現場リポート

ぼくたちの「塾」はご近所さん--家族で始めた学び塾「猫の足あと」

高校進学。子どもから大人の世界に踏み出す大切な第一歩。進学に向けて中学生の半数以上が塾に通っていると言われています。ところが、様々な理由で納得のいくようなスタートラインにつくことができない子どもたちがいます。経済的に厳しい家庭、「お金を払ってまで塾に通うのはちょっと・・・」と考える家庭、「塾の勉強にはついていけない」とあきらめてしまう子ども。貧困化が進む中、状況はますます厳しくなっています。
そんな子どもたちに寄り添って学習を応援する取り組みがあります。「無料塾」です。東京都西東京市にある「猫の足あと」もそのひとつ。立ち上げたのは小学校教師の岸田 久惠さん(56)とその家族です。家庭ならではの学習の様子を取材しました。

写真:ひとつの部屋で勉強に取り組む生徒と先生たち

学習中は、会話がいっぱい

写真:岸田さん自宅の外観

午後7時前、元気な声で「こんにちはー」とあいさつしながら、中学生が一人、また一人と岸田さんの家にやってきました。近隣の中学校の3年生の男子5人です。勉強部屋は8畳の部屋。テーブルが2つ並んでいます。子どもたちは部屋に入るとすぐにテーブルを囲むように座り、勉強を始めました。子どもたちが座ると、すでに岸田さんの家に集まっていた大学生たちが子どもたちの間に座ります。「猫の足あと」の「先生」たちです。

先生が座ると、早くも「ここはどういう意味?」と質問する生徒。
「be able toって、習わなかった? これでcanの意味になるんだよ」と優しく教える先生。

写真:課題に取り組む生徒と、教える真輝人さん

他の生徒は、「1-1/2は…、うーん…」とかなり悩んでいる様子。こちらでは数学の課題に取り組んでいますが、分数の計算が苦手な様子。
隣にいる先生が「1/2は1の半分ってこと。だから?」とヒントを出します。
ヒントをもらって、「分かった! 1/2」と、うれしそうに答えていました。


写真:もくもくと一人で課題に取り組む生徒

また別の生徒は、黙々と一人、社会の課題に取り組んでいます。
一人一人取り組んでいる教科が違い、部屋の中ではいろんな質問や会話が飛び交っていますが、みんな自分の課題に集中して取り組んでいました。


塾の「先生」は家族とボランティアの学生

「猫の足あと」は中学3年生を対象にした「無料塾」です。久惠さんの自宅を開放して、今年の4月から始まりました。毎週月曜日の午後7時から9時までが学習の時間です。30分の休憩をはさんで45分の学習時間が2回の時間割です。教えるのは久惠さんの他に、「ごくたまに教えます」と言う夫で中学校教師の幸雄さん(54)、大学2年生の長女・有理さん(20)、高卒認定試験に合格し大学を目指す長男・真輝人さん(18)の一家4人。他に、有理さんの友人で、ボランティアで参加している大学生の鈴木 美咲さん(19)と勝又 聖美さん(19)の合計6人が「先生」です。

「自分に合わせてくれるから、分かりやすい」

「猫の足あと」の魅力は、何と言ってもマンツーマンで先生がついてくれるところです。子どもたちに「猫の足あと」に来て良かったところを聞いてみると、5人とも「一人一人をみてくれて、自分に合わせてくれるから分かりやすい」と教えてくれました。

写真:数学の問題用紙

飯塚 龍太郎さん(15)は、親御さんに進められて猫の足あとに通い始めたのですが、初めは気乗りしなかったそうです。でも、いまでは楽しみにしているそうです。 「塾に来ても、勉強についていけるのか心配だったんです。でも、1対1でついてくれて、自分に合わせてくれる。分からないところを分かるまで教えてくれるのがいいです。まだまだ数学と英語が苦手だけど、他の教科の成績は少し上がったんです」とうれしそうに話してくれました。

「一緒に考えることが大切」

写真:課題に取り組む生徒と、教える有理さん

「猫の足あと」の毎回の学習内容を考えているのは有理さんです。基礎的な学力をつけながら応用までできるように、教材は教科書の他に、都立高校の入試の過去問やネットで見つけた練習問題などを使っているそうです。定期テストの前にはテスト範囲を集中的に勉強することもあるそうです。
有理さんに心がけていることを尋ねてみると、「一人一人について教えることが基本ですが、生徒同士で意見を出し合って考えてやっているときには見守っています。それでも『なんで?』と聞かれたときには、なぜなのかを一緒に考えるようにしています。教科書通りに公式とかを教えても、なぜなのかが分からなければ、同じ繰り返しになってしまうんです。自分自身で納得した答えを導き出すことが大切なんです」と教えてくれました。

「食事で親睦。貴重な時間です」

写真:塾の全員で食事中

「猫の足あと」の魅力は、マンツーマンで先生がついてくれることだけではないようです。子どもからも先生からも評判なのが、久惠さんが腕をふるう晩御飯です。みんなから「おいしい」と大評判。
30分間の休憩が夕食の時間です。休憩時間になると、みんなで料理を運んだり、食器を並べたり夕食の準備をします。
「今日のご飯は何?」と親しげに尋ねる生徒に、「今日は串カツだよ。旅行に行ったときに買ってきたしらすもあるよ」と答える久惠さん。生徒たちはすっかり慣れている様子です。 食事が始まると、学校であったことやテレビの話題などで、食卓はとってもにぎやかです。
「大勢で囲む食卓って和みますよね。とっても貴重な時間なんですよ」と久惠さん。 子どもたちは塾に来た当初は緊張していることが多く、口数も少なめなのだそうです。けれども、大勢で囲む食卓で緊張がほぐれていって、少しずつ話してくれるようになるそうです。久惠さんは続けて「話してくれるようになると、勉強のときにも、分からないことを質問してくれるようにもなるんです。質問されると、その子の得意な部分と苦手な部分が分かって、教える側も学習の対策ができる。みんなのおなかも満たせて一石二鳥です」とにこやかに話してくれました。

