NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『あなたに、ありがとう』

〜受賞のその後〜

伊藤 佳子 いとう よしこさん

1940年生まれ、無職、埼玉県在住
肢体不自由
71歳の時に第46回(2011年)矢野賞受賞

伊藤 佳子さんのその後のあゆみ

『あなたに、ありがとう』

受賞を知らせたかった人

伊藤さんの亡くなったお母様とご家族の写真
元気だったころの伊藤さんのお母さん(中央)

第46回「矢野賞」をありがたくもいただいてまだ浅い月日だが、賞により私の人生は何十倍にも濃いものとなり、生きる勇気が湧き、望外の喜びとなった。それまでは分かりながらも、心の片隅に障害者の3文字が消えず、心に体が、体に心がついていけなかった。
 受賞式の当日、受賞のみなさんやご家族との出会いに、今までのしこりが嘘のように心の中から払拭された。今、読み返してみると文章も拙く、長い引きこもりから社会に踏み出したものの、その社会を例えればそれは小さな池だった。その上に張る薄氷の上を恐る恐る歩き始めた私。入選の電話をいただいた日は、95歳で逝った母の七七日忌だった。長い入院生活の一人娘を案じ、車いす姿になった娘と代わってやりたいと泣いた母。恩返しどころか私には一日の介護もできなかった。たまゆらに母の面影が浮かぶたびに涙が滲む。長兄はこの受賞こそ何よりの供養と喜んでくれた。
 私にはこの受賞をどうしても知らせたい人がいた。リハビリセンターへの転院前、一番長く3年半も入院していた都立O病院で私の担当医だった方だ。先生は、私を「一番忘れ得ない患者だからいつでも良いからその後を報告して欲しい」、「出身大学医学部の事務局でその後の勤務先を聞くように」と仰っていた。その後気になりながらも十分な社会復帰も果たせないうち、夫の突然の事故死に3人の我が子の幸せだけを願い、ただただ、夢中で突っ走って生きてきた。先生は夫の死に驚くだろうなと思いながら、K大学医学部の事務局に問い合わせると、個人情報の壁もなく調べてくれた。結果に我が耳を疑い、2度も聞き返した。すでに物故者となられていた。それも、夫は平成3年に逝ったのだが、そのわずか3年後ではないか。先生は私より3つ年下、50歳そこそこで逝ってしまわれた。幼いお嬢ちゃんが2人いた。私の病の原因を模索し続け、幾度もの大きな手術のたびに心を痛めてくださり、「よくなったら食事に誘うからね」と約束したのに。驚いたのは私のほうだった。夫の死に続き、命の儚さを改めて思い知った。夫の仏前に一本余計に香を焚き、花も新しく供え、ご冥福を祈った。その一日、私は何も手に付かず、ぼんやりと夕暮れるのも忘れるほどだった……。

前にすすむために行動的になった私

私は以前より福祉に関心を持ち、積極的に社会に働きかけるようになった。少しずつ行動範囲を広げ、前に進むために、そうならざるを得なかった。銀行に行った時に少しの段差につまずき、車いすごと私は仰向けに倒れた。こんなことは一度もなかったことだが、たった一障害者のためにこの銀行の前はスロープになった。近くの公園を抜ければ危うい大通りを通らなくてもすむのに、公園には車止めが敷かれている。ここもスロープとなった。利用している郵便局の入り口も、たかだか私のためにスロープとなった。一番の難所は、月一度早朝に利用する池袋の駅だ。雑踏の朝、急ぐ人々に車いすの私なんか眼中にない。車いすが通れる改札口は一番隅に一つしかない。人が引くまでに10分くらい足止めだ。鉄道会社のお客様相談室に電話をした。真ん中にも車いすが通れる改札口が必要だ、と。しばらくすると工事が始まり、なんと要望がかなっていた。私と同じ要望が他の人にもあり、この企画とが重なったのかもしれないが、ありがたいことである。障害を持てば障害物に自ら突き当たるしかない。改善されることは障害者のためには当たり前と決して思わず、感謝の念を持つことが大切だ。
 今は、付き添う人とともに公共機関を利用できるまでになったが、電車に乗ったのは2年前で28年ぶりだった。大学時代の仲良し5人組が揃って会えない月日は幾十年も流れた。久しぶりに一友人宅に全員が揃った。友の一人はがんの術後だったが、とても元気で安心した。皆、一気に学生気分に戻り、再会を約束し本当に楽しい一日はあっという間に過ぎた。娘が付き添ってくれたが、電車の昇降の時の駅員さんの親切さ、気遣い、エレベーターの設置等いつから障害者にこのような対応となったのだろうか。驚きの連続だ。

