NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『今を生きる』

〜受賞のその後〜

岩下 利行 いわした としゆきさん

1970年生まれ、無職、東京都在住
筋委縮性側索硬化症
38歳の時に第43回(2008年)優秀受賞

岩下 利行さんのその後のあゆみ

『今を生きる』

延命治療

2013年1月31日午前10時、私は手術台の上に居た。「ついに、気管切開の日が来てしまった」という思いだった。2002年2月にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された時、医者から「一般的に3年で呼吸が出来なくなり、気管切開による呼吸器が必要になる」と言われていた。あれから11年…感慨深い気持ちもあったが、手術後の自宅での生活の方が不安であった。
 ALSは運動をつかさどる神経細胞が死滅し、徐々に全身の筋力が弱くなる病気である。進行性の病気で、一般的に発症から3〜5年で全身の筋力が失われ、自分で食事や呼吸が出来なくなる。現医療では治療法が無く、対処療法の延命治療(気管切開による呼吸器装着)しかない。ALS患者にとっての悩みは、延命治療するかどうかの選択を早い段階で決めなければならないことである。呼吸器を装着しなければ「死」を意味するし、呼吸器を装着すれば「生」を意味するが、家族の介護負担が想像以上に重くのしかかる。延命治療を望まない人は「家族に迷惑を掛けたくない」と思い、延命治療を望む人は「家族と一緒に居たい」と思うのであろう…延命治療の選択は患者自身の「生き方」の問題であり、患者自身が決めなければならない。

岩下さんと家族の写真

ALSと診断されたのはまだ結婚3年目で、息子が1歳の時だった。妻は、ALSの予後を十分に承知した上で「もう一人、子どもが欲しい」と言った…
私は決めた。
「自分の運の悪さを嘆いている暇はない」
「妻と息子、これから生まれてくる子どもの為にも生きたい」と。
私には、もう一つ「生きたい」理由がある。それは「両親」である。私も「子を持つ親」として「子を失う」ことは、これ以上の悲しみはない。両親よりも「一日でも長く生きる」ことは、私に出来る「親孝行」である。
「家族と一緒に居たい」
「両親を悲しませたくない」
これが私の延命治療を希望する理由である。

気管切開

手術の2週間程前に、私と妻は担当医から手術について説明を受けた。「手術の目的」、「手術の内容」、そして「手術後の生活」について話を聞いた。最後に、手術の「同意書」に署名する上で担当医が私たちに尋ねてきた。「退院後は御家族が介護するのですね?」と。私たちは初めて聞くことに戸惑った…妻が「ヘルパー(介護士)さんは?」と尋ねると、「基本は家族です」と担当医が答えた。私は「何故、家族だけで…」と思った。そして、「同意書に署名出来ない」と担当医に告げた。すると、担当医は病室を飛び出して行き、主治医を連れて戻って来た。この病院では、担当医と主治医が別にいる。担当医は入院の度に変わるが、主治医は2001年の初診から変わっていない。10年以上の付き合いのある主治医が私に「何故、署名出来ないのか?」と尋ねて来た。私は「妻の負担が大きいから」と即答した。すると、主治医が病院の方針を話し始めた。「自宅に戻ってから家族の介護体制が整っていない為に病院に戻る方がいる。それを防ぐ為に家族の介護体制が整っているかの確認を取っている」と。結局、当初の予定していた手術日は中止となり、病院側と家族で話し合いをすることになった。
 病院側の言うことも理解出来る。気管切開をすると、必ず「吸引」が必要になる。「吸引」は、家族以外では介護士も認められているが、「知識」と「研修」と「責任」が求められる。介護事業所によっては「吸引」を受けない所もある。「吸引」をしてくれる介護事業所が見つからない場合は家族しかない…「吸引」は平均1〜2時間おきにする必要があるが、決まった時間でするのではなく、突然に「吸引」をすることが多い。だから、病院側は「家族が介護」と言ったのだと思う。しかし、そうしたくても出来ない家族もある。介護者が高齢の場合…子どもが幼く、患者に手が回らない…経済的に介護者が働かないといけない…等々。その時、延命治療を希望している患者はどうなるのだろうか…
(*同意書に「家族が介護」は書かれていない。)
話し合いの結果、「家族が介護」をすることで妻が手術の同意書に署名した。

