NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『立ち上がれ 雑草のごとく再び』

〜受賞のその後〜

栗木 宏美 くりき ひろみさん

1958年生まれ、主婦、愛知県在住
脳性まひ
33歳の時に第27回(1992年)優秀受賞

栗木 宏美さんのその後のあゆみ

『立ち上がれ 雑草のごとく再び』

障害者としてではなく人として

「立ち上がれ 我が身よ / 立ち上がれ 我が心よ」
そう自分自身を奮いおこしながら、今日もパソコンに向かっています。
 私は生まれつき脳性小児マヒにより軽い手足の障害・言語障害がありました(過去形で言わなければならないのが、大変つらいところなのですが)。周りから見れば障害者とか、不自由と言われがちでしたが、私にとって何一つ不自由なことはありませんでした。生まれたときからそのような体ですので、それが普通であって、障害と言う感覚はなかったのです。
 もちろん不自由なことにならないよう、幼い頃から両親に厳しく育てられ、様々な工夫や努力を重ねてきたのも、まぎれもない事実です。そして一人の人間として必死に生きてきたつもりでした。

消えていく日々

私には子どもが2人います。幼い頃から絵を描いたり、物を作るのが好きだった長女は、グラフィックデザイナーとして、ピアノが得意だった二女は音大にいくと張り切っていたのに、いつの間にかガールズバンドを結成し、髪を振り乱して歌いだし、それぞれが好きな道へと、私の手から飛び立っていきました。
 私はあるきっかけで知った、筋ジストロフィーの病と闘う少年のアニメ映画を、友人たちと共に自主上映することになりました。それが社会貢献への始まりでした。自腹をきるつもりで行った映画会が思わぬ黒字に! 仲間たちは福祉施設に寄付をと言ったのですが、私は何か形に残したいと、そのお金を元手に「明日の風文芸賞 岡崎」という、障害があるなしに関わらず、同じ土俵で競える場を、作り上げました。やっとその文芸賞も認知されだしたころ、自宅での仕事中、転倒! 本当に打ち所が悪かった・・・顎を強打、首に衝撃が走り脊髄を損傷してしまったのです。6年前のことでした。
 両腕に何万ボルトもの電流が流れたような感覚を、今でも恐ろしいほど覚えています。私は救急車ですぐに市民病院へ運ばれ、一週間の入院を余儀なくさせられました。ステロイド治療を行い、痛みも和らぎ、ほんの少し腕の力がなくなっただけで、後遺症もそれほど感じることなく、退院することが出来ました。
 しかし地獄への入口はそこからだったのです。その後、しだいに両腕の力はなくなり、お箸さえ握れなくなりました。やがて両足の力もなくなり、歩くことはもとより、立つことも出来なくなり、一時は身動きの取れない状態にまで陥ったのです。
 私からひとつずつ消えていく日常の動き。今まで何気なくやっていた髪をかき上げる仕草、ペットボトルの蓋をあけ、ジュースを飲むこと、トイレに行きたいと思えば、すぐに飛んで行けたこと、全てが私から消えていきました。
 しだいに動かなくなっていく体、その不安や恐怖と向き合わなければならない上に、私の状況が理解できない周りとの闘いもありました。本当は一番温かく支えてもらいたい家族なのに、今まで何不自由なくできていたことが、みるみるうちに出来なくなるなど信じてもらえず、「何故そんなことも出来ないのか」と、私がまるで怠けているか、ふざけているかのように冷たい言葉をかけられ、二重に苦しめられました。それと同時に、一人の人間としてここまでの体を育て上げてくれた両親に、ただただ申し訳なく思いました。そしてただただ悲しかった。

健常の体ならば、本当に一週間の入院で、ほとんど後遺症もなく元気に過ごしていけるとのこと。でも脳性小児マヒという、やっかいな障害、必要以上に過度の緊張が入ったり、自分の意志とは無関係に不随運動がおこる、このことがよけいに脊髄を圧迫しているのではないかと。やがて寝たきりになり、呼吸器を圧迫し、おしっこの感覚もなくなっていく・・・と。
 私はこうして死を待つだけなのか。腕の痛みや痺れもひどくなる一方なのに、処方される薬は痛み止めや痺れ止め、そして湿布薬。もちろん頸の手術を行えば、救われる可能性は大きいのですが、ただでさえ頸の手術はとても大変で、危険を伴います。脳性マヒの障害を持つ私には難しいとのことでした。執刀医も病院も見つからない中、私は僅かに残った指の力で、パソコンのキーを叩き、日本で唯一といわれる、脳性小児マヒや脳卒中などによる後遺症の、専門病院を探し出しました。

