NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『手さぐり老人成長期』

〜受賞のその後〜

喜多嶋 毅 きたじま つよしさん

1946年生まれ、視覚特別支援学校講師、奈良県在住
視覚障害
49歳の時に第30回(1995年)佳作受賞

喜多嶋 毅さんのその後のあゆみ

『手さぐり老人成長期』

役員経験が行動範囲を広げる

転機を迎えたのはこの賞を受けて数年後のことであった。それまでの私は、失明以前の自分を払拭もできず、一方では中途失明者として行動力や点字の読み書きに不安をいだきながら、遅々とした日々を送っていた。その私に、突然盲学校でマッサージや鍼灸を教える教員で構成される日本理療科教員連盟(理教連)から情報処理の役員に就任してくれないかとの依頼があった。自宅のある奈良県内でも行動に不自由を感じていた上、情報処理からは既に撤退していた私にとって、どうしても適任者とは考えられなかった。しかしながら、私を推してくれた役員が、情報処理に詳しい委員はもう集めている、ただまとめ役だけをしてくれればいいとのことで、推挙してくれた彼のためにも受けるしかなかった。不安感を払拭しえないまま、手引きボランティアをお願いするなどして私の役員生活はスタートしたのである。

理事会前夜、常宿にしているホテルに入る。そこで、岡山、福井の役員の先生方と一緒になり、3人揃って白杖1本で外に出かける。もちろん、私は最後尾について歩く。1軒ではすまず、2軒、3軒とまるで動物的な感覚で店から店へと流れていく。どんなに夜遅くまで飲んでいても朝起きると、ホテルの近くの飯屋に行く。それからもう一度ホテルに戻り、洗面をすませ、駅前に出て理事会の開催される盲学校までタクシーで行く。そして理事会終了後は目の見える役員に送ってもらい、東京駅に行き、同じ新幹線でまた飲みながら家路につく。あまりの大声に、車掌に注意されたこともしばしば。そして帰宅後は、パソコンで打ちこんでおいた議事録を校正し、会員用のメーリングリストに速報として送信した。これも、点字の漢字を学び、視覚障害者用ワープロで即座に書きこめるようになっていたからである。詳細な情報は年数回発行される理教連情報により入手することはできたのであるが、たとえ速報だけでも会員に配信することにより、この委員会の活動とその意義をいち早く広めることとなった。

1期2年が終わり、役員改選の時期を迎えることになった。ところが、急遽会長候補が降りることになり、また副会長1名も勇退することになっていたので、新たな体制作りを急がなければならなくなった。その結果、会長を含め、多くの役員が教員養成施設で私とほぼ同期の者で占められることとなり、その結果、新しい理事会でも中途失明で年齢が一番上だった私がまたまとめ役を兼ね、副会長となることになった。次第に外向きの役も回ってくることになり、上京して、一人で行動しなければならない機会も増えてきた。一応、2年間も先輩役員に鍛えてもらったこともあり、いささか不安でもあったが、いつものホテルに一人で行き、一人で一夜を過ごす機会も増やすこととなった。

東南アジアにマッサージ指導へ

ところで、私が自分自身のことにかまけている間、仲間の何名かが、機会を見つけ、東南アジアの視覚障害者にマッサージを指導する活動にもあたっていた。その多くは単発的な取り組みであったが、今から10年ほど前に筑波技術大学が日本財団の応援を得て、AMINというアジアの視覚障害マッサージ師の指導者の育成事業に取り組むことになった。そのためのテキスト作りが必要となり、私にも分担執筆の依頼がきた。

東南アジアの街並み写真 東南アジアにて記念撮影

テキストの完成とともに、2007年12月下旬に私はカンボジアの視覚障害者のマッサージ指導の一行に加えていただき、成田を飛び立つことになった。ホーチミンまでは大型ジェット機で、そしてそこからは双発のプロペラ機でプノンペンに着いた。空港からホテルに向かうタクシーは日本製と仲間から聞いたが、ドアのしまりも悪く、クーラーもない代物であった。内乱に明け暮れ、その残骸がまだ至るところに残っているかと想像してきたのに、ホテルは古色蒼然としていたものの、はなやかささえ感じられた。しかし、一歩外に出ると、交通信号もほとんどなく、車道は車や二人乗り、三人乗りの単車であふれ、警笛と急ブレーキの音があちこちで響き渡っていた。私達の一行は6人で、1台のツクツク(三輪タクシー)をつかまえ、カンボジア料理の店に向かった。12月下旬とは言え、熱帯の夜の風は気持ちよく、町の喧騒とは一線を画する空間を作り出していた。10数分ほどで目的の店に着いた。料金はと言えば、乗る前の交渉で、たったの1ドルであった。目的の店はテラス風の構えで、席に着くやいなや、花売りの少女が来る、靴磨きの男の子が来る、そしてお菓子売りの少女が来ると言った次第で、おちおちと飲み食いができない。日本の昭和20年代、30年代もさもあらんと思っていたところ、この子達は皆ワンセグ付きの携帯電話を持っていると同僚から聞き、見えない私は貧乏なのか裕福なのか想像がつかなくなった。しかし、インフラの点から考えれば固定電話より携帯電話の方が施設・設備に費用がかからないなと変なところで納得。かくして熱帯の一夜はまたたく間に過ぎ去った。

翌日、町をよく見ると、中国整体やタイ式マッサージ等、けっこういろいろな治療院が軒を並べている。日本でマッサージを学んだ視覚障害者は「seeing hands」という施術所を設け、マッサージをしているとのことで、全国に10箇所前後も店舗があるとのことだった。特に日本で学んだ女性は、毎日7人から10人も施術し、公務員の数倍も稼いでいるとのことであった。

70歳、それでもまだ人生の階段を登り続けたい!

