NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『特養が終の住処になる』

〜受賞のその後〜

浜野 博 はまの ひろしさん

1941年生まれ、施設入所、岡山県在住
事故による頸椎損傷
53歳の時に第29回(1994年)優秀受賞

浜野 博さんのその後のあゆみ

『特養が終の住処になる』

自立を模索した日々

障害福祉賞 贈呈式での浜野さんの写真

1959(昭和34)年秋、高校3年の体育祭でムカデ競走に出場して倒れ、チームの先頭に居た私は首の骨を折って胸から下と両手の指が麻痺した。命は辛うじて助かったものの、生涯自力では歩けない体になった。
 2年間の入院の後、瀬戸内沿いの町で魚屋を営む7人家族の小さな自宅へ戻ったが、家族の誰からも私は邪魔者扱いされることもなく受け容れられた。
 私は町内の知人から求められて、ベッドに寝たまま自室で中学生たちの塾を始めた。受験勉強でなく、各科目の基本を身に付けることを親や本人に伝え、週に一度は作文を書かせた。半年に一度ほど、生徒らの手で作ったガリ版刷りの文集を出し、家族や子どもたちの担任の先生らに配ったりもした。
 学習塾や、週末に開いた子ども文庫のほかに、町の青年や主婦らがそれぞれに始めた読書会の場所として自室の提供を求められ、私もそれらの集まりに参加することになった。
 私自身は両手首の腱を手術して字が書けるようになり、書き慣れてくると、次第に長い文章も書きたくなり、怪我をした日を中心に高校時代のことを書こうと思い立った。半年ほどで書き終えたとき、原稿用紙で200枚を超すものになっていた。友人の知り合いで、県内の文学サークルで書き続けている人に読んでもらうと、彼らのサークルへの入会を勧められた。
 私はこれに入会し、年に1号ほど発行する同人誌に短編小説が載るようになった。同人誌の合評会や例会にも、先輩会員の車に同乗させてもらうなどして、車イスで参加し始めた。その後、札幌を中心にした少人数の仲間とともに、毎年同人誌を発行している。

浜野さんと顔がそっくりなお父様との写真 家の中で家族揃っての写真

こうして実家で20年近くをすごしたが、母が70歳を過ぎ、疲労から寝込む日もあるようになり、私の介護も限界を超えたのを見て、私は岡山市内にできた重度障害者の療護施設へ入所した。その後両親は共に90歳を過ぎるまで生きてくれた。「寝たきりの息子はちょっと遠くで無事がいい」のだと、自虐でもなくそう思ってきた。

 第29回(1994年)で入賞したときは、「自立への手さぐり」という標題の通り、「車イスに乗った普通の市民になりたい」という願いから、入所中の障害者療護施設を出て町の中に住み、自立・自活する道を模索している最中だった。その手さぐりのなかで、市内にある古い二軒長屋の一軒をやっとの思いで借り、私は週末ごとに施設から通って、ここでも学習塾を開いた。ボランティアにも助けられながらこれを続ける中で、自立へこぎつけたいと願っていたが、腰の床ずれが悪化して、怪我以後何度目かの手術となった。半年後に癒えて再開した学習塾では、入院中に退会する子もなく、塾を続けることができた。
 けれど、何年も経たぬうちに、借家のある区域にマンションが建つことになり、立ち退きを迫られた。「こうやれば自立・自活を実現できる」という手立ても見つからないまま、すべてを白紙に戻して施設暮らしに戻ることを余儀なくされた。
 そこからの20年は、声にもならぬほど心身ともにきついことに見舞われながら過ぎてきた。

全国組織に参加

学校生活の中で起きた事故によって、私のように一生癒えない重度障害を負った者や、死亡事故に遭った被害者とその家族たちが、学校事故・災害の予防と補償を求めて「学校災害から子どもを守る全国連絡会(以下、全国連絡会)」を結成する動きがあると知ったとき、私は迷わずこれに参加した。岡山県下の被害者たちと、小さな集いを持ったりもした。
 全国連絡会が東京などで毎年開く総会に被害者当人が参加するのは困難だが、ボランティアの協力などを得て、少数の被害者仲間と各地へ出掛けて、多くのことを学んできた。両親も、商いの日を割いて参加したこともある。一度だけ、岡山でも総会とシンポジウムを開き、大勢の参加者とともに議論を交わした。
 岡山での熱心な協力者の一人が全国連絡会の代表を数年間務めた後、事故の被害者当人として私も数年間代表を務め、岩手や浜松、神戸での総会にも参加した。以前は事故自体がなかったことにされたり、僅かな見舞金で済まされたりしてきたが、全国連絡会などの運動の成果もあって、補償金が出るようにもなった。しかし、発足以前の被害者である私などはゼロのままだった。
 全国連絡会ができて30年余りが過ぎ、事務局の中心にあって働いてきた人の多くが故人となったり高齢になってきた。訴訟になることの多い会は、弁護士が中心となった新たな別組織として再発足した。私自身も10年ほど前からほぼ切れ目なく病気が襲ってきて、東京などへの旅はもう10年以上できずにいる。全国連絡会当時の仲間や事務局などでお世話になった人、ボランティアなどと再会して歓談したいという思いは強いのだが。

