本当に重いなと。青田さんの最後の言葉を聞いていて、私の中に響いたのは、私自身も阪神・淡路大震災の被災者なんですけども、被災して振り返ってみて、私も自分自身を青田さんの身に置いたときに思うのは、それでも人生にイエスと言おうと。いろいろなことを失い、なんでこんなことが自分に起こったのか思います。そういったときにすごく大切なことは、私が自分の人生に何を求めるかではなくて、私の人生は、私に一体いま何を求めているのか。人生がいま、自分に求めていることに正直に向き合って、誠実に1つ1つ対応していくこと。それがたぶん、大切なんだろうなと。最後の青田さんの言葉を聞きながら、希望というのはたぶんそんなところから生まれるのかなと思いました。

    町永

    ありがとうございました。湯浅さん、お願いします。

    湯浅

    今日は社会の脆弱性、社会のもろさというところから話が始まり、「こんな大変なときに、ぜいたく言うな、ワガママ言うな」と言う人がたくさんいるという話もしました。それと、「いや、人が暮らすというのは、そういうことじゃないんだ」と言う人。やっぱりこの綱引きだと思うんです、世の中は。それはずっと変わらない。たぶん、先ほどの福島の話でも、差別する人とされる人、そういう綱引きっていうのもずっと続くだろうと。だから私たちができることは、仲間を増やしていくことしかないんだろうと思います。「そういうことじゃないでしょう」と言える、「社会のもろさを克服していこう」と言える仲間を増やしていくことしかないんだろうと思って、今までやってきました。そのときに、もっとたくさんつながる方法、つながり方、私自身それがほしいですね。そういうことが社会の中に、もっと多くの人に当たり前のように共有されていけば、私はもっと今の社会のもろさ、あるいは社会の貧しさは克服できるはずだと思っています。何年かかるか、何十年かかるかはわかりませんが。
    いろんな形で日々の暮らしの中にそういうことを気付かせてくれることはたくさんあるんですが、今回の震災とか津波、原発事故もまた非常に大きな形でそのことを私たちに気付かせてくれた大きな事件だったのではないかと思っています。

    町永

    ありがとうございました。災害のたびにライフラインの復旧が言われますね。すぐにこれは復旧しなくてはいけない、水道、ガス、電気が復旧しないと命に関わると。でも本当の意味のライフラインとは一体なにか? ライフというのは何か、命です。命が大切だと。次に暮らしです。暮らしが根こそこぎにされました。もう1つ、地域に生きる人生です。つまり、今回の複合の大震災はライフラインを根こそぎにしたのです。今なおライフラインは復旧されていないのです。私たちはようやく1年3か月たって、それぞれが自分らしい暮らしのライフラインをどう復旧したらよいのか、その知恵を被災地の人から教えてもらったという感じがします。
    では、どうしたらいいのか。答えはありません。私たちは答えの出ない問題の前に立っています。私たちはこれまでもいつも一番最短距離の答えを求めてきました。私どもメディアでは、どんな大問題も30分で答えが出てしまうんです。しかし、そんなことはあり得ないんです。私たちは答えにいたるプロセスを、みんなと一緒にようやく歩み出したところだろうと思います。皆さんが同じことを言っていました。それぞれがつながっていく、あるいは希望を生み出していく。その答えに向かって、それぞれの答えに向かって今日ここで現地の人々とともに、一緒に第一歩を生み出す。そんな日にしたいと思います。

    第1部『高齢者施設の津波体験 生死を分けたもの〜岩手県・赤崎町デイサービスセンター〜』の抄録

    第1部『障害当事者による当事者支援 〜宮城県・CILたすけっと〜』の抄録

    第2部『原発事故で取り残された障害者・高齢者 〜福島県・デイさぽーと ぴーなっつ〜』の抄録

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    講師プロフィール

    写真:内出さん

    内出 幸美(うちで ゆきみ) 社会福祉法人 典人会 理事・総所長

    岩手県大船渡市生まれ。1994年に認知症専門デイサービスを立ち上げ、その後、グループホームや特別養護老人ホームなどを運営。東日本大震災時は津波によりデイサービス施設が全壊したが、迅速な非難により犠牲者はなかった。災害時の緊急介護派遣チームの創設に向けて活動をしている。

    写真:井上さん

    井上 朝子(いのうえ ともこ) 自立生活センターCILたすけっと事務局長

    1985年岩手県二戸市生まれ。出生時のトラブルで脳性まひの障害を持つ。2003年、養護学校卒業後、仙台市で「自立生活」を始める。「CILたすけっと」の当事者スタッフとして活動。東日本大震災直後から、障害者一人ひとりに救援物資を届けるなどの支援を展開している。 。

    写真:青田さん

    青田 由幸(あおた よしゆき) NPO法人さぽーとセンターぴあ代表理事

    1954年福島県南相馬市生まれ。2008年「NPO法人さぽーとセンターぴあ」を立ち上げ、「断らない」を合言葉に障害者の生活介護、就労支援事業に取り組む。東日本大震災では原発事故後に避難出来なかった障害者の支援や調査を行った。 。

    写真:立木さん

    立木 茂雄(たつき しげお) 同志社大学社会学部教授

    1955年兵庫県生まれ。専門は福祉防災学。阪神・淡路大震災後の被災者復興支援会議メンバーとして生活復興に向けた施策の提言活動を行う。東日本大震災後には、災害時要援護者への対応策を提言。著書に『市民による防災まちづくり』(共著)、他。 。

    写真:湯浅さん

    湯浅 誠(ゆあさ まこと) 反貧困ネットワーク事務局長、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局次長

    1969年東京都生まれ。95年よりホームレス支援、2008年「年越し派遣村」村長など、貧困問題に取り組む。著書『反貧困—「すべり台社会」からの脱出』で大佛次郎論壇賞を受賞。東日本大震災では、内閣官房震災ボランティア連携室室長として被災地支援にあたった。

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    フォーラム主催、後援

    主催

    NHK、NHK厚生文化事業団

    後援

    厚生労働省、東京都、日本障害フォーラム(JDF)、NPO法人地域精神保健福祉機構(コンボ)

    終わり

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