呼吸器装着

麻酔から覚めた私に「岩下さん…岩下さん、息をして下さい」と叫んでいる。そう言えば、担当医が「手術後すぐに呼吸が出来れば、呼吸器は着けない」と言ったのを思い出したが、息が出来ない…気管切開した穴から、どうやって呼吸をして良いのかが分からない…分からないまま時間が経ったが、苦し過ぎて自然と息をしていた…担当医が「岩下さん、その調子です」と言っている。
 手術は無事に終わり、呼吸器を着けないで病室に戻った。その後の検査でも呼吸状態は正常であった為、呼吸器は着けないことになった。手術後の経過も良好で、2013年2月27日に退院が決まった。
 「ただいま」、「お帰り」。子ども達と妻の何気ない会話が私を「家に帰って来た」という気持ちにさせてくれた。私が落ち着いた生活を取り戻す一方で、妻の負担が増えていった。寝たきりの私に代わり、妻が2人の息子の「子育て」、全ての「家事」、「仕事」をしている。ただでさえ忙しい日々を送っているのに、昼夜問わずの「吸引」が妻を苦しめた…夜中に「吸引」で起こされる…眠りに就いた時に、また「吸引」で起こされる…そんな日々が続く…昼間も「吸引」があるので、仕事を休んでいた…妻は肉体的にも精神的にも疲れていた…そんな時に幸か不幸か分からないが、私は呼吸困難に陥り病院へ緊急搬送された。その日は3月13日。私の誕生日だった…。
 病院に着くと、すぐに呼吸器を装着した。この呼吸器装着はこれまでにない程につらく、苦しいものだった…まだ自分で呼吸が出来ていた為に、呼吸器の送り込む呼吸とぶつかり合って上手く呼吸が出来なかった…私は私自身に「今日で厄が明ける…これ以上悪い事は起きない」と言い聞かせた。装着して3日が経った頃、呼吸器にやっと慣れてきた。入院して10日が経った頃に担当医が「そろそろ退院を考えている。退院前に家族、訪問看護師、介護士に呼吸器の説明をしたい」と言った。
 久しぶりに訪問看護師と介護士に会った。ほぼ全員の20名近くの人たちが集まってくれた。ある訪問看護師が「退院したら奥さんの負担を減らす為にも、早く介護士への吸引指導を始めましょう」と言ってくれた。介護士も「また、頑張りましょう」と言ってくれた。母が私に「あなたも頑張りなさい」と泣きながら言った。

支援者たち

岩下さんと支援者、家族の集合写真

車内から満開の桜を見ながら自宅に帰った。子ども達が「パパ、お帰り」と出迎えてくれた。「家に帰って来た」と思える瞬間である。呼吸器の生活にも慣れた4月の中旬、介護士の吸引指導が始まった。訪問看護師が20名近くの介護士を半年かけて、厳しくも丁寧に吸引指導をしてくれた。また、全ての介護事業所が「吸引」を受け入れてくれた。吸引指導で一人、また一人と介護士の「吸引資格」が認められる度に妻の負担が減っていった。そのお陰で、夏には仕事に復帰することが出来た。本当に有り難いことである。
 家族の介護負担が減る一方で、介護士が家に居る時間が増える…家族にとっても介護士は「大切な人」だが「他人」である…家族にとって「他人」が家に居るのは精神的に負担が大きい…家族のプライバシーを守ることは訪問介護士にとって永遠の課題であろう…。
 何かあったらすぐに対応してくれる病院。2週間に1度、往診に来てくれる地域の主治医。日々の健康管理をしてくれる訪問看護師。献身的に介助をしてくれる訪問介護士。声を聞くだけで「薬」になる家族。そして、私たち家族を優しく見守ってくれる両親。私は、多くの人たちに支えて貰いながら生きている。
 私は何も出来ない…自分で食事をすることも、息をすることも出来ない…それでも生きている。夫らしいことも、父親らしいことも出来ない…それでも生きることを選んだ。
 笑うことも、泣くことも出来る。今を生きていれば喜びを感じることも、悲しみを感じることも出来る。「今を生きる」ことは、私が出来る「人生」の「生き方」である。

福祉賞50年委員からのメッセージ

人は、誰かの子どもとして生まれ、やがて誰かの親になり、自分の親を見送り、いつの日か自分が見送られる日に備えます。それが「自然」の流れなのかもしれません。その「自然」を「障害」が阻もうとしたとき、岩下さんは延命治療とそれに伴う家族の負担増を受け容れ、生きることを選択します。かつて難病によって生活が一変していく中、「ひとりではないから」と立ち向かった岩下さんの芯の強さは変わらず、それを支えるご家族や支援者の思いも変わらないのでしょう。

玉井 邦夫(大正大学教授)

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