書くことを生きがいにして

執筆活動中の浜野さんの写真

私は幼い頃から、外で遊べばいつも泣かされて帰る弱虫だったが、いじめを苦にして家に引き籠もることなどなく、懲りずに皆と遊んでいた。ただ、雨の日など家を出ないでいるときには、本や新聞など何か文字のあるものをいつも読みふけっていた。父は、小学生の私がしかつめらしい顔で畳に新聞を拡げて読んでいるのを見ると、ひねたガキだと思うらしく、いつも苦々しい顔をしていた。
 そんな長男の私が寝返りも打てない体になって帰ってきて、終日ゆううつな顔で沈み込んで居たら、家の中全体を暗いものにしてしまうのではと、父は懸念していたようだった。塾や読書会などで人の出入りが絶えない様子を見て、いくらかは安堵したようだったが。
 字が書けなかった間は、付き添ってくれた妹に頭の中でまとめた俳句や短歌を書き取ってもらっていたが、うまく説明できずにいらだって妹に手を上げたこともたびたびあった。だから、両手首の腱の手術で再び字が書けるようになった喜びは、言い尽くせないほどのものだった。このときから手紙や日記を書き始め、その後長文も書けるようになると、少しずつまとまった文章に想いを記すようになった。
 施設に入ってからも書き続け、小説やエッセイ、自分史をそれぞれ数冊出版した。最近は、書き溜めてきた詩や短歌を初めて本にすることもできた。

浜野さんの著書「あの日死ななかったぼくは」の表紙

私の小説は、そのほとんどが自分と家族、友人たちを軸に、事実に即したものになっている。それしか書けないとは思いたくないが、私が通った高校での多くの体験と、卒業を間近にして起きた事故とその前後のことは、是非とも書いておきたいという気持が強い。一度長い作品を書いて全国紙のコンクールに応募したが、ここでも最優秀にはならず、その次の優秀作2編の中に入った。そのとき受けた先輩作家の批判も容れながら、全面的に書き直したいと思いつつ、20年以上過ぎた今もまだそれができずにいる。
 書けることの喜びは自分なりに日々味わっているが、今に至ってもプロのもの書きとして生き抜くだけの力量は見出せずにいる。そうではあっても、書かずにおれないことは抱えきれぬほどにあり、私に残された時間は存分にあるとは言い難い。

終の棲家での自立を考える

今いる施設は、当初すべて8人室でベッドに仕切りのカーテンもなく、廊下へのガラス戸も素通しだった。数人で語り合って自治会を結成し、仕切りのカーテン張りから、裏庭に遊歩道を作るなど、利用者から出されてくる要望を出来る限り実現させていった。
 施設では、年とともに重度・高齢の者が増える一方で、介護などの職員数は減りつつあり、利用者の楽しみである毎年の行事やクラブの数も目に見えて減ってきている。自治会での主要な仲間は徐々に世を去り、残っている私もC型肝炎や肺炎、脚の骨折、骨盤の一部まで削る炎症に至った床ずれなど、体のどこかを病んでいる状態が何年も続いている。そして、日々の読み書きも、友人・知人に頼りを書くことも、目に見えて減っている。

句が刻まれた石碑と車イスの浜野さんの写真

そんな中、私は30数年暮らしてきたこの施設を、遠からず去らねばならぬことになった。私はすでに古稀を過ぎており、高齢者のための特別養護老人ホームへ移らねばならなくなったのだ。ここと決めた特養は、新しく移転する土地に現在建築中で、入所できるのは早くても1年ほど先になるらしい。
 町に住んで自活するという願望は実現が困難になったが、特養ではすべて個室であり、同室者への気遣いに疲れるということはなくなりそうだ。
 特養に移ればパラダイスが待ち受けているなどとは思わない。特養には特養に固有の問題もあるだろうが、それを承知の上で新しい暮らしに身を置くつもりでいる。おかれた場所で自分がどう生きたいのか、利用者も職員も、そこで共同して暮らす人たちがどうすれば人間らしく生きてゆけるのか。
 施設を出て町に住み、自立を実現するのが不可能ならば、これまでの施設とは異なるかたちで、高齢者ばかりの施設において人としての尊厳を最低限保持しながら、新たな視点での自立を果たすにはどうすべきか。私は日々それを考えている。

福祉賞50年委員からのメッセージ

頚髄損傷で町の中で独り暮らしをすることの難しさは、よく理解できます。
それはご本人の体の状態を保つことや介助者の確保や、家を借りる際の理解の低さ、経済的な裏付け。今でも困難ではありますが、比べものにはならない時代でした。週末のみの自立から、あともう少しで完全自立に行くか、というところでの撤退でした。それを今度は特養で、新たな改革を模索しておられる。
ご本人にとっては、忸怩たる思いもお有りかと思いますが、決して無駄ではなかったと確信しています。あなたのような先輩の行動が次の障害者の自立を楽にしています。

鈴木 ひとみ(ユニバーサルデザイン啓発講師)

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