カンボジア盲人協会で開催された講習会には全国から視覚障害マッサージ師が集まってきた。通訳には、JICAから派遣され、そのままカンボジアに残っている日本人女性と、東大や京大大学院等で学んだというカンボジア人の男性2名が当たってくれた。受講者を3班に分け、各班に講師1名を配置したが、教えようとすると、講師と施術を受ける人の周囲にびっしり集まり、あちこちから私の手の動きを確かめようと手を伸ばしてくる。順番に回りますから待ってくださいねと言っても、少しでも技術を身につけようと手がからみつく。いやはやたいへんな向学心である。日本の盲学校の理療科生徒もかくありたいものだ。

視覚障害マッサージ講習会の模様

しかし、教育水準がばらばらで、小学校にも行ってない者からある程度の高等教育を受けた者まで、全くの寄せ集め集団で、施術をしていくラインの取り方から一つ一つ説明せざるを得なかった。また、一口にマッサージと言っても、それぞれが独学で修得したもので、その手技も順序も十人十色であった。

強い刺激を好むカンボジアにあって、日本で重視される親指でもむ方法を教えるが、筋肉からはずれ、骨の上をごしごしもむ。ストレッチを教えようとすると、いたるところで悲鳴が上がる。痛いのがいい施術と思い込んでいる彼らは、最もしてはならない衝撃的なストレッチを行い、笑っている。短時日のうちに教えるにはどうしたらよいものやら、次第に頭が痛くなっていく。それでもマッサージなら仕事ができる!その気持ちが彼らをゆり動かし、「これでいいか?」とばかり、親指が私の体に飛んできて、いたるところをもむ。さらには、一人が右側を、別の一人が左側をストレッチする。何とか生活の糧を得ようとする彼らの熱意は次第にそれなりの形を作っていった。

その後、ベトナムに行っても、また、タイやミャンマーに行ってもこれらの視覚障害者の向学心のすさまじさには毎度のことながら驚かされた。ところで、彼らの失明の原因と言えば未だ感染症によるものも多く、また地雷や枯葉剤等戦争後遺症によるものも相当数占めていた。日本はと言えば、成人病関連による失明が多く、高齢化傾向、減少傾向の中で、仕事に就きたいという熱意さえ薄れた生徒も見かけるようになってきた。仕方がないと思っていた日本の教育、仕方がないと思っていた自分自身。反省ばかりが沸々と湧いてきたが、せめてこれを日本の教育に生かしたい。体験談を語るが、裕福に慣れ親しんだ生徒の心にどの程度訴えることができたか?

喜多嶋さん記念撮影写真

一方、この経験をもとに、2年に1回、東アジアから東南アジアにかけて開催されるアジア太平洋地域マッサージセミナーでは4回連続発表と実技のデモンストレーションを行ってきた。そこで知ったことは、日本のようにマッサージの免許制度が確立している国はまだまだ少なく、しかも、視覚障害者に一定のカリキュラムでマッサージを教えている国も少ないということであった。しかし教育水準が低いと思っている国々の数少ない盲学校においても、母国語と英語の2カ国語が教えられていて、各国のリーダーは英語を駆使して参加していたのだった。

最初は小心の私は、乏しい知識を恥じて英会話など、口の端にものせなかったのであるが、それも次第に大胆になり、人との間にも入っていけるようになった。国内では九州から東北まで、一人で様々な場所を招かれるまま動いていたが、ついに、昨年はとうとう韓国インチョンまで一人で往復することに挑んだ。

さて、今年はまだ片道1時間半をかけて常勤で講師生活をしている。そこで、マッサージ支援で知り合った海外の友人のところか、ニュージランドにいる長男のところにでも暇を見つけ行こうかと考えている。そして、来年は70歳の大台。暇をもて遊ぶことなく、新たな夢に向かってステップアップしたいと今から心積もりしている。

福祉賞50年委員からのメッセージ

昭和21年生まれの猛烈商社マンが難病のベーチェット病で突然の失明。「くやしいから頑張るのです」と言う努力の人が、父親になりゆくなかで生き方が変わったことを克明に綴った受賞作品は49歳のときのもの。あれから20年。来年は70歳になるという喜多嶋さんは、活動のフィールドを全国から東南アジアに広げています。現地では失明の原因は未だに感染症が多く、地雷や枯葉剤など戦争後遺症も相当数。アジア人としての出会いが「まだ人生の階段を登り続けたい」「ステップアップしたい」につながります。

薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)

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