あきらめたくない

手術後の栗林さんの写真

そこは東京都と言っても、裏山からタヌキが出てくるほど田舎、小さな整形外科病院でした。私は二度に及ぶ大手術を受けました。頸の手術の後はしばらく動いてはいけません。ひたすら天井だけを見つめる日々が続きました。もちろん食事もおトイレも全て、他人の手を借りなければならない、それがどういうことなのか、身をもって知らされました。『大きな望みを持って挑んだ手術だけれど、動けるようになるのか、このまま寝たきりになってしまわないだろうか』と、天井が体にのめり込んでくるような思いでした。


車イスが来た日

車イスが来た日
これで何処へでも連れて行ってあげられる
夫ははしゃいだ

車イスをトランクに乗せ 大型ショッピングセンター
観光地へと 車を走らせた

ここは団子が美味いんだ
しゃべり嫌いの夫が 車イスの後ろから妙に話しかけてくる
それが余計に腹立たしい

車イスに座る私の目からこぼれている涙が 
夫には見えない
もう肩を並べて歩けないんだなあ 
夫のつぶやきが 私には聞こえない

あきらめたくない
この当時の栗木さんの気持ちをあらわした詩

やがてベットが15度、30度と上げられ、広がっていく視界と共に私の心も開かれていきました。車イスに乗れるようになり、そしてヨッタヨッタと歩けるまでになりました。奇跡に近いとも言われました。溢れ出る喜びと裏腹に、そこはかとない悲しみに襲われたのです。もうお気に入りの赤いパンプスを履いて、名古屋の地下街を歩き回れない、あの頃のように、ピアノでショパンを弾くことも出来ないと・・・。

心配事は増えるばかり・・・それでも

栗林さんと家族の写真

それからは毎日がリハビリでした。相変わらず痛みや痺れは続いていましたが、再び社会貢献へと身を投じました。7回続いた「明日の風文芸賞 岡崎」を苦渋の思いで一端中断し、私の中での本当の到達点、「医療的ケアの充実した障害者施設を作りたい」「養護学校を卒業した子どもたちに、なんとか生きがいを見いだせる場所を作りたい」と、夫や仲間たちとNPOを立ち上げました。しかし、私の口ばかりの、夢の大きさに付き合いきれず、離れていった人たち。私が倒れたことで、もう終わりだと、去っていった多くの人たち。でも、私がどんな状況下にあっても、支え続けてくれた方々がいました。一度抱いた夢を、途中で諦めるわけにはいきません。大きな悔しさを背負いながらも、それが私の引き金となって、前を向いて歩き出すことが出来ました。
 しかし、穏やかな日は長くは続きませんでした。大手術から四年目、また、足がだんだんと動かなくなり、手の力が次第になくなっていくのを感じました。
 『どうして? こんなにも苦しんでいるのに、まだ私を苦しめようとするのか! 神も仏もあるものか』それでも救われる道があるのなら、生き残れる手段があるのならと、再び東京で一度、九州で二度にわたる頸の大手術に挑みました。良くなったかと聞かれるとつらいものがあります。確かに数字の上では良くなってはいるものの、痛みや痺れは右肩上がり、動かない範囲も広がっています。それでも今の状態をいかに長く維持していくか、そんなリハビリが続いています。

詩集「立ち上がれ」を手に持つ栗林さん

心配事は自分の体だけではありません。私が倒れてから、父は少しずつ認知症の症状が出だし、今は私が娘であることもわかりません。気丈だった母も年老いて、体もあちこち弱ってきています。しかし、知的障害を持つ妹も母にまかせきりで、私は何をやっているのだろうと、時折情けなくなり、後悔の念に陥ります。それでも私が明るく前向きに生きることこそ親孝行かと、この身と闘っています。
 「立ち上がれ 我が身よ/立ち上がれ 我が心よ」
 私が昨年出版した第三詩集『立ち上がれ』の一節です。その力を秘めながら今日も・・・。

福祉賞50年委員からのメッセージ

ひどいいじめに遭った時、また障害を持つことでの差別や困難に遭った時、自暴自棄にならず、何とか打開しようとする精神力の源泉は何かしら?と考えました。愛情あるご両親に育てられた人ならではの強さでしょうか。そして、大きな壁を一つずつ丁寧に越えてきた栗木さんに、新たな障害が現れた。今度もかなり手ごわい相手ですが、「立ち上がれ我が身よ/立ち上がれ我が心よ」と自身を鼓舞する言葉に込められた強い気持ちが、貴方に大きな力を与えることを願っています。

鈴木 ひとみ(ユニバーサルデザイン啓発講師)

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