増える出会い 広がる支えの輪

観光バスの前で伊藤さんを囲んだ記念撮影 俳句の全国大会での記念撮影
俳句の全国大会会場へ 師や仲間とともに

広がる輪に支えられ、ヘルパーさんの手を借り一人で暮らす。友は私を健常者以上の健常者と言う。できないことは多々あるが、皆と肩を同じに並べられるまでとなったことを夢かとも思うが、長い長い道程だった。私の今があるのは決して一人で勝ち取ったことではない。この地に移り住んでから最初に出会った「紘子さん」。紘子さんが傍にいなかったら私はとうにくじけ、心の中はひとりぼっちのままだった。相変わらずさりげなく陰になり、日なたになり私を見守り続けてくれる。彼女の優しい手は受賞した作品で紹介した「共子さん」にタッチされた。彼女は私財を投じて気軽に集まれる憩いの場と会を作り上げた。名称「みんなボランティア・ほっと〜ほっと」。通称「ほっと」。私は肌に四季折々を感じながら、「ほっと」までの30分の道を車いすで行く。ボランティアさん手作りのおいしいお昼を共にし、私は、手芸、絵手紙、お習字にも手を広げている。ここでもたくさんの友と出会い、会話も増した。
 バス旅行にも何回も行った。長く病んだ私に、こんな幸せが待っているとは思わなかった。ある時、「ほっと」で、花の一鉢をもらっての帰り道、雨が落ちてきた。家までまだ間があり、車いすで急ぐ私に、見知らぬ中年の男性が声をかけてきた。恰幅良くアロハシャツを着たそれらしい風貌に私は身構えてしまったが、彼は思わぬ言葉を口にした。「自分は何一つ親孝行をしたことがないから、せめて奥さんの車いすを押させてくれないか」と。もう車いすは押されていた。その後、いつだったか私の前に一台の車が停まり、窓が開き「また困ったことがあったら言ってね!!」と。あの時の男性だった。私が手を振り礼を述べる間もなく走り去った。この辺りは振り込め詐欺が多いので、せっかくの好意を疑ってしまった自分をいやしいと思った。
 それから、短歌は私のライフワーク。もうどのくらい詠んだことだろうか。でも障害を詠んだのはたったの二首。一首が所沢市短歌大会で幾人もいない入選者の中で、議長賞となりうれしかった。コーラスにも通っている。混声合唱で、この齢にしてソプラノ。とても楽しい。

医療と縁は切れないけれど

車イスで正面から撮影した伊藤さんの写真

でも私は毎日を元気に暮らしている訳ではない。ずっと医療から手が切れたことはないが、更に体調を崩した。ここで、車いすの者が一般病院を選ぶ難しさを知る。検査等に非常に手がかかると思われ、明らかに他の患者と扱いが違うのには、先生たる者の心を寂しく思った。胆石、白内障が悪化したが、結局は国立病院で問題なく引き受け入れられ、手術は無事に終わった。しかし、その後も体調はすぐれず、紘子さんは見兼ねて彼女の友を経て、池袋の消化器内科クリニックの佐藤先生を紹介してくれた。先生は病める多くの人たちに必要とされているので、とにかく混む。池袋駅に一つ余計に改札口が必要なのは受診のためだった。病名は慢性膵炎。スタッフの誰もが優しく、先生は他の人と同じ目線で私を診る。無報酬のボランティアの会「ラポート」の会長さんが、毎回私に付き添ってくださる。会を紹介してくれたのは孝子さん。近くのかかりつけ医のクリニックの吉川先生も、佐藤先生とともに私を支え診てくださる。
 広がる輪に、人とはかくあるべきか、絆とは何かを考えさせられる。それは私の心の糧となり、宝となっている。私も少しでも感謝の気持ちを返すべきと、知的障害者施設の手芸作品作りのお手伝いをしている。

 私は小さな花だけど、人の心に忘れられないようないつもいきいきとした私でありたい。私に声をかけ、手を差しのべ、愛をくださっている一人ひとりの「あなたに、ありがとう」。

福祉賞50年委員からのメッセージ

2011年の矢野賞受賞で、人生に弾みをつけ、更に積極的に生活を楽しんでいるご様子。ご主人や恩師、お母様、そして関わりのあるすべての方に感謝する現在に至るまでには、長く暗いトンネルがありましたね。それ故に、今の貴方が一層眩しく見えます。授賞式の日、穏やかな笑みをずっとたたえていらした表情が印象的でした。十分に障害を受け入れ、生活に張りを感じるお顔でした。

鈴木 ひとみ(ユニバーサルデザイン啓発講師)

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