子どもたちの成長にとって、食事は大切な要素ですが、孤食、朝ごはん抜き、食べても菓子パンやスナック菓子などで1日3食を満足に食べられていない子どもが増えている現代。みんなで食卓を囲み、温かい食事を、会話を楽しみながら食べ、そのことが勉強にも役立っている岸田さんたちの取り組みは、食事の大切さを再認識させてくれました。

「近所の人が勉強を教えてくれる環境を取り戻したい」

写真:岸田 久惠さん

1978年4月、大学を卒業した久惠さんは東京都の小学校教員になります。初任地は荒川区の小学校でした。子どもたちと触れ合うことが好きで教員になったため、授業以外にも放課後に子どもたちと校庭で遊んだり、ザリガニ釣りにいったりと、やりがいを感じる楽しい日々だったそうです。 その後、武蔵野市や田無市(現・西東京市)の小学校で教べんをとりますが、年々増える会議や研修、事務作業などのため、子どもたちと触れ合える時間が減っていったそうです。
2008年4月、久惠さんは東京都の教職員組合の専従となります。職場は新宿区にある都庁。子どもたちとの関わりがほとんどなくなってしまいましたが、籍を置いている区内の小学校で目の当たりにしたのは、子どもたちの家庭の多様さと経済格差でした。外国籍や一人親の家庭、夜に親が働きに行って子どもと顔を合わせることが少ない家庭。その一方で、進学塾に年間100万円も払っている家庭。これまでの教員生活でも子どもたちの生活実態の差を感じてはいたそうですが、驚きだったそうです。 久惠さんは『子どもたちと触れ合いながら、困窮している家庭の子どもたちのために何かできないだろうか』と強く感じたそうです。

組合にいる久惠さんは、定年退職した元教員たちに、学習ボランティアを呼びかけています。それに応えて協力を申し出てくれる方もいるそうです。しかし、教えたい人と教わりたい生徒の住んでいる地域が遠かったり、希望している教科が合わなかったりと、結び付けられないことが多いそうです。『ミスマッチを少しでも解消できれば』という思いが募っていきます。
2011年2月、教員である久惠さんは、『私ができることは教えること』と、「無料塾」の開設を決意したのです。

さらに、久惠さんには、もうひとつの思いがありました。それは家族で取り組むことでした。幸い夫婦ともに教員だったことに加えて、有理さんは家庭教師や塾の講師のアルバイトをしていること、真輝人さんも教えることは苦にしていないようだったため、自宅を開放して家族で取り組むことを提案したそうです。

なぜ家族で取り組みたかったのか尋ねてみました。久惠さんはこう答えてくれました。 「私が子どもだったころ、隣に住むお姉さんにレース編みや勉強を教えてもらっていました。そのころは隣近所に住んでいる家族が身近で、地域の人に教わる、または教えることがごく当たり前でした。地域で子どもを育てる『地域の教育力』があったんだと思います。でも最近では、隣に住んでいる人の顔を一度も見たことがないなんてことを聞くくらいで、地域に知っている人がいなくなってしまうんじゃないかと思えます。そういう環境は寂しいですし、子どもにとっても良くないと思うんですよね。近くに勉強を教えてくれて、気軽に行き来できるご近所さんのいる環境を取り戻せたらいいなと。だから家族で取り組みたかったんです」。

「子どもが前向きになってきています」

久惠さんのもとには保護者から「子どもたちが自主的に勉強に取り組むようになったんです」という声が届いているそうです。茂呂 一明さん(15)の母親も声を届けた一人です。一明さんが「猫の足あと」に通うようになってから、自主的に課題に取り組むようになったことだけではない成長を感じているそうです。 一明さんの母親は「将来についても前向きになってきているんですよね。地図が好きなので、国土地理院の職員になってみたいなんてことを言ってきたり。先生もいいな、なんてことも話してきたりもするんです。身近に親身に教えてくれる人ができたことがうれしいみたいです」と話してくれました。

学習に励む子どもたちは、どこか楽しげに見えました。分からないことがあっても、相談できて教えてくれる人がそばにいることが安心につながっているようです。いまの子どもたちに必要とされている「学び」のひとつの姿ではないかと感じました。(高)

(2011年11月8日記)

無料の「塾」が広がり始めている背景には、日本の子どもの貧困率の高さがあります。厚生労働省が公表した2010年国民生活基礎調査によれば、日本の子どもの貧困率は15.7%。およそ6人に1人の子どもが「修学旅行などの学校行事に参加できない」、「ランドセルや文具などを買いそろえることができない」、「高校や大学への進学をあきらめる」といった経済的に苦しい状態にあることを示しています。そのような子どもたちに学ぶ機会を提供するため、各地のNPOやボランティア団体、福祉関係者、弁護士、議員、会社員、学生など様々な人が、様々な形で取り